私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

牧師室より5

牧師室より5

※以下の内容を毎日メールで配信希望者は、教会のメールアドレスまで「牧師室より、配信希望」とご一報ください。

※過去のものは右サイドのメニューバーの下の方の「牧師室より1、2、3、4」をご覧ください。

2025年4月22日 火曜日

おはようございます。 

マタイ6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

種を蒔き、刈り入れ、倉に納めることは、何か月にもわたる計画と展望、実行が必要です。 これはとても大事なことですが、大丈夫だろうか、うまくいくだろうか、という不安や心配がつきまといます。 

空の鳥には、そのような長期計画もそれゆえの不安もないように見えます。 けれども、神さまは鳥を養ってくださいます。 

わたしたちは、明日はどうなるだろうと思い煩いますが、 おなじように、神さまはわたしたちを支え、導いてくださいます。 

鳥は何もしていないように見えても、じつは、翼を力強く動かしています。 神さまが養ってくださるから、その力が与えられるのでしょう。 

わたしたちも、つねに心臓というポンプを動かし血液を体中に巡らせていますが、 その力は神さまからいただいています。 

わたしたちはいつも神さまに生かされています。 

だから、明日のことを思い煩わなくてもよいのです。

2025年4月21日 月曜日

おはようございます。 

マタイ6:25 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

わたしたちは、あれがない、これがない、と心配になります。 

けれども、食べ物がなくても命があるではないか、衣服がなくても体があるではないか、とイエスさまは教えてくださいます。 

もちろん、最低限度の食べ物も衣服も必要です。 すべての人には生存するための衣食住がなければなりません。 

イエスさまはそのことは十分にご存じです。 

しかし、そのようになければならない食べ物や衣服がないときでさえ、神さまは、わたしたちに命と体を与えていてくださる、もっとも必要なものがないときでさえ、神さまは命と体をわたしたちに備えていてくださる、とイエスさまは言われるのです。 

わたしたちは、何もない、と思ってしまいますが、じつは、神さまが与えていてくださる何かがあるのです。 

イエスさまはそれを教えてくださいます。 

わたしたちも、不足しているものばかりでなく、今、いただいているものを大切にいたしましょう。

2025年4月20日 主日(日曜日)

「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(マタイ28:7)

 わたしたちは地上の旅を続けているあいだにも、いくつかの死を経験します。大病、大怪我、落第、不合格、不採用、解雇、別離、不誠実、加害、被害・・・。その苦しみ、その牢獄から、わたしたちはなかなか脱出することができません。

 しかし、わたしたちはずっとそこに留まっているのではありません。ずっとそこにうずくまっているのではありません。なぜなら、イエスさまはそこから外に出たからです。イエスさまは起き上がったからです。

 イエスさまは死にとどまらず、さらに生き続けました。そこがガリラヤです。わたしたちも人生の墓にとどまらず、ガリラヤという人生の舞台で生き続けようとするならば、そこでイエスさまと出会うことができます。そこをイエスさまとともに歩むことができます。

 イエスさまはわたしたちの墓の外で待っていますが、わたしたちを墓から連れ出してくれるのもイエスさまです。イエスさまはすでに墓を出てガリラヤを歩いている、といううれしい知らせ、福音が、わたしたちを閉所から空の下へと大地の上へと導きだしてくれるのです。

 わたしたちより先に地上の旅を終えた友らも墓の中に閉じこもってはいません。友らも、死者の中から復活して、わたしたちより一歩先にガリラヤを歩いています。友らを墓に求めてはなりません。友らは今わたしたちとともにいます。

 神さまは、イエスさま、友ら、わたしたちを墓に封じ込めません。色とりどりの花と緑の野へと救い出してくださいます。

2025年4月19日 土曜日

マタイ6:24 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。 

富はある程度は大切です。最低限度の衣食住だけでなく、緊急時やささやかな余暇や文化のためのお金は必要です。 

しかし、ぜいたくな生活を求めて、あるいは、お金そのものを限りなく求めて、お金を愛するようなことがあってはなりません。 
そうなってしまえば、それは、お金に仕えてしまっているのです。お金を自分の神にしてしまっているのです。 

最低限度プラスアルファのお金があるならば、あとは、それ以上のお金ではなく、神さまを支えに生きていきましょう。 

わたしたちが、過度の財産ではなく、神さまをこそ慕い求めることを、神さまは望んでおられるのです。 

わたしたちが過剰な富を慕い求める姿を神さまは悲しまれます。 それが神さまの御心です。

ご自身のすべてを無条件に与えてわたしたちを生かしてくださる神さまが、いつもわたしたちと一緒にいてくださる。わたしたちはすでにこのような無限永遠の富をいただいているのです。

2025年4月18日 金曜日

おはようございます。

マタイ6:22 体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。

わたしたちの中にある光とは、神さまのことであり、イエスさまのことでしょう。

周りの人や出来事をよこしまな想いで見れば、そこに秘められている神さまの光は見過ごされ、したがって、その神さまの光は、わたしたちの中に入って来ず、わたしたちの中は暗いままです。

はんたいに、周りの人や出来事や風景を澄んだ思いで見渡せば、そこに込められている神さまの光がわたしたちの中に入ってきて、わたしたちの心は明るく照らされます。

神さま、ものごとの中に潜んでいるあなたの光を見出す心をわたしたちに育ててください。

神さま、わたしたちがあなたの光を受け入れ、わたしたちの心が、あなたによって、今日も輝きますように、お祈りいたします。

2025年4月17日 木曜日

おはようございます。

マタイ6:19 あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。6:20 富は、天に積みなさい。

キリスト教徒や牧師の中にも、地位、名声、称賛、財産など、地上に富を積もうとしたりする人がいます。

そのようなものを求めることは、イエスさまや神さまにはまったく関係なく、むしろ、御心とは反対のものであることを知りつつ、わたしも、そのようなものを求めてしまいます。

けれども、本当はそんなことをしなくてもよいし、そんなこととは一線を画す生き方が求められています。

むろん、最低限度プラスアルファの衣食住や平安は必要です。

しかし、それで十分です。

イエスさまの十字架の道を想いましょう。

執着しないことにまさる富はありません。

なぜなら、インマヌエル、アガペー、シャロームという、朽ちない天の富を、

イエス・キリストによって、わたしたちはすでにいただいているからです。

♪十字架のほかには、誇るものあらず、この世のものみな、消えなば消え去れ♪

2025年4月16日 水曜日

おはようございます。

マタイ6:16 偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

断食中に暗い顔をして、わたしはこんなにも立派な信仰を持っていますよ、と人にアピールしようとする者たちを、イエスさまは「偽善者」と呼ばれました。

わたしも、それと同じようなことをしてしまっている、と告白しなければなりません。

けれども、イエスさまはそんなわたしに「人に気づかれない」ようにする道をくりかえし教えてくださいます。

しかし、報いを求めてではなく、感謝して、人知れず、神さまにお仕えしたいと思います。

人には気づかれなくても神さまは見ていてくださるでしょう。

これにまさる報いはありません。

これ以上の報いを求めれば、偽善者に戻ってしまうかもしれません。

2025年4月15日 火曜日

おはようございます。

マタイ6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

これは、まずわたしたちが人の過ちを赦したら、つぎに神さまがわたしたちの過ちを赦してくださる、というようにも理解できます。

けれども、イエスさまのたとえ話の王はこう言っています。

18:32『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

これによれば、まず神さまがわたしたちを赦してくださったから、つぎにわたしたちも人を赦す、ということになります。

はたしてどちらの順番なのでしょうか。

さらには次のようにも考えられないでしょうか。

わたしたちが人を赦すことそのこと自体が、同時に、神さまがわたしたちをお赦しくださることであり、わたしたちが人を赦すよろこびは、同時に、神さまに赦していただく喜びであると。

いかがでしょうか。あなたは、どう思いますか。

2025年4月14日 月曜日

おはようございます。

マタイ6:9 こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。

わたしたちの「主」であるイエス・キリストが「こう祈りなさい」(6:9)と教えてくださった「『主』の祈り」は、最初に神さまのことを祈り(6:9~6:10)、つづけて、わたしたちのこと(6:11-13)を祈ります。

つまり、神さまを賛美することに基づいて、わたしたちのことの祈りがあるのです。

神さまがおられることに基づいて、わたしたちもここにいるのです。

ありあまる財産ではなく、今日の糧、必要な糧を、

神さまを信頼しきれず、隣人を大事にしきれないわたしが赦されることを、

悪い力から救われることを

祈ります。

これが「必要な」(6:8)祈りです。

2025年4月13日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ6:7 祈るときは異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる。6:8 あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

神さまはわたしたちに「必要なもの」をご存じだとイエスさまは言われます。

「神さまこそがわたしたちの王である」、これがわたしたちにとっていちばん必要なことではないでしょうか。

だから、王である神さまのお名前が賛美されること、地上にも神さまを王とする御国が来ること、そして、神さまの御心に従って御国が治められることを、祈り求めなさい、とイエスさまは言われるのではないでしょうか。

11節に「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」とありますが、そのまえに、王である神さまの御心が地上でなされますようにと祈るのです。

なぜなら、わたしたちに「必要な糧」が与えられることは、神さまの御心だからです。

2025年4月12日 土曜日

おはようございます。

マタイ6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

神さまにおささげする、自分の持っているもの、時間、労力を人とわかちあう。

こうしたことは、人に誇るためにするのではありません。

神さまに救っていただく代金としてお支払いするのでもありません。

ただただ、神さまがわたしたちに与えてくださった恵みと救いに感謝して、それにこたえて、ひそやかになすことです。

神さまはご自分のひとり子イエス・キリストをおしみなくわたしたちに遣わしてくださいました。

イエス・キリストはご自分の生涯といのちをおしみなくわたしたちに与えてくださいました。

はかりしれないこの恵みに心から感謝して、わたしたちは、いただいたものを、ひそやかに神さまにお返しし、あるいは、隣人とわかちあうのです。

2025年4月11日 金曜日

おはようございます。 

マタイ5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

愛を徹底させるのなら、自分を愛してくれない人をも愛するのです。 

自分に挨拶をしない人、敵意を示す人をも愛するのです。 

神さまはわたしたちを徹底的に愛してくださいます。 

わたしたちが悪人であっても正しくない者であっても(45節)愛してくださいます。 

神さまの愛がこのように徹底したものであるように、わたしたちの愛も一部の人だけでなく、自然には(人間的な思い、肉の思いでは)愛せない人にも向けられるものでありたい、と切に祈ります。 

このような愛は、聖書の御言葉に心を動かされ、イエスさまに従って生きて行こうと心を決め、神さまに祈り、わたしたちの心をイエスさまと神さまにお委ねすることによって、少し実を結ぶのです。

2025年4月10日 木曜日

おはようございます。

マタイ5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

イエスさまがわたしたちに「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えてくださる根拠は、まさに、神さまがわたしたちに同じようにしてくださっておられるからです。

いや、わたしたちよりはるかに完全にそのようになさっておられるからです。

太陽は悪人の上にも昇り、雨は正しくない者にも降ります。

それと同じように、神さまはご自分から離れていく者を愛し、ご自分に背く者のために祈ってくださいます。

ようするに、神さまはわたしのような本来は神さまにふさわしくない者を愛し、心を配ってくださるのです。 だから、わたしたちも自分を傷つける人を愛し祈るように促されているのです。

2025年4月9日 水曜日

マタイによる福音書5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

イエスさま以前は、「隣人」は同胞、同じ民族、仲間内を意味しました。自分たちと同じものに属する人びとは大事にするが、自分たちと異なる人びとは受け入れるな、と言うのです。これは今のわたしたちの姿にも通じます。

けれども、イエスさまは、わたしたちと異なる人びとをも大事にし、わたしたちを攻撃するように思える人びとをも受け容れなさい、と言われるのです。

たとえば外国人はわたしたちに害をもたらす、とわたしたちは思い込みがちです。また、自分の意見に賛成してくれない人、反対する人に対しては、反発を覚えます。

しかし、イエスさまはそのような人を愛し、そのような人のために祈りなさい、とわたしたちに教えてくださり、そのような生き方へと導き、その生き方へと変えようとしてくださいます。

自分と同じ人びとだけでなく、自分と異なる人びとをも、イエスさまはわたしたちの隣人としてくださるのです。

2025年4月8日 火曜日

おはようございます。

マタイ5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

「相手が先にやったからやり返す」のであれば、永久に終わりません。やり返された方は、自分がやったことは忘れて、先にやられたと思い、またやり返すことでしょう。

復讐ではなく、冷静に話すことです。

ある大学教員は、学生のレポートの提出が遅れても人格は攻撃せず、「次は必ず期限内に出すように」と冷静に約束させるそうです。人を責めるのではなく、事柄を整えるのです。

こちらの心を傷つける、相手の心無い言葉や態度に対しては、怒りを投げ返したくなりますが、それでは、平和は訪れないでしょう。

わたしたちは、人を傷つけ、神さまをも悲しい思いをさせてしまっていますが、神さまは、それに報復攻撃をなさいません。

むしろ、わたしたちをお赦しくださり、再起の道を示してくださいます。

倒れても倒れても、何度でも何度でも、起き上がれます。

主が起こしてくださいます。

2025年4月7日 月曜日

おはようございます。 

マタイ5:33 「昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 

「誓いを果たす」ということは、自分の意志や努力、能力によってのみ何かをなそうとすることになりかねません。 

しかし、わたしたちは、神さまを信頼することが大事です。自分の弱さ、力のなさを認め、神さまにお委ねするのです。

わたしたちは、自分の思いつきで何かをするのではなく、まずは、神さまの愛、恵みをしっかり受け止め、その神さまの愛に促され、助けられ、神さまの愛に感謝しつつ、その感謝の表れとして、何かをなすのです。 

あるいは、イエスさまの愛の生き方に心を動かされて、イエスさまに従って、わたしたちも人を愛そうとするのです。 

これは、最初に自分の考え、思いつきがあって、それから離れないという生き方とは異なります。 

自分の決心ではなく、神さまの愛に感謝して、それにお応えして、また、イエスさまの愛に心を動かされて、わたしたちは生きたいと思います。

2025年4月6日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ5:31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。5:32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

離縁状を書いて渡しさえすれば、妻を放り出しても構わない、と考えていた夫たちがたくさんいたのでしょう。

けれども、それでは、その女性は生きて行けません。

だいじなことは、かたちだけの「正しさ」ではなく、そこに相手を大切に思う心があることです。

イエスさまは、律法を守っていないと責め立てられ、そのあげく、神さまを冒涜したとされ、十字架につけられてしまいました。

けれども、イエスさまにとって大事なことは、たとえば「安息日には何もしてはならない」という規則ではなく、安息日であっても、人を癒すことでした。

わたしたちも、何が大事なのか、「正しさ」が大事なのか、それとも、神さまと相手を思う愛なのか、もういちど考え直してみようではありませんか。

2025年4月5日 土曜日

おはようございます。

マタイ5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

人はそれぞれ自分のいのち、体、心、考えを持って生きています。人はその人の人生の主人公のひとりです(もうひとりは、神さまです)。

それなのに、わたしたちは人を自分の道具にしてしまうことがあります。相手のいのち、体、心、考え、人生を配慮しないのです。

イエスさまは、姦淫をしないだけでなく、人を自分のための道具にしてしまうことを戒めておられるのではないでしょうか。

わたしが「わたし」であるように、人も「わたし」です。

人も神さまに与えられ、イエスさまが大事になさる「わたし」なのです。

イエスさまがそうなさったように、わたしたちも人を道具とせずに、人の「わたし」を否定せずに、人の「わたし」を心から大事に思い、大事に扱おうではありませんか。

2025年4月4日 金曜日

おはようございます。

マタイ5:21 「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

「 殺してはならない」(旧約聖書、出エジプト記20:13)とは、モーセの十戒でも言われており、わたしたちの多くも守っているつもりでいます。

けれども、イエスさまは、もっと掘り下げなさい、と言われるのです。

あなたは、人は殺していなくても、『ばか』などという言葉や、ひどい態度で、人を深く傷つけていませんか、とイエスさまは、わたしたちに問いかけてくださいます。

そして、これからは、人に反感を持たせてしまうようなことはひかえ、人と平和に生きなさい、とイエスさまは導いてくださいます。

2025年4月3日 木曜日

おはようございます。

マタイ5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

旧約聖書は「律法」「預言者」「諸書」から成り立ちます。「律法」には命令文だけでなく、アブラハムなどの「物語」も含まれます。

旧約聖書は救い主イエス・キリストにおいて成就(じょうじゅ)したとも考えられます。

そういう意味では、旧約聖書はキリスト者(クリスチャン)にとっても、今なお大事な聖典であり、正典です。聖典とは聖なる文書のこと、正典はキリスト教が聖書に収めた聖典のことです。

では、旧約聖書の戒めは、キリスト者にどういう意味があるのでしょうか。

レビ記11:10 しかしひれやうろこのないものは、すべて汚らわしいものである。11:11 その肉を食べてはならない。

これは、うろこのないイカやタコを食べてはならない、という意味のようですが、わたしたちはイカもタコも食べています。

けれども、以下のような戒めは、わたしたちもおろそかにはしないでしょう。

出エジプト記20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。

レビ記19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

これらの戒めをどのくらい守れば天国に入れられるのか、どの程度破れば天国に入れられないのか、わたしたちにはわかりませんが、これらを守ることはひじょうに大切でしょう。

しかも、イエスさまは、ただ殺さなければよい、ただ盗まなければよい、ただ隣人を愛すればよい、とは言われず、これらをもっと掘り下げられるのです。

わたしたちが人を憎んだり、人のものを欲しがったりすることをも、イエスさまは指摘され、隣人だけでなく敵をも愛せよ、と言われるのです。

2025年4月2日 水曜日

おはようございます。

マタイ5:14 あなたがたは世の光である。 5:16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

神さまはわたしたちの光です。

神さまが暗闇を照らしてくださいますから、わたしたちは歩くことができます。

わたしたちがそのように歩く姿を見て、きっと誰かが、神さまの光に気づきます。

わたしの父親は、気が短く、傲慢な人でした。 わたしは父親をひどく嫌っている時期もありました。

しかし、こんな人でも神さまを信じているのなら、わたしにも神さまを信じられるかもしれない、と思いました。

立派な人だけでなく、破れの多い人も、神さまの光を誰かに示しているのです。

「あなたがたは世の光である」「あなたたちは神さまの光を示している」とイエスさまは言ってくださいます。

2025年4月1日 火曜日

おはようございます。 

マタイ5:13 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 

塩は食品を保存します。また、おいしくします。 

わたしたちも、誰かを大切にしたり、誰かの人生の舞台のひとつの点になったりしています。 

神さまがわたしたちをそのようにしてくださったのです。 

わたしたちはここにいるだけで、誰かの生きがいになったり、喜びになったりします。

 「ここにいるだけ」と言いましたが、「ここにいる」ことほど大きなことはありません。 

神さまはこのようにわたしたちを「地の塩」にしてくださいました。 

それに気づかなかったり忘れてしまったりすると、わたしたちは、自分は役立たずだとか、人から捨てられているとか思ってしまいます。 

けれども、じっさいはそうではなく、たとえ、わたしたちはすべての人からは愛されているように思えなくても、何人かの人びとにとっては、とても大切な存在なのです。

地の塩なのです。 

すくなくとも、神さまとイエスさまにとっては、そうなのです。

2025年3月31日 月曜日

おはようございます。

マタイ5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

神さまを信じたり礼拝を大事にしたりすることで、辛い思いをしておられないでしょうか。

信仰を直接非難されるわけではないけれども、神さまを信じるゆえに、苦しい思いをしておられないでしょうか。

「神さま、わたしはあなたをこんなに信じているのに、どうしてこんなことが起こるのですか」と苦しんでおられないでしょうか。

しかし、「あなたは幸いですよ、喜びなさい、あなたは神さまの愛を受けていますよ、

あなたの信仰の先輩たちもおなじように苦しみました、

あなたはあの先輩たちと同じところに列せられているのですよ」

とイエスさまは励ましてくださいます。

人は知らない、わかってくれないあなたの苦しみを、十字架のイエスさまは、良く知っていてくださいます。

あなたとともに、あなた以上に、苦しんでくださいます。


2025年3月30日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

義とは、「神さまから良し!と受け入れられること」ですが、これを大切にするがゆえに、苦しい思いをする人びとがいます。

たとえば、日曜日の礼拝で、神さまを賛美し、祈り、御言葉をいただくことを何よりも大切にしているのに、それを理解していない人から、「今は、それよりも、こちらのほうが大事なはずだ」と責められ、心を痛めている人びとがいます。

あるいは、この世での耐えがたい出来事に遭遇し、神さまを信じるからこそ、かえって、神さま、なぜですか、と苦しい思いをする人びとがいます。

しかし、この人びとは幸いですよ、この人びとは神さまの国の住民ですよ、とイエスさまは言ってくださいます。

イエスさまは、ご自分の大きな十字架を背負いながら、この人びとの苦しみをともに担い、一緒に歩き続けてくださいます。


2025年3月29日 土曜日

おはようございます。

マタイ5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

パレスチナ、ウクライナの戦争が終わりますように、人の命と生活が奪われませんように、と心を込めて祈り続けましょう。

わたしたちに何ができるでしょうか。教会の友の家にミサイルが落ちて来て、人が死に、家が破壊され、生活のすべてが失われたら、わたしたちは毎日そのことを祈らないではいられないでしょう。戦地の知らない人びとのことにもそのように心を深く痛める感受性、想像力を持ちましょう。

人を押さえつけず、むしろ、尊重しましょう。

自分の言葉が人を傷つけてないように、言葉がその場に小さな大事な平和をもたらすように、つねに、考えましょう。

わたしたちの行いや言葉が、イエスさまの愛の御心につながっているものでありますように、祈り求めましょう。

2025年3月28日 金曜日

おはようございます。

マタイ5:8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

わたしたちは、自分の中に、神さまから離れたり、人に無関心であったり、人を押さえつけたりする罪があることを認めなくてはなりません。

けれども、わたしたちはどうせ罪びとですから、と開き直って、そこに居座ってもなりません。

神さまとともに歩み、人を大切にする生き方を、つねに心がけたいと思います。

イエスさまはそのような生き方を貫かれました。

わたしたちがイエスさまのお姿を見て、イエスさまの歩みに倣って歩こうとするとき、そこには、苦しみが伴います。

しかし、苦しみにはるかにまさる幸いがあります。

イエスさまの背中を追って、神さまとともに歩み、人を大切にしようとする祈り、生き方そのものが、何にもまさる幸いではないでしょうか。

2025年3月27日 木曜日

おはようございます。

マタイ5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

「憐れみ深い」とは、自分は上に立って、自分より下に位置付けている相手に、何かを「してあげる」「してやる」ということではありません。

むしろ、相手と同じ立場に立って、自分の思いではなく相手の思いを大事にしようとすることです。

あるいは、相手の下に立って、相手に仕えようとすることです。

イエス・キリストは、十字架という死刑台、つまり、この世界で一番低いところ、一番苦しいところまで降りて、そこから、わたしたちの痛みをともにしてくださるのです。

わたしたちも、上から人を押さえつけようとするのではなく、相手を大切に思い、相手に仕える生き方ができるように、たえず祈り求めましょう。

2025年3月26日 水曜日

おはようございます。

マタイ5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

義とは、どういうことでしょうか。

ひとつは、神さまとの良い関係、そして、それに基づく、人との良い関係のことだとも考えられます。

つまり、神さまの無条件の愛によって大切に受け入れられること、そして、人とも相手を思いやり大切にしあうこととも考えられます。

そのような神さまとのつながり、人とのつながりを、慕い求める人、せつに祈り求める人は、神さまがそのように導いてくださるから、幸いなのだ、神さまに祝福されているのだ、とイエスさまは言ってくださっておられるのではないでしょうか。

自分は正しいと満足せず、神さまや隣人とのこのようなつながりを、つねに、あらたに、心に願い、祈り求めていきましょう。

2025年3月25日 火曜日

おはようございます。

マタイ5:5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

「柔和な」は「へりくだった」とか「やさしい」などとも訳されます。

頑なでもない、傲慢でもない、冷たくもない人びと、

つまりは、人を抑圧せずむしろ大切にする神さまとイエスさまの御心にならおうとする人びと。

そういう人びとは、アブラハムに「乳と蜜の流れる土地」が約束されたように、神さまのおおいなる祝福が約束されています。

砕かれた心は、よく耕された心であり、

それはすでに、それそのものが、神さまに祝福された豊饒な地ではないでしょうか。

わたしたちの心が柔和であるなら、その心こそが、神さまが与えてくださる約束の地ではないでしょうか。

コンクリートやアスファルト、日照りの荒野のように心を固くせずに、

むしろ、指の間からさらさらこぼれるように柔らかな土が黒く潤う

神さまの畑になりたい、と祈ります。

2025年3月24日 月曜日

おはようございます。

マタイ5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

病気、怪我、戦争、災害、仕事、学校、人間・家族関係、精神・・・

これらゆえに、深く悲しんでいる人びとがいます。

もう何年も何年も苦しんでいる人びとがいます。

わたしも苦しみました。

今も痛いです。

けれども、イエス・キリストが、わたしとともに苦しんでくださいます。

わたしの何倍も苦しんでくださいます。

これがわたしの幸いであり慰めです。

ある女性は何年も何年も苦しみ抜きました。

ある日、彼女は、キリストに出会い、後ろから服の房にそっと触れました。

キリストの後ろにいる、ということは、キリストに従う、キリストを信頼してついていく、ということではないでしょうか。

ある女性も何年も何年も苦しみ抜きました。

家族とともに祈り続けました。

ある日、ある人と不思議なめぐりあわせで出会いました。

それをきっかけに、それからも時間はかかりましたが、その人を信じて、その女性の苦しみは和らいでいきました。

あなたのその悲しみはきっと慰めを得ます。

だから、幸いなのです。

2025年3月23日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

山に登って教えるイエス・キリストを見て、ガリラヤの人びとは、かつてシナイ山のふもとで神からの十戒を民に告げたモーセを思い出したのではないでしょうか。

しかし、イエス・キリストは、かつての戒めをそのまま語ったのではありませんでした。

5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

ここには、「心を貧しくしなさい」という響きがあることは否定できませんが、命令文ではないことも重要です。

あなたは今心に穴を抱えているが、神さまはそういうあなたをこそ、今ふところに受け入れてくださる。

だから、あなたは、じつは、幸いなのです。

あなたは、自分は優れている、自分は救われる資格があるなどと傲慢にならず、むしろ、自分は弱く、人を傷つけてしまい、神さまも信頼しきっていない、と心を貧しくしている。

神さまはそういうあなたをこそ今ふところに受け入れてくださる。だから、あなたは、じつは、幸いなのです。

2025年3月22日 土曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:19 わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。5:20 神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。

わたしたちは、とても残念なことに、神さまや隣人には誠実を貫けず、自分が自分がという想いに支配されてしまっています。

けれども、神さまは、それとは正反対で、真実なお方、真に誠実なお方です。

わたしたちが神さまを知ることができるのは、神さまが御子イエス・キリストを遣わしくださったからです。神さまはそのようにして、わたしたちをご自身に帰らせてくださる真実で誠実なお方です。

真実で誠実な神さま、そして、神さまの御子イエス・キリストはわたしたちを包み込んでくださいます。

このように真実で誠実である神さまとつながっていること、この神さまに包みこまれていること、この誠実なる神さまご自身こそが、永遠の命であり、わたしたちは、永遠の命なる神さまの内に入れていただいているのです。

2025年3月21日 金曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。5:15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。

神さまはわたしたちの「願い事は何でも聞き入れてくださる」とありますが、注意したい大事なことがあります。

まず、「その通りにしてくださる」ではなく「聞き入れてくださる」とあることです。

たとえば「○○大学に合格できますように」という願いは、わたしたちの経験上、その通りになるかどうかはわかりませんが、それをたんなる人間の願いではなく神さまへの「祈り」としてささげたならば、神さまは「聞き入れてくださる」「祈りとして受け入れてくださる」ことはまちがいありません。そして、わたしたちの救いのたしかさはこのように神さまが祈りを「聞き入れてくださる」ところにこそあるのです。

つぎに、「何事でも神の御心に適うことを願うなら」とあり「神に願ったことは既にかなえられている」とあります。つまり、「何事でも」とありますが、「神さまの御心に添ったことならば」ともあります。

神さまの御心に添ったこととはどういうことでしょうか。

たとえば、マタイ5章を見ますと、「こころの貧しい人は天の国の住民となる」「悲しむ人は神さまに慰められる」「平和を実現する人々は神の子と呼ばれる」とありますが、これは、イエスさまの御心ですから、このように祈れば、この祈りは聞き入れられます。

また、マタイ6章を見ますと、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「負い目を赦してください」とありますが、これも、イエスさまの御心ですから、このように祈れば、聞き入れられます。いや、すでに、神さまの聖名はたたえられていますし、神の国は来たとイエスさまは言われましたし、わたしたちは罪を赦されて神さまの愛のふところにいます。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)

イエスさまのこの祈りは二段構えになっていますが、上の段を支える下の段の祈りは、神さまの御心に添ったものであり、すでにその通りになり、聞き入れられています。

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