私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

牧師室より4

牧師室より4

※以下の内容を毎日メールで配信希望者は、教会のメールアドレスまで「牧師室より、配信希望」とご一報ください。
※過去のものは右サイドのメニューバーの下の方の「牧師室より1、2、3」をご覧ください。

2025年3月20日 木曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

神さまがわたしたちに与えてくださる「永遠の命」は、永遠なる神さまがわたしたちと結んでくださる永遠の絆、と言い換えても、間違いではないでしょう。

御子イエス・キリストは、まず、天の神さまの御子が地上に人として生まれることによって、それから、「神の国」を言葉で宣べ伝え、癒しなどのわざや斥けられた人びととの食事・交わりによってそれを示し、十字架につけられ、復活し、さいごに、天に帰られることによって、永遠なる神さまをわたしたちと永遠に結びつけてくださいました。

ですから、御子、神の子であるイエス・キリストにつながることで、わたしたちは、永遠なる神さまと永遠に結びつけられるのです。

すなわち、永遠の命を与えられるのです。

2025年3月19日 水曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。

「水と血を通って」とはどういうことでしょうか。

イエス・キリストは、ヨルダン川の水で、洗礼を受けられました。

そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(マタイ3:17)

そして、十字架で血を流されました。

百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マルコ15:39)

イエスさまが洗礼を受けた際は、聖霊自らが、十字架で息を引き取られたときは、百人隊長の口を通して、イエスさまは「神の子」であると証しをなさいました。

5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。

イエスさまは「神の子」であると聖霊が証しをしたのは、神さまがわたしたちに与えてくださる永遠の命は「神の子」の内にあるからです。

つまり、イエス・キリストを「神の子」であるとわたしたちが信じれば、わたしたちは神さまの永遠の命の中へと招かれるのです。

2025年3月18日 火曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

わたしたちは、絶望、不安、所有欲、名誉欲、支配欲、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ(ガラテヤ5:19-21)などに負けてしまいがちです。

わたしたちの中にも、外にも、これらがあり、これらは、わたしたちを愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和(ガラテヤ5:22-23)から遠ざけます。

けれども、神さまの愛から生まれ、イエス・キリストの愛を託されたわたしたちは、これらに負けません。

わたしたちがこれらに打ち勝つように、イエス・キリストが力を与えてくださいます。

神さまの愛そのものであるイエス・キリストがわたしたちとともにいてくださると信じる者は、これらに負けないように、支えられています。

なぜなら、イエス・キリストは、すでに、これらに打ち勝ってくださったからです。

2025年3月17日 月曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。5:2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。

わたしたちがイエスさまをメシア(キリスト、救い主)と信じられるのは、わたしたちが神さまにいのちをいただいた者だからです。

だから、わたしたちは神さまを愛します。

そして、わたしたち以外の人たちも神さまにいのちをいただいていますから、その人たちも愛します。

神さまの掟とは、神さまを愛し、自分以外の人びとを愛することです。

しかし、世の中は、愛とは正反対の出来事で満ちています。

愛はそれに打ち勝ちます。

愛は、憎しみや争い、支配、自分中心という世の価値観に打ち勝ちます。

愛は神さまから出ているからです。

神さまの愛によって、世の中の価値観に打ち勝つ希望を持つ。

それがわたしたちの信仰です。

2025年3月16日 主日(日曜日)

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

わたしたちが神さまと隣人を愛したから、そのご褒美として、神さまがわたしたちを愛してくださる、というのではありません。

まず神さまがわたしたちを愛してくださった(くださっておられる)から、それに感謝して、それにおこたえして、それに促されて、神さまからいただいた愛をわかちあうようにして、わたしたちも、少しでも、神さまと隣人を愛するように、つねに心にそのことを意識し、同時に、祈るのです。

神さまを愛することと隣人を愛することはセットですから、神さまは愛するけれども隣人は愛さない、ということはありえません。

神さまがわたしたちを愛してくださるから、わたしたちも神さまと隣人を愛することをつねにこころがける。 これは神さまからわたしたちへのじつにすてきなガイダンスです。

2025年3月15日 土曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

わたしたちは、洗礼を受けるとき、使徒信条によって「わたしは天地の造り主、全能の父なる神を信じます。わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。」と、信仰を言い表します。

この真ん中には「イエスが神の子であることを公に言い表す」(ヨハネの手紙一4:15)が置かれています。

つまり、洗礼式で上のような信仰を言い表すとき、「神さまがわたしたちの内にとどまってくださり、わたしたちも神さまの内にとどまっている」のです。

16節を読みますと、神さまの「愛を知り、信じ、神さまの愛にとどまる人」も「神さまの内にとどまり、神さまもその人の内にとどまってくださる」ことがわかります。

つまり、15節の「イエスが神の子であることを公に言い表す」ことと16節の「神さまの愛を知り、信じ、神さまの愛にとどまる」ことは、同じこと、ひとつのことなのです。

わたしたちが、洗礼式のみならず、礼拝において、使徒信条で信仰を告白することは、神さまの愛を知り、信じ、神さまの愛にとどまることであり、それによって、わたしたちは神さまの内にあり、神さまはわたしたちの内にいらしてくださるのです。

2025年3月14日 金曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。

世界とわたしたちを創造してくださった神さまは、ご自分のもっとも大切なものである御子イエス・キリストを、わたしたちの救い主、世界の救い主として、遣わしてくださいました。

イエスさまは、このような神さまの御子であり、神さまがわたしたちに遣わしてくださったキリスト、すなわち、救い主です。

わたしたちは、このことを信じます。

このとき、神さまはわたしたちの心の内にいてくださいます。

わたしたちも、神さまの御心の内に招き入れられます。

イエスさまは神さまから遣わされたキリストであると信じれば、
わたしたちの心の内に神さまがいてくださり、わたしたちも神さまの御心の内に抱かれるのです。

2025年3月13日 木曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。

神さまは目には見えません。

けれども「神は愛」(4:8)ですから、わたしたちの間に、誰かと誰かの愛に、愛があれば、そこに神さまがおられるのです。

それは、わたしたちがわたしたちの思いで互いに愛し合っているのですが、じつは、その愛は神さまから出ているものであり、神さまご自身なのです。

言い換えますと、神さまは「ご自分の霊」を、すなわち、「ご自分の息」「ご自分のいのち」「ご自分のお心」「ご自分の愛」「ご自身」をわたしたちにわけあたえてくださったのです。

わたしたちが愛し合うときは、この神さまの愛が、この神さまご自身が、聖霊が働いてくださるのです。

つまり、愛し合う時、わたしたちは神さまの内にいますし、神さまもわたしたちの内にいてくださいます。

2025年3月12日 水曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。

世界とわたしたちを創造してくださった神さまは、わたしたちをこよなく愛してくださいます。

この愛は、抽象的なものではなく、御子イエス・キリストを送って、わたしたちが今日も生きられるように慰め、励ましてくださることに、具体的に現れています。

御子イエス・キリストの生涯、言葉と出来事こそが、神さまの愛なのです。

御子とは神さまのもっとも大切なものです。

もっとも大切なものをわたしたちに送ってくださるほどに、神さまはわたしたちを愛してくださいます。

はてしなく大きいこの神さまの愛に感謝して、また、この神さまからいただいた愛をたがいにわかちあうことによって、わたしたちもたがいに相手の心を想い相手を大切にしあうように促されています。

2025年3月11日 火曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

ヨハネは、この手紙を受け取る人たちを愛し、また、その人たちに、互いに愛し合うように促しています。

なぜなら、わたしたちが互いに愛し合う時の愛は、わたしたちからではなく、神さまから出ているものだからです。

また、その意味で、わたしたちは互いに愛し合う時、神さまから生まれる神さまの子とされているからです。

そして、「神を知っている」とは、神さまと深い交わりにある、ということであり、神さまの愛に包まれている、ということだからです。

ヨハネは、さらに、「神は愛」そのものである、と言っています。

そうであるならば、わたしたちが互いに愛し合う時、わたしたちの間には愛そのものであられる神さまがおられるということになります。

たしかに、神さまは、わたしたちが神さまがおられることがわかるように、わたしたちに愛し合うという道を与えてくださったのです。

2025年3月10日 月曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一4:2 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。

わたしたちは、自分の考えで、イエス・キリストを信じているように思いますが、「イエス・キリストは神さまの子であるけれども、人としてこの世に生まれ、神さまの国を宣べ伝え、十字架につき、復活することで、わたしたちの救い主になってくださいました。わたしはこのイエス・キリストを信じます」というわたしたちの信仰告白は、神さまがわたしたちに遣わしてくださった聖霊によるものなのです。

このようにして、創造主なる神さま、御子イエス・キリスト、聖霊は、三位一体の神さまとして、わたしたちを信仰へと導いてくださいます。

わたしたちは、自分がイエス・キリストを信じ、信頼する心を、つねに大切にしつつ、同時に、その信仰が、じつは、三位一体の神さまご自身からの恵みであることに感謝いたしましょう。

神さまを信頼して、いのちに生かされる。

これこそが、神さまの恵みであり、救いです。

2025年3月9日 主日(日曜日)

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:23 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。3:24 神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

「神の掟」と聞くと、わたしたちはそれを守らなければ神さまから罰せられるもののように思ってしまいます。

けれども、「神の掟」は、神さまからの「お招き」なのです。

わたしたちは、「神の子イエス・キリストの名を信じる」ように、神さまからお招きいただいているのです。

わたしたちは、「互いに愛し合う」ように、神さまからお招きいただいているのです。

そして、「神の子イエス・キリストの名を信じ」「互いに愛し合う」ことは、「神の内にいつもとどまる」ことであり、それは、「神さまがわたしたちの内にとどまってくださる」ことなのです。

2025年3月8日 土曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

イエス・キリストは、わたしたちが神さまにつながって生きることができるようになるために、ご自分の生涯と命を、神さまとわたしたちにささげてくださいました。

わたしたちは、そのことによって、神さまがいかにわたしたちを愛してくださっておられるか、知りました。また、神さまの愛がいかにイエス・キリストに現れているか、イエス・キリストがいかに愛に満ちておられるかを知りました。

この神さまの愛、イエス・キリストの愛を受けて、わたしたちも、自分の命、ライフ、人生、生活を、自分のためだけでなく、神さまと人に少しでもおささげしたいと祈り求めます。

「わたしがわたしが」という自分は黙り、神さまと隣人を主語にして、「あなたが」という日々を、今日も過ごさせてくださいと祈り求めます。

2025年3月7日 金曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。3:15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。

14節の「命」は生物としての生命にとどまらず、神さまや他の人びと、さらには、世界中のすべてとつながった「命」のことです。「命」は、自分一人ではなく、自分以外のものとのつながりのことです。

兄弟、つまり、性別に関係なく、自分以外の人を愛する(大切にする)人は、「命」「つながり」「神さまとのつながり」の中にいるのです。自分以外の人を大切にしない人は、生きていても、死んでいるのです。人とのつながり、神さまとのつながりの中にいないのですから。

神さま、人、世界とのつながりを大事にするとき、わたしたちは、「命」の中にあります。

神さまは、わたしたちを人や世界、そして、ご自分とのつながり、「命」の中に招き入れてくださいました。

わたしたちは、いつまでも、ここに居続けましょう。

2025年3月6日 木曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:11 互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えです。

イエス・キリストは「互いに愛し合うこと」をわたしたちに教えてくださいました。

これは、じつは簡単なことではなく、祈りに基づいた、つねなる心がけが求められます。

さらには、祈りと心がけが沁み込んだ霊の実りが求められます。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。(ガラテヤ5:22-23)

「霊の結ぶ実」は、イエス・キリストの愛の御心に沿って生きようと祈り求める人に結ばれる実なのです。

2025年3月5日 水曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:5 あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。3:6 御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。

聖書における罪とは、一言で言えば、わたしたち人間が神さまと人に心を向けず、愛さないことです。

けれども、御子イエス・キリストは、どんなときでも、神さまと、そして、わたしたちに心を向け、深く愛しておられます。とくに、わたしたちを、無条件に愛しぬいてくださいます。

もし、わたしたちがこのイエス・キリストの御心の内にとどまっているのなら、わたしたちも、神さまと人に心を向け、愛することができるのです。

しかし、わたしたちは、ときに、神さまと隣人から心が離れ、愛するどころか、憎んでしまいます。

戦争は、わたしたちが御子イエス・キリストの御心から離れてしまい、神さまと人を愛することを止めてしまった結果です。

戦争だけでなく、わたしたちは、身近な人との日常でも、神さまと相手への愛を忘れた言葉を発してしまうことがあります。

わたしたちが人を傷つけそうなとき、御子イエス・キリストは、わたしたちをご自分の心の内に戻るように招いてくださいます。

そのイエスさまのお姿を、わたしたちは、いつも探し求めましょう。

2025年3月4日 火曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

イエス・キリストは十字架とそこにいたる道のりでわたしたちの想像を絶する苦しみを受けましたが、そうすることで、キリストはわたしたちとともに苦しんでくださいました。

キリストは十字架の死を超えて復活なさいましたが、そのことで、わたしたちにも、今の苦しみを超える希望を与えてくださいます。

キリストは天の神さまを完全に信頼しましたが、わたしたちも、完全ではなくても、少しでもキリストに倣い、天の神さまを信頼できるように祈り続けましょう。

キリストは天の神さまの愛の御心に完全に従われ、御自身よりもわたしたちを愛しぬいてくださいましたが、わたしたちも、完全ではなくても、少しでもキリストに倣い、自分だけでなく隣人を愛することができるように祈り続けましょう。

2025年3月3日 月曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一3:1 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。

神さまはわたしたちをこよなく愛してくださっておられます。それを感じることができない人もいるかもしれません。

けれども、わたしたちが「神の子」と呼ばれることが、それほどにわたしたちが神さまから愛されていることを表しています。

わたしたちは、「今既に神の子」です。今既に神さまにこよなく愛されています。

しかし、さらには、やがて、イエス・キリストすなわち「御子に似た者」にしていただく日が来る、とヨハネは言います。

わたしたちが「御子に似た者」にしていただくとは、どういうことでしょうか。

イエスさまのように、神さまにすっかり信頼できる者としていただけるのでしょうか。

イエスさまのように、神さまの愛にすっかり従って人を愛する者としていただけるのでしょうか。

皆がイエスさまのようになって、戦争が世界からなくなるのでしょうか。

あるい・・・皆さんは、どう思われるでしょうか。

楽しみですね。

ヨハネはその日が来るのを「知っています」と言っています。

そのとおり、わたしたちが「御子に似た者」としていただける日が、きっと来るのです。

その日を祈りつつ、ともに待ち望みましょう。


2025年3月2日 主日(日曜日)

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:28 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。

わたしたちが御子イエス・キリストの内にとどまるとは、自分はしっかりそうしているとうぬぼれることでもなく、そんなことはできないと失望することでもありません。

そうではなく、御子イエス・キリストを信頼して、少しでも委ねることができるように、また、御子イエス・キリストの愛の生き方、自分が自分がと言ってばかりでなく、相手を大事にする生き方に少しでも従うことができるように、そのように祈り続ける生き方のことではないでしょうか。

イエス・キリストは、わたしたちがお委ねしようとすれば、受け止めてくださるお方です。

イエス・キリストは、わたしたちが従おうとすれば、導いてくださるお方です。

2025年3月1日 土曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:23 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。2:24 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。2:25 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。

「初めから聞いていたこと」とは、「御子イエス・キリストを認めること、信じることは、御父(おんちち)、創造主なる神さまと結ばれる」ということではないでしょうか。

御子イエス・キリストを通して御父なる神さまを信じる信仰がわたしたちの心の内にあるならば、わたしたちも御子と御父の愛の御心(みこころ)の内に入れられているのです。

御子と御父の愛の御心の内にわたしたちは永遠に生かされることを、御子は約束してくださいました。

わたしたちが心の内に御子イエス・キリストを愛し、祈るならば、

御父なる神さまも御心の内にわたしたちを愛し、御心を永遠にわたしたちに向け続けてくださるのです。

2025年2月28日 金曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:15 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。2:16 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。2:17 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

わたしたちの根本の支えは神さまです。

最低限度プラスアルファのお金や財産、知識、立場、人間関係なども、わたしたちの支えになりますが、それらを神さまのような支えにしてはなりません。それらを神さまのように愛してはなりません。

わたしたちの心の空白をほんとうに埋めてくれるものは、わたしたちが今欲しがっているものではなく、神さまなのです。

わたしたちの根本の支えであり、わたしたちをとことん愛してくださる唯一のお方である神さまを信頼して生きていきましょう。

そして、神さまがわたしたちをどこまでも愛してくださる御心の、そのほんのわずかであっても、わたしたちも、自分だけでなく自分以外の人を大切にする心をつねに持てるように祈り続けましょう。

2025年2月27日 木曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:12 子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/イエスの名によって/あなたがたの罪が赦されているからである。2:13 父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。

ここでは三つのことが言われています。

1)イエスの名によって、わたしたちの罪は赦されている。
2)わたしたちは「初めから存在なさる方」(つまり世界の初めにおられ世界を創造された神さま)を知っている。
3)わたしたちは悪い者に打ち勝った(神さまがわたしたちの罪に勝ってくださった)

1)と3)は、すぐに同じことだとわかりますが、2)もそれに結びついています。すなわち、わたしたちが神さまを「知る」(神さまと出会い、交わる)ことと、イエスさまがわたしたちの罪をお赦しくださることは、ひとつのことがらのふたつの側面なのです。

2:14 子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが強く、/神の言葉があなたがたの内にいつもあり、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。

ここでは四つのことが言われています。
4)わたしたちは御父(神さま)を知っている(神さまと出会い、交わっている)。
5)わたしたちは「初めから存在なさる方」(世界の初めにおられ世界を創造された神さま)を知っている。
6)神さまの言葉がわたしたちの内にいつもある。
7)わたしたちは悪い者に打ち勝った(神さまがわたしたちの罪に勝ってくださった)

4)5)7)は1)2)3)と同じですが、ここには、6)が加わっています。

つまり、わたしたちが神さまを知る(出会い、交わる)ことと、イエスさまによってわたしたちの罪が赦されることと、「神さまの言葉がわたしたちの内にいつもある」ことは、おなじことがらの三つの側面なのです。

神さまは、わたしたちと出会い、わたしたちの罪を咎めず、むしろ、お赦しくださり、わたしたちと親しく交わってくださり、「インマヌエル(わたしはあなたとともにいる)」「アガペー(わたしはあなたを無条件に愛する)」「シャローム(わたしはあなたを平安で満たす)」という御言葉として、いつもわたしたちの内にいてくださいます。

2025年2月26日 水曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:10 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。2:11 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。

人を愛する人、人と愛のつながりにある人、人と祈りの輪の中にいる人は、光の中にいる、とヨハネは言います。

なぜなら、「愛は神から出るもので・・・神は愛」(4:7-8)だからです。

わたしたちが互いに愛し合い祈り合うとき、その愛は、じつは、わたしたちから出ているというより、神さまから出ているのです。もっといえば、その愛は神さまそのものなのです。

つまり、わたしたちの間で、神さまは愛として働いてくださるのです。

わたしたちの間に愛・・・求める愛ではなく、支え、仕える愛、相手をこそ大事にする愛・・・が働いているとき、それはじつは神さまが働いていてくださるのです。

そして、「神さまは光です」(1:5)。

だから、ヨハネは、人を愛する人は、愛であり光である神さまの中にいる、神さまに包まれている、と言うのです。

しかし、自分は誰からも愛されていないと思う人もいるかもしれません。

けれども、イエスさまはその人を愛しています。

そのために、神さまのひとり子、イエス・キリストは、人として、わたしたちと同じ世界に生まれてきてくださったのです。それは、イエスさまが人としてわたしたちを愛してくださるためにです。誰からも愛されていない人がいなくなるためにです。

あなたを愛する人がすくなくとも一人はいる、あなたとその人の間には、光であり愛である神さまが働いておられる、そのために、イエスさまは人となられたのです。

2025年2月25日 火曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:7 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。 2:8 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。

ヨハネがこの手紙で述べる新しい掟とは「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うこと」(3:23)です。

しかし、これは、イエスさまに遡る教えです。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34)

さらには、旧約聖書の律法にも遡ります。

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)

ヨハネは今日の聖書の箇所で、古い掟を新しい掟として書いている、と述べています。

イエスさまも、古くからの掟を、今目の前にいる人びとに、あたらしく語り伝えました。

二千年前のイエスさまの言葉、新約聖書の言葉、さらに前の旧約聖書の言葉が、 聖霊の働きによって、今、わたしたちに、新しく語りかけられています。

神さまは、今日も、わたしたちに、

あなたとともにいます、

だから、今日も生きましょう、

神さまの愛の御心にしたがって生きましょう、

と語りかけてくださいます。

2025年2月24日 月曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:3 わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。2:4 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。2:5 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。

ここで言われている「神の掟」「神の言葉」とは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34)のことだと考えられます。

つまり、キリストがわたしたちを愛してくださったようにわたしたちも互いに愛し合うならば、わたしたちは神の愛の内にいるのです。

3節の「神を知っている」、5節の「その人の内には神の愛が実現している」「神の内にいる」は、同じことを言い換えているのであり、「知る」とは「人格的に交わる」ということですから、まとめて言えば、「神さまのとの愛の交わりの内にいる」ということでしょう。

たがいのことを祈り合うとき、たがいのことを大切にしあうとき、わたしたちは「互いに愛し合って」います。そして、そこには、神さまの愛があるのです。

2025年2月23日 主日(日曜日)

おはようございます。

ヨハネの手紙一2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。2:2 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。

罪とは「的をはずしてしまう」ということです。

たしかに、わたしたちは神さまと隣人という「的」からすぐに離れてしまいます。

けれども、神さまはわたしたちをお見捨てになられません。

イエス・キリストが、わたしたちを神さまと隣人に戻そうとしてくださいます。

だから、キリストは「あなたの神さまを愛しなさい」「あなたの隣人を愛しなさい」と、わたしたちを導いてくださるのです。

わたしたちをお見捨てにならず神さまと隣人へと導いてくださるキリストに従って今日も歩みましょう。

2025年2月22日 土曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。

この三つの節の中心は真ん中の9節にあります。つまり、「神は真実で正しい方で、わたしたちを罪と不義から救い出してくださる」というメッセージが中心なのです。

これを真ん中にして、8節と10節は同じことを少し言い換えて繰り返しています。

すなわち、自分は神さまを信頼しきっている、自分は隣人を愛しぬいているなどと言うなら、それは欺きであり、偽りであり、真理=真実も、神さまの言葉もわたしたちの内にないということです。

このように8節と10節を比べますと、「自らを欺く」(8節)ことと10節「神を偽り者」とすることは同じことであることがわかります。自分には罪がないなどと自分を欺くことは、わたしたちの罪を教えてくださる神さまを偽り者とすることなのです。

また「真理はわたしたちの内にありません」(8節)と「神の言葉はわたしたちの内にありません」とありますから、真理=神さまの言葉、ということがわかります。

また、9節に「神は真実」とありますから、8節の「真理」は9節の「真実」つまり「誠実」という意味だとわかります。

神さまはわたしたちにどこまでも「誠実」「真実」なお方です。

神さまの「真実」「誠実」は、御言葉として、わたしたちの内にあります。

ですから、わたしたちは神さまと隣人に対する自分の不誠実さを偽ることなく告白し、

さらには、それにとどまらず、そんなわたしたちをお赦しくださる神さまの「真実」に心から感謝をいたしましょう。

2025年2月21日 金曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

かつてひどく傷ついた場所にいかなくてはなりません。闇に何かが隠れていて突如襲い掛かってくるのではないかという恐れがあります。

けれども、神さまが光になってくださいます。

イエスさまがそう教えてくださいました。

わたしの心にも深い闇があり、どこまでも自分中心で、人を傷つけつづけていることでしょう。

けれども、神さまが光になってくださいます。

神さまは、聖書の御言葉をとおして、祈りをとおして、そして「互いの交わり」をとおして、互いに祈り合うことをとおして、わたしたちの闇に光を射してくださいます。

今日の予定に不安があっても、神さまが光を射してくださいます。

2025年2月20日 木曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

「この命」「この永遠の命」とは、イエス・キリストのことです。

イエス・キリストは天の「御父と共に」おられましたが、地の「わたしたち」のところにお越しくださったのです。

天の神さまのところにおられたイエス・キリストがいまやわたしたちと一緒にいてくださる。

こうして神さまとイエスさまがわたしたちと交わってくださる。

神さま、イエスさまがわたしたちを愛してくださる。

このことをヨハネはわたしたちに「証しし、伝え」てくれるのです。

「わたしたちの喜び」とは「御父と御子イエス・キリストが(わたしたちと)交わってくださる」ことから来る喜びですが、この喜びは「あなたがたとわたしたちとの交わり」つまりわたしたち人間同士の交わりから伝わってくることがあります。

わたしたち人間同士の交わりが、神さまへの祈りに基づいているならば、つまり、互いに相手のことを神さまに祈り合うことに基づいているならば、そこからは、神さまとわたしたち、イエスさまとわたしたちの交わりの喜びが伝わってくるのです。

神さま、イエスさまとの交わりの喜びは、聖書の言葉を通して、祈りを通して、そして、たがいに祈り合うわたしたちどうしの交わりを通して、「満ちあふれる」のです。

2025年2月19日 水曜日

おはようございます。

ヨハネの手紙一1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。

イエス・キリストは、世界を創造された神さまとともにおられます。「初めからあったもの」とは、このことを意味します。

同じことをヨハネによる福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1:1)と述べています。この「言」もイエス・キリストのことです。

しかし、このイエス・キリストが二千年前にわたしたち人間のところに来てくださいました。「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」とはこのことを意味しています。

二千年前、イエスさまは地上に生まれ、人びとに神さまのことを語り、病人に触れて癒し、湖の嵐を静め、十字架に付けられ、復活なさいました。それを人びとは見たのです。

今、わたしたちの目ではイエスさまを見ることはできません。けれども、イエスさまはわたしたちと共にいてくださいます。聖書と祈りを通して、わたしたちの心に語りかけてくださいます。

わたしたちは、このイエス・キリストによって、日々の生活と人生全体を生かされています。

イエスさまはわたしたちのライフ(いのち、人生、生活)の源です。

イエスさまが今日もわたしたちを支え生かしてくださいます。

聖書と祈りを通して、わたしたちを生かす言葉をくださいます。

いや、イエス・キリストは、わたしたちを生かしてくださる言(ことば)そのものなのです。

イエスさまは、今日も、わたしたちを生かしてくださいます。

今日も、聖書の言葉をイエスさまから受け取り、イエスさまに祈りましょう。

それがあなたのいのち、ライフなのです。

2025年2月18日 火曜日

おはようございます。

フィリピ4:23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

「霊」と言えば「聖霊」を思い浮かべます。

聖霊は創造主(「父なる神」)、御子イエス・キリストとならんで、三位一体の「主」と呼ばれます。

古くから教会で読まれていた文章の中では、「聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です」と言われています。

ところが、パウロがフィリピの教会にあてた手紙の最後では「あなたがたの霊」と言われています。

「あなたがたの霊」とはどういうことでしょうか。

ひとつは、これは、聖霊がわたしたちの中に宿ってくださることを意味しています。

どうじに、わたしたちの中に宿ってくださる聖霊は、わたしたちが神さま、イエスさまをキャッチするアンテナのように働いてくださるということだと思われます。

わたしたちが神さまとイエスさまを知り、愛を受け、賛美し、祈ることができるのは、わたしたちの内に聖霊が宿り、働いてくださるからなのです。


2025年2月17日 月曜日

おはようございます。

フィリピ4:19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。

この世界に存在するものをできるだけたくさん思い浮かべてみてください。

わたしたち、植物、動物、空気、水、土、鉱物、空、星、宇宙空間、音楽、美術、文学、愛、喜び、希望、心、精神、光、熱・・・

神さまはこれらすべてを創造するほどの富に満ちたお方です。

そして、これほど豊かな神さまが、キリスト・イエスによって満たしてくださる、わたしたちに必要なものとはなんでしょうか。

それは、神さまがそばにいてくださることであり、神さまがとことん愛してくださることであり、わたしたちが生かされていることであり、わたしたちがここに存在していることではないでしょうか。

わたしという人間も、体、細胞、植物的なもの、動物的なもの、水分、カルシウム、喜びや痛みを感じる心などが満ちたひとつの宇宙です。

全世界を創造される神さまの愛、創造力が、わたしという小さな一人の人間に満ちているのです。

2025年2月16日 主日(日曜日)

おはようございます。

フィリピ4:13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。4:14 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。

ここでパウロは「わたしにはすべてが可能です」と言っていますが、これは、彼が万能の力を持っていたということではありません。

むしろ、パウロはこう言っています。

コリントの信徒への手紙二12:7 わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

つまり、パウロからとげの痛みはなくならなかったのです。

この意味では、パウロは万能ではありませんでした。

しかし、パウロはこの痛みの中で「わたしの力はあなたの弱さの中で発揮されるのです」というイエスさまの声を聞きました。

これは言い換えると、十字架で苦しまれたイエスさまが苦しむパウロとともにおられた、ということではないでしょうか。

「わたしにはすべてが可能です」というパウロの言葉は、このこととセットで味わいたいと思います。

パウロは「わたしにはすべてが可能です」という言葉に続けて「あなたがたはわたしと苦しみを共にしてくれました」と言っています。

これは直接にはフィリピの信徒がパウロの苦しみを共にしてくれたことを言っているのですが、その奥には、キリストがパウロの苦しみを共に背負ってくださった、という響きを感じます。

「わたしにはすべてが可能です」ということの意味は、「どんな時でもどんな時でも、すべてのものの主であるイエスさまがともにいらしてくださる」ということではないでしょうか。

2025年2月15日 土曜日

おはようございます。

フィリピ4:13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

パウロは神さまによって「わたしにはすべてが可能」と言っています。

これはどういう意味なのでしょうか。

4:11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。4:12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。

パウロは、自分が欲望するものをすべて手に入れることができる、と言っているのではありません。

そうではなく、貧しい時でも、豊かな時でも、キリストが共に生きてくださった、と言っているのです。

キリストこそが、わたしたちをどんなときでも生かしてくださる「すべ」なのです。

「秘訣」なのです。

パウロには、イエス・キリストという「すべ」「秘訣」があるから、どんな状況にあっても、貧しい時も富める時も、病める時も健康な時も、苦しい時も楽しい時も、そんな時でも、生きることが可能だったのです。

2025年2月14日 金曜日

おはようございます。

フィリピ4:8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。4:9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値すること」とはどういうことでしょうか。

「わたしから学んだこと、受けたこと」とはどういうことでしょうか。

これは、フィリピの信徒への手紙の文脈で言えば、

キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心」(2:1)のことであり、

それに基づいて、フィリピの信徒たちが、

同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う」(2:2-3)

ことではないでしょうか。

そして、これは、

キリスト・イエスにもみられるものであり、 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられた」(2:6-8)

ことに倣うことなのでした。

キリストがご自分にこだわらずにむしろわたしたちを大切にしてくださるように、わたしたちも自分にこだわらずむしろ相手を大切にするとき、

平和の神は」わたしたちと「共におられる」のです。

わたしたちは、自分のことだけでなく、神さまと人を大切に思うとき、神さまの平和、平安をいただいているのです。

2025年2月13日 木曜日

おはようございます。

フィリピ4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

思い煩うのは簡単にはやめられません。

けれども、手を合わせて、目を閉じて、そのままゆっくり十まで数えながら静かに息を吐き、息を吐き終えたら、神さまに感謝をすることを思い出し(生かされていること、今祈ることができること、聖書の言葉を与えられたこと)、願うべきことをおだやかに願い、自分のまことの必要を神さまにしんみりと打ち明けてみてください。

そうしたら、きっと、わたしたちの思いを越えた神さまの平安がわたしたちを包んで、わたしたちの思い煩う心を守ってくださることでしょう。

たとえ、心の表面では嵐がつづいても、心のもっとも深いところには、神さまの平安が横たわっていることでしょう。


2025年2月12日 水曜日

おはようございます。

フィリピ4:3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。4:4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

主において常に喜びなさい」とはどういうことでしょうか。

この直前でパウロは二人の婦人とクレメンス、他の協力者の存在を述べています。

命の書に名を記されている」とは、神さまに救われるということです。

福音のために」とは、神さまがわたしたちを救ってくださるという幸福な知らせのために、ということです。

要するに、わたしたちが人びととの交わり、関りの中で、神さまの救いに入れられていることを、しかも、それが、主において、神さまによってなされていることを喜ぶのです。

救いは、イエス・キリストによってなされますが、それは、イエス・キリストを信じ、それを証しする人びととの交わり、関りの中でなされます。

このことをおおいに喜びましょう。

神さまに感謝いたしましょう。

2025年2月11日 火曜日

おはようございます。

フィリピ4:1 わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

パウロはフィリピの信徒たちに、「わたしが愛し」「慕い」「喜びであり」「冠である」というような最高の形容詞を用います。

それは、神さまがフィリピの人びとを「愛し」「慕い」「喜び」「冠としている」からです。

「このように」とあります。

これは、ひとつは、わたしたちがキリストをすでにつかんだと思いこまず、むしろ、つねにキリストの背中を追いかけて前に進むことを意味しているのではないでしょうか(3:12-14)。

もうひとつは、それにもかかわらず、キリストはすでにわたしたちをとらえていてくださり(3:12)、「わたしたちの体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(3:21)ことを意味しているのではないでしょうか。

キリストはわたしたちを「しっかりと立たせて」くださいます。

だから、わたしたちは、この「主によってしっかりと立ち」、歩きましょう。

主イエス・キリストがかならず支えてくださいます。

2025年2月10日 月曜日

おはようございます。

フィリピ3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

神さまはわたしたちの体を創造してくださいました。わたしたちの体は神さまの命の息を吹き込んでいただいた大事な体です。けれども、それは朽ちて、土に帰っていくものでもあります。

けれども、キリストは、わたしたちを創造してくださったその力で、わたしたちを「御自分の栄光ある体と同じ形に変えて」くださいます。

それがどんな体なのか、わたしたちの言葉でも感覚でも言い表すことはできないでしょう。なぜなら、それは物質界の体、肉の体ではないからです。目には見えませんが、それは空気のような気体でもないでしょう。なぜなら、物質界の体ではないからです。

それがどんな体なのか、キリストにお任せするしかありません。

けれども、ただひとつたしかなことは、それは、キリストの栄光ある体と同じ形であるということです。

「同じ形」と言っても、それは物質として同じなのではなく、霊として同じなのです。

霊はもちろん目に見えませんが、空気のような気体でも物質でもありません。

それは、わたしたち人間の感覚で、近い言葉を探せば、愛という言葉が一番近いのではないでしょうか。

神は愛です」(ヨハネの手紙一4:16)

キリストは、神さまがわたしたちを創造してくださったのと同じ力で、わたしたちをご自身すなわち愛で包み、愛で満たし、やがてわたしたちをも愛の体へと創造してくださるのです。



2025年2月9日 主日(日曜日)

おはようございます。

フィリピ3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」とは、私腹を肥やすことだけしか考えなかったり、自分の財産や地位、業績、能力などを誇ってみたりする者です。

キリストを根本の頼みにしていないのです。この世の目に見えるもので自分の心を支えようとしてしまっているのです。

しかし、わたしたちの「本国は天にあります」。

目に見えない神さまこそがわたしたちの根本の土台なのです。

わたしたちは、心の中心に、この世の目に見える虚しいものを置くのではなく、目に見えないイエス・キリストを天からここにお迎えいたしましょう。

そうすれば、神さまこそがわたしたちの王となってくださり、ここが神の国=天となるのです。

2025年2月8日 土曜日

おはようございます。

フィリピ3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

わたしたちが、キリストに忠実であろうとするならば、キリストを完全に捕らえたなどと傲慢にならず、謙虚にキリストを目指して歩み続けるのがよい、パウロは勧めます。

また、パウロ以外の人が、パウロとは異なる表現でこれを言い表す人があれば、パウロはそれも尊重しようとしているのではないでしょうか。

いずれにせよ、キリストはわたしたちを今いるところまで導いてくださったのですから、これからも、キリストの導きにお委ねして、キリストの御心を捕らえるまで、進み続けましょう、とパウロは言うのです。


2025年2月7日 金曜日

おはようございます。

フィリピ3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

たとえ信仰生活を長く続けていても、神さまとイエス・キリストを「もうわかってしまった」「もうそこに到達してしまった」などとは思えません。

そうではなく、信仰生活を何年続けようとも、わたしたちの前を進んでくださりわたしたちのゴールにいてくださる神さまとイエス・キリストに「全身を向け」、神さま、イエス・キリスト、天の国、神の国という「目標」を目指して、前に進みつづけることが大切なのです。

たほう、神さまとイエス・キリストは、すでに、わたしたちを完全に「捕らえて」いてくださいますし、わたしたちと完全にともにいてくださいますし、わたしたちを完全に愛していてくださいます。

奇妙な言い方ですが、わたしたちはイエス・キリストに既にとらえられ、導かれているからこそ、そのイエス・キリストを目指して進み続けるのです。


2025年2月6日 木曜日

おはようございます。

フィリピ3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

わたしたちは、キリストを完全にとらえてはいません。

けれども、キリストはわたしたちを完全にとらえてくださっておられます。

ということは、キリストはわたしたちと今すでにともにいてくださるのです。

そうであれば、わたしたちもそのことに気づき、それを深く感じ、

キリストにとらえられている者にふさわしい生き方をいたしましょう。

それは、「 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う」(2:3-4)生き方です。

地上のキリストの誕生と十字架はまさにこの生き方でした。

わたしたちも、キリストのこの歩みに従うことで、キリストの背中に手を伸ばし近づけるように祈り求め続けましょう。

2025年2月5日 水曜日

おはようございます。

フィリピ3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

イエス・キリストはわたしたちを復活へと導いてくださいます。

わたしたちはそれを信じ、このキリストを信頼しています。

しかし、わたしたちは、地上の旅を続けます。

そこには、苦しいこともあります。

キリストを信頼していても、わたしたちには苦しみも痛みもあります。

けれども、キリストこそが十字架でもっとも苦しまれ、そのキリストがわたしたちとともにいらしてくださるのですから、わたしたちはキリストとともに苦しみを乗り越えることができます。

また、わたしたち人間どうしの生活では、傲慢にならず、へりくだり、自分の考えだけを主張せず、自分を無にして、相手に寄り添うことが求められます。

これは、難しいことですが、まず、キリストご自身が、神さまの身分に固執せず、ご自身を無になさって、わたしたちと同じ人間として生まれてきてくださったのですから、このキリストがわたしたちを導いてくださいます。

2025年2月4日 火曜日

おはようございます。

フィリピ3:8 わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

「他の一切」とは、パウロが律法を「非の打ちどころなく」(3:6)守ってきたことを指します。

けれども、今ではそれは「損失」と言います。律法を守れば救われるという考えは今やキリストへの信仰の妨げとなる、この考えはもはや無効になった、廃棄したというのです。

「キリストを得」とあります。つまり、律法を守ることによって救われるという考えを「失」い、そのかわりに、キリストを「得」た、というのです。

それは、自分が律法を守ることで得られる自分の義ではなく、キリストを信仰することで神さまが与えてくださる義なのです。

義とは、神さまとのつながり、神さまが受け入れてくださるということです。

わたしたちは、律法を守ろうとしてはいないとしても、何か自分の力で自分を救おう、自分の力でなすことへのご褒美として救ってもらおう、としていないでしょうか。

そうではないのです。

わたしたちには、キリストへの信頼があります。

キリストはご自分を信頼したいと思う者をそのような信頼に導いてくださいます。

その信頼によって、神さまはわたしたちとつながってくださいます。

それが、神さまの義なのです。

2025年2月3日 月曜日

おはようございます。

フィリピ3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。

パウロが去ったあとフィリピの教会に、救われるためにはユダヤ人以外の者も割礼を受けよと強要する者たちが現われたようです。

しかし、人は肉(体)の一部に割礼を受けることによって救われるのではない、そんなものは「切り傷にすぎない」とパウロは言います。

パウロにとっての「真の割礼」は、神さまの霊に導かれることであり、キリスト・イエスによって救われることなのです。

それは、「肉に頼らない」もの、つまり、目に見える形に頼らないものなのです。

モーセがいないとき、イスラエルの民は目に見える牛の像を作り拝みましたが、それは打ち砕かれました。

わたしたちは、目に見えない神さまを信頼し、目に見えない見えない未来に希望を抱くことが大切です。

かならずこれこれこうなるという、いわば「目に見える」保障に依存するのではなく、どうなるかは具体的にはわからないが、とにかく神さまがともにいらしてくださり、愛してくださることを信じ、神さまがとにかく何とかしてくださるという希望を持ちつづけましょう。

2025年2月2日 主日(日曜日)

おはようございます。

フィリピ2:19 わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。2:20 テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。2:21 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。

パウロは、テモテをフィリピの教会に遣わします。テモテの報告を通して、フィリピの教会の人びとがイエス・キリストを信仰している様子を知りたいのです。そうすれば、パウロはとても励まされることでしょう。人びとがイエス・キリストを信じる生活を送っている。宣教者にとってこれほど大きな喜びはありません。

けれども、パウロはテモテを派遣することを「自分の計画」ではなく「主イエスによる希望」にしています。

わたしたちもいろいろと「自分の計画」を立て、それを遂行しようとしますが、それを「主イエスによる希望」として、神さまにお委ねしたいと思います。

「親身になってあなたがたのことを心にかけている」とありますが、これも、「自分の思いから」というよりは「あなたがたへの誠実な思いから」ということではないでしょうか。

だいじなことは、21節にありますように、「自分のこと」ではなく「イエス・キリストのこと」なのです。

イエス・キリストは、「ご自分のこと」ではなく、わたしたちが痛み、苦しんでいることにご自分も痛み、苦しんでくださいました。傲慢ではなく、わたしたちと同じところに立ってくださいました。それが、イエス・キリストのへりくだりです。

わたしたちは、キリストのこのへりくだりに救われるのです。

わたしたちの「自分」の思いではなく、イエス・キリストのへりくだりが友を救うのです。

2025年2月1日 土曜日

おはようございます。

フィリピ2:17 信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。2:18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

パウロとフィリピの人びとは、何を喜ぶのでしょうか。

ひとつは、神さまを礼拝できることを喜びます。

それから、神さまがわたしたちの「内に働いて、御心」(2:13)をなしてくださることを喜びます。

そして、神さまの御心によってわたしたちが「清い者」「神の子」とさら、「星のように輝き」「命の言葉を保つ」(2:15)ことができることを喜びます。

そのために、宣教者パウロが「走り」「労苦」(2:16)したことを喜びます。

その「労苦」はパウロの「血が流れる」(2:17)ほどのものでしたが、その結果、礼拝ができることを喜ぶのです。

わたしたちも、喜びを数えましょう。

ひとつひとつの出来事、その土台に神さまがおられ(インマヌエル)、愛してくださる(アガペー)ことを喜びましょう。

喜べること、神さまを礼拝することを喜びましょう。

2025年1月31日 金曜日

フィリピ2:15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう。

「そうすれば」とは、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられる」(2:13)神さまの愛の御心に従えば、ということであり、キリストがへりくだり神の身分の固執せずに自分を無にしたことに倣(なら)って、わたしたちも隣人に対して傲慢にならずへりくだり自分や自分の思いに固執せずに自分を無にすれば、ということでしょう。

わたしたち人間のそのような姿が「とがめられるところのない清い者」と呼ばれ、世の中は「よこしまな曲がった時代にあっても」、「非のうちどころのない神の子」とされ、闇夜にあって「星のように輝き」、「命の言葉をしっかり保つ」とパウロは言うのです。

けれども、「とがめられるところのない清さ」や「非のうちどころのなさ」「星のような輝き」そして「命の言葉とのたしかなつながり」は、わたしたちの努力、功績によるものではなく、わたしたちの救いのためにご自身を無にされ、もっとも低くされたキリストと、そのキリストを「高く上げた」(2:9)神さまのゆえであることを忘れてはならないでしょう。

わたしたちは、それに到底及ばぬ者なのに、神さまはわたしたちを「清い」「輝いている」と見てくださり、ご自分の命の御言葉にわたしたちをしっかりつないでいてくださるのです。

2025年1月30日 木曜日

おはようございます。

フィリピ2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。2:14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。

誰かから「~しなさい」と言われても、その人が人間であり、それが理不尽なことであったり、自分にはできないことであったりするなら、無理に従う必要はありません。むしろ、従わない方がよいでしょう。

けれども、それが、神さまが愛の御心によってわたしたちを促していることなら、わたしたちは、「へりくだり」(3節)「自分を無にして」(7節)、それに従うべき時があるでしょう。

それは、あくまで、神さまの愛のわざ、つまり、キリストならこの人を放置してはおかない、というようなことである限り、また、神さまとわたしの関係でのことであり、そこに、誰かの人間的な強制がまったくない限り、さらには、自分の傲慢や思惑、固執がない限り、のことなのです。


2025年1月29日 水曜日

おはようございます。

フィリピ2:12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

「だから」とありますが、これは、2:6-8の「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」を指します。

キリストが、神の身分の固執せず、ご自分を無にし、かえって、僕(しもべ)の身分となり、わたしたち人間と同じものになり、へりくだって、十字架の死に至るまで従順であったことを指します。

すると、今日の12節の「従順」も、先日の8節の「従順」も同じ意味に考えられます。

さらに、8節の「従順」とは「自分を無にする」「僕の身分になる」「へりくだる」ことを意味すると考えられます。

もちろん、ここには書かれていなくても、神さまへの従順が根底にあることでしょう。

12節では、パウロは、フィリピの信徒たちに、そして、わたしたちに「従順」であるように、と呼び掛けています。

この「従順」も、わたしたちが神さまへの「従順」に基づいて、隣人の前で「自分を無にし」「隣人に仕え」「傲慢にならずへりくだる」ことを意味しているのではないでしょうか。

フィリピの信徒たちは、パウロがいたときは、このように「従順」であったようですが、それを忘れかけているのかもしれません。

それで、パウロはふたたび、フィリピの信徒たちが「従順」を思い起こすように促しているのです。

2025年1月28日 火曜日

おはようございます。

フィリピ2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

「このため」とは、キリストが、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になり、人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(2;6-8)であったことを指します。

神さまはキリストを「高く上げ」「あらゆる名にまさる名をお与えになり」、宇宙の「ものがすべて、イエスの御名にひざまずく」ようになりました。

つまり、「イエス・キリストは(わたしたちの)」になられたのです。

しかし、キリストはそうなろうと思ってそうなったのではなく、ご自身は、おのれをむなしくし、へりくだられたのです。ご自身は、わたしたちの主になろうとなさったのではなく、むしろ、僕になってくださったのです。

わたしたちがこのキリストに従って生きて行こうとするのなら、わたしたちは、偉くなるために僕(しもべ)になるのではなく、ただ僕になるのです。

僕になることは人の上に立つための手段ではありません。

神さまは僕になったキリストをわたしたちの主としてくださいましたが、わたしたちは誰かの主になるのではなく、誰かの上に立つのではなく、ただ神さまと隣人の僕であり続けることで、キリストに従うのです。

キリストがわたしたちの主なのですから、わたしたちは誰かの主になってはならず、むしろ、わたしたちはつねに神さまと隣人の僕であり続けることができるように祈り求めましょう。

2025年1月27日 月曜日

おはようございます。

昨日と同じ聖書の箇所を読みましょう。

フィリピ2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

神の身分であり、神と等しい者であるキリストが、なぜ、「僕の身分になり、人間と同じ者になられ」たのでしょうか。

それは、わたしたちの罪を赦すためです。わたしたちには、「神の身分になり、神と同じ者になろう」とする罪があります。

それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3:5)と蛇が言った実を人は食べてしまいました(3:6)。「神のように」なりたかったのです。自分は善悪を知っているという立場に立ちたかったのです。自分は正しい、自分は他の人より優れている立場に、わたしたちも立ちたがってしまうのです。

天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(創世記11:4)。人間は、天の神のように高いところにいる存在になりたいのです。

神のようになりたいと思っていなくても、自分が正しい、自分は優れている、自分のやりたいようにするということなら、それは傲慢であり、神のようになりたいと思っていることと近いのです。

「神のようになりたい」という罪からわたしたちを救うために、神の身分であるキリストは、反対に、わたしたち「人間と同じ者」になってくださいました。

これが「へりくだり」です。

わたしたちを傲慢から救ってくださる神さまのへりくだりです。

この神さまのへりくだり、キリストのへりくだりに倣(なら)って、わたしたちもたがいに、「 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2:2-3)とパウロは言うのです。

パウロのこの言葉に繰り返し耳を傾け、わたしたちの心に少しずつ沁み込ませていきましょう。

2025年1月26日 主日(日曜日)

おはようございます。

フィリピ2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

この直前で、パウロはフィリピの信徒に「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(2:3-4)と言っています。

その理由が、今日の6節以下に述べられています。

つまり、キリストは神さまご自身でありながら、あるいは、神さまと等しいお方でありながら、そのことに「固執しようとは思わず」、むしろ「御自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」、「人間の姿」(相手と同じ姿)になられ、「へりくだられ」、それを十字架の死に至るまで貫かれた、というのです。

キリストがそのようになさったから、わたしたち人間も、自分の利益や虚栄に固執せず、自分に固執せず、むしろ、へりくだり、相手の姿、言葉、行動を尊重し、自分のことだけでなく相手のことに心を向けなさい、とパウロは言うのです。

すなわち、キリストが「へりくだった」ように、あなたたちも「へりくだり」なさい、というのです。

この「へりくだり」は「自分を無にする」「へりくだり」、十字架の死にいたるまでの「へりくだり」ですから、社会儀礼としての「謙遜」とはレベルが違います。

相手の前では、心から自分を無にして、相手に仕えることを言うのです。

わたしたちはいつそうしたらよいでしょうか。


2025年1月25日 土曜日

おはようございます。

フィリピ2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

昨日読んだ2:2で「同じ思い」とあったのは、フィリピの人びとが、1)たがいに「同じ思い」を持つ、2)パウロと「同じ思い」を持つ、3)キリストと「同じ思い」を持つ、と考えることができます。

そして、その具体的な内容は、今日読んでいる2:3-4のように「利己心や虚栄心を持たない」「ヘリくだる」「相手を自分より優れた者と考える」「他人の事にも注意を払う」「皆がこのことを心がける」ことです。

これはとても大切なことです。

わたしたちの言動も、自分の利益や虚栄のためになってしまわないことが大事です。

自分の方が正しい、優れているというのではなく、自分が絶対正しいとは限らない、相手の考え方も大事だ、とへりくだりたいと願います。

自分のこと、自分の考えだけでなく、相手のこと、相手の考えも大切にいたしましょう。

ひとりひとりが、言葉や行動のひとつひとつにおいて、それを意識いたしましょう。

どうしてでしょうか。

なぜなら、じつは、キリスト・イエスがそうなさったからです!

キリスト・イエスはどのようにそうなさったのでしょうか。

それは、聖書、わたしたちの救いの根幹にかかわることで、明日読む2:6以下に述べられています。

2025年1月24日 金曜日

おはようございます。

フィリピ2:1あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。

同じ」「合わせる」「一つに」とありますが、これには、三つの意味が考えられます。

ひとつは、この前の節で、パウロはフィリピの信徒たちに「同じ戦い」、つまり、パウロと「同じ戦いをあなたがたは戦っている」と言っていますから、2:2で言われていることも、パウロと同じ愛、パウロと思いを一つにする、と考えることができます。

それから、フィリピの信徒の人びとがおたがいに「同じ思い」になり「心を合わせる」ように、パウロが願っているとも考えられます。

けれども、このあと、2:5で「それはキリスト・イエスにもみられる」とありますから、パウロはフィリピの信徒たちが、キリストと同じ思い、キリストと同じ愛、キリストと心を合わせる、キリストと思いを一つにすることを祈っているとも考えられます。

このうちのどれかひとつというよりも、パウロ、フィリピの信徒同士、キリストの心が、皆ひとつに重なり合うイメージがあるようにも思われます。

もちろん、わたしたちの心も、そこに重ねられるのです。

2025年1月23日 木曜日

おはようございます。

フィリピ1:29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

イエス・キリストを信じることを禁じられたり、嫌がられたりして、苦しめられる人びとがいます。

それは、社会からの迫害であったり、家族の反対であったりします。

あるいは、イエス・キリストを信じる故にこそ、かえって、自分の信仰の弱さを知らされ、それに苦しむ人びともいます。

あるいは、信仰に直接関係のないように思える苦しみもあります。

その場合も、どうしてこんな苦しみに遭うのか、神さまを信じられないという、信仰につながる苦しみが生じます。

けれども、いずれの場合であっても、キリストがともにいてくださいます。

苦しみが、そのまま、恵みである、と考えることは簡単ではありませんが、

苦しむわたしたちと神さまがともにいてくださる、

これがキリストの恵みである、

と信じたいと思います。

そう祈ります。


2025年1月22日 水曜日

おはようございます。

フィリピ1:19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。

18節でパウロは「喜んで」いますが、それには、ふたつの理由があります。

ひとつは「あなたがたの祈り」であり、もうひとつは「イエス・キリストの霊の助け」です。

わたしたちが人と交流するとき、わたしたち自身の考え、言葉、行動、そして、なにより、祈りが大切ですが、そこには、神さまのお働きがあることを忘れてはならないでしょう。

わたしたちは自分が誠実であることを精一杯心がけながらも、イエス・キリストと聖霊のお働きにお委ねすることが大事です。

祈りつつ、どうじに、聖霊にお任せしながら、友との交わりを喜びましょう。


2025年1月21日 火曜日

おはようございます。

フィリピ1:15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。1:16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、1:17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。1:18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。

できるだけ〈相手の気持ち〉を大事にしながらイエス・キリストをじんわりと伝えようとする人もいれば、その人にイエス・キリストを信じてほしいという〈自分の思い〉がほとばしる人もいます。

ほぼイエス・キリストのことだけが伝わり、伝えるその人の姿はほとんど消えてしまう場合もあれば、伝えるその人の姿が印象的な場合もあります。

けれども、パウロは、「とにかく、キリストが告げ知らされている」のだからどちらも喜ぶ、と言うのです。

キリスト中心、相手中心の宣教になっているか、自分中心になっていないか、自己吟味することはとても大事ですが、どうじに、人がなす宣教を裁いたり非難したりすることなく、「キリストが告げ知らされている」と尊重することも大事です。

2025年1月20日 月曜日

おはようございます。

フィリピ1:12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。1:13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、1:14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

パウロが監禁されると、他の人々の、キリストを宣教しようとする心が弱くなってしまうとも思われますが、じっさいは、そうではありませんでした。

捕らわれることになろうともキリストを宣べ伝えるパウロの姿は、他の人びとを勇気づけ、ますます御言葉が語られるようになったのです。

わたしたちの人生においても、マイナスと思えることがプラスに働くことがあります。

なによりも、イエス・キリストの十字架というマイナスの極みが、復活、永遠のいのち、というプラスの極みになったのですから。

「-100(マイナス100)」の前にもうひとつ「-(マイナス)」がつくと、「-(-100)」ですから、「+100(プラス100)」になります。

キリストの十字架は〈この世的には〉マイナスですが、それは、人間のマイナスをプラスに変えてくださるマイナスなのです。

2025年1月19日 主日(日曜日)

おはようございます。

フィリピ1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

ここでいう「知る力」「見抜く力」とは、ここに起こっている出来事、わたしたちが言ったり行ったりすることに、「キリスト・イエスの愛の心」(1:8)があるかどうかを知る力、見抜く力のことではないでしょうか。

「本当に重要なこと」も、まさに、「キリスト・イエスの愛」に根ざしたことを指すのでしょう。

さらには、「イエス・キリストによって与えられる義の実」も「キリスト・イエスの愛によってわたしたちに与えられる神さまの救い」のことではないでしょうか。

わたしたちのまわりで起こっていることにも、わたしたちの言葉や行動にも、キリスト・イエスの愛があることを祈り求めたいと思います。

2025年1月18日 土曜日

おはようございます。

フィリピ1:7 監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。

パウロは、かつて自分がイエス・キリストを宣べ伝え、今手紙を書いているフィリピの教会の人びとを、「共に恵みにあずかる者」と呼び、「心に留めている」と言います。

さらには、「キリスト・イエスの愛の心で」「どれほど思っている」(こんなにも思っている)と述べます。

わたしたちも、教会の友、遠くに住まう友、さらには、すべての人びとを、神さまの愛に「共にあずかる」人びとと思い、「心に留めたい」と思います。

出会う人びと、言葉を交わす人びとを、「キリスト・イエスの愛の心で」大切にしたいと思います。

なぜなら、イエス・キリストこそがわたしたちを、神さまの恵みに「共にあずかる者」としてくださり、いつも御心に留めてくださり、まさに「キリスト・イエスの愛の心で」こんなにも思ってくださるからです。

2025年1月17日 金曜日

おはようございます。

フィリピ1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

この直前の4節では、フィリピの信徒のことで喜び感謝している、とパウロは述べています。

そしてこの5節ではその理由が述べられています。

感謝の理由を述べることは、感謝を促してくれる神さまの恵みを言葉にすることにほかなりません。

パウロによれば、フィリピの信徒たちは、イエス・キリストの福音を知った日から今日に至るまで、福音にあずかっています。それが、神さまの恵みです。

福音に「あずかる」とは、イエス・キリストがわたしたちを救ってくださるという、神さまからの最高の知らせに全身浸って、すっかりそれによって生かされ、すっかりそれにふさわしい生き方をすることです。

この「善い業」は、神さまによって始められ、イエス・キリストがふたたびお越しくださる日まで、さらにゆたかになっていくのです。


2025年1月16日 木曜日

おはようございます。

フィリピ1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。

ここには、祈るとはどういうことか、大事な二点が示されています。

ひとつは「あなたがたのことを思い起こす」「あなたがた一同のために祈る」ということです。

自分のこととともに、「あなたがた」のことを祈るのです。

あなたにとって、「あなたがた」とは誰のことでしょうか。

もうひとつは、「わたしの神に感謝する」「喜びをもって祈る」ということです。

神さまがわたしたちや「あなたがた」にくださった恵みを想い起こせば、わたしたちには「感謝」と「喜び」がわきあがってきます。

けれども、これは、祈りに「悲しみ」や「苦しみ」が伴うことを排除しません。

むしろ、「悲しみ」「苦しみ」から「感謝」「喜び」が起こり、「悲しみ」「苦しみ」と「感謝」「喜び」はひとつのことなのです。

「あなたがた」のことを思い、「悲しみ」と「感謝」、「苦しみ」と「喜び」をもって、神さまに祈り続けましょう。


2025年1月15日 水曜日

おはようございます。

フィリピ1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

愛は神さまから来るように、恵みと平和も、父なる神さま、御子主イエス・キリスト、聖霊、の三位一体なる神さまから与えられます。

そして、パウロは、恵みと平和が自分だけでなく、手紙の相手であるフィリピの人びとにもありますように、と祈ります。

わたしたちも、神さまから、恵みと平和をいただいています。

「わたし」が今いただいている恵みはどんな恵みでしょうか。

「わたし」が今いただいている平和はどんな平和でしょうか。

この恵みと平和が、「わたし」だけでなく、「あなた」にもありますように、とわたしたちは祈るのです。

それは、神さまからいただいた恵みと平和を「あなた」とわかちあうと同時に、

「わたし」が「あなた」にとって「恵み」と「平和」をもたらすことができますように、

ということでもあります。

神さまから愛されその愛を「あなた」にも伝えようとすると同時に、

神さまが「わたし」を愛してくださるように、「わたし」も「あなた」を愛したい

と祈るように。


2025年1月14日 火曜日

おはようございます。

フィリピの信徒への手紙1:1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。

パウロと同じように、わたしたちも、キリスト・イエス(キリスト・救い主であるイエスさま)にお仕えする僕(しもべ)なのです。

そして、信仰の友も、ともにキリストにお仕えする僕(しもべ)仲間なのです。

わたしたちは、僕仲間とともに、キリスト・イエスに「結ばれて」います。

ただ頭で思っているだけでなく、キリストはわたしたちと手をしっかり「結んで」いてくださるのです。

信仰や行動が私たちを「聖なる者」にするのではなく、ただ神さまがわたしたちを呼び集めて教会にしてくださった・・・このわたしたちが「聖なる者」と呼ばれるのです。

わたしたちがもともと「聖」なのではなく、「聖なる」神さま、「聖なる」キリスト、「聖なる」聖霊が結びついてくださるから、わたしたちは「聖なる者」と呼ばれるのです。


2025年1月13日 月曜日

おはようございます。

マタイ28:19 あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

洗礼を受けるとは、どういうことでしょうか。

それは、イエス・キリストに学び従う者になること、そして、イエス・キリストの言葉を大事にする者になることだと、イエス・キリストは言われます。

難しい知識、多くの情報を獲得するのではありません。

神さまはわたしたちを無条件に愛してくださることを毎日毎日あらためて深く味わい、

神さまを愛し、隣人を愛して生きる歩みを毎日少しでも進めようとし、

イエス・キリストがどんな時でも、わたしたちとともにいてくださることを、支えとして歩むのです。

洗礼を受けてイエスさまの生徒とされたわたしたちは、そのようにして生きるのです。


2025年1月12日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

イエスさまの前に「ひれ伏す」とは、屈服させられることではなく、喜んでイエスさまを礼拝することです。

礼拝とは、わたしたちの「行く手に立っていて」くださり、「おはよう」と言ってくださるイエスさまに、わたしたちが「近寄り」、「足を抱く」ことです。

四千年の昔、ヤコブは神さまと格闘し祝福を受けるまで離しませんでした(創世記32:25-27)。

長血を患った女性は、イエスさまの服にうしろからそっと触れました(マルコ5:27)。

そして、復活したイエス・キリストから「おはよう」と語りかけられた女性たちは、イエスさまの足を抱きしめたのです。

日曜日は主イエス・キリストの復活の日、だから、「主日」と呼ばれます。

このキリストの「おはよう」という御言葉をいただき、このキリストにしがみつき、このキリストを礼拝いたしましょう。


2025年1月11日 土曜日

おはようございます。

マタイ28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』

イエス・キリストは墓と死から復活なさいました。

けれども、わたしたちは、復活されたイエス・キリストと出会っているでしょうか。

「遺体の置いてあった場所」を見ても、キリストはそこにはおられません。

キリストは、墓から出て、「ガリラヤ」に行かれたのです。

では、復活されたイエス・キリストが、わたしたちより「先に行かれたガリラヤ」とはどこのことなのでしょうか。

死後の天国のことでしょうか。

それとも、わたしたちが今生きている日常のことでしょうか。

それは、目に見える世界だけのことでしょうか。

それとも、目に見える世界にある、目に見えない現実、

神の国、神さまの愛、イエス・キリストがともにおられる世界のことでしょうか。

2025年1月10日 金曜日

おはようございます。

マタイ27:57 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。

この金持ち、アリマタヤのヨセフは、イエスさまの弟子でした。

けれども、イエスさまは、このようにも言っておられます。

19:24 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。

自分がお金をたくさん持つこと、人より上に立つこと、人びとを支配しようとすること、こうしたことは、たしかに、神さまの国からは程遠いことでしょう。

最低限度+アルファのお金は必要です。それが、簡単ではなく、わたしたちは思い悩みます。

それは、大事なことです。 けれども、それだけでなく、「明日のことは思いわずらわず、神さまにお委ねする」信仰への憧れも、ひじょうに大事です。

お金はある程度必要ですが、お金に執着してはなりません。

自分がぜいたくするためのお金、他の人に対する自分の優位、自分の考えにこだわることなく、むしろ、それを手放し、イエスさまの弟子になろうとする、神さまの国の民になろうとすることが、わたしたちには大事ではないでしょうか。


2025年1月9日 木曜日

マタイ27:55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。27:56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

イエス・キリストの十字架の死を見守った多くの婦人がいました。

現代も、イエス・キリストの十字架を見上げながら生きている多くの女性がいます。

先日、ひとりの女性が天に帰りました。

彼女も、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見て、イエス・キリストを愛し、イエス・キリストに導かれて、イエス・キリストに仕えた一人でした。

今、彼女は、イエス・キリストとともに天国にいます。

2025年1月8日 水曜日

おはようございます。

マタイ27:50 イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。27:54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

イエス・キリストは「再び大声で」叫ばれたとあります。

それは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉だったのではないでしょうか。

この言葉は、キリストもわたしたちとともに苦しんでくださるという解釈があり、あるいは、この言葉は詩編22編の冒頭であり22編の最後に出てくる神さまへの信頼につながっている、という解釈もありえます。

いずれにせよ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取られたイエスさまを見て、人びとは 「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。

イエスさまのことを「この人は神の子だった」と人びとに言わせた理由は、この十字架の死のどこにあるのでしょうか。




2025年1月7日 火曜日

おはようございます。

マタイ27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

イエスさまのこの言葉にはいくつか解釈があるようです。

ひとつは、イエスさまはわたしたち人間の苦しみをともに担って、ともに苦しんでくださる、というものです。

わたしたちは、今苦しんでいても、じつは、イエスさまが一緒に苦しんでいてくださる、と想うと、心の深いところに慰めが横たわります。

もうひとつは、イエスさまのこの言葉は、詩編22編全体を読もうとした、というものです。

詩編22編は「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(2節)という激しい嘆きと訴えの言葉に始まります。

しかし、終盤では「主は助けを求める叫びを聞いてくださいます」(25節)、「わたしの魂は必ず命を得ます」(30節)という信頼の言葉に収まっていきます。

どちらの解釈でも、わたしたちはイエスさまと神さまから、苦しみの深いところに平安をいただけるのではないでしょうか。


2025年1月6日 月曜日

おはようございます。

マタイ27:40 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。」

イエス・キリストは、神の子だから、自分を救わないのです。

まことの王、人を支配するのではなく、人に仕える王だから、十字架から降りないのです。

イエス・キリストは、神さまに愛され、神さまに仕える神の子だから、自分ではなく、わたしたちを救ってくださいます。

王たちの王座は宮殿にある豪華な椅子ですが、イエス・キリストの王座はこの世の最底辺にある死刑台である十字架です。

イエス・キリストは最底辺から、わたしたちに仕え、一番下から、わたしたちを支えてくださるのです。

だから、十字架から降りて来られないのです。


2025年1月5日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

イエス・キリストは、わたしたちのまことの王です。

けれども、この王は、わたしたちを抑圧せず、支配せず、取り立てず、

むしろ、わたしたちに仕えてくださり、癒してくださり、わかちあってくださいます。

このようなまことの意味で、イエス・キリストは、わたしたちを「治めて」くださるのです。

力で自分の思い通りにするのではなく、

愛によって、わたしたちをわたしたちのまま、わたしたちにしてくださるのです。


2025年1月4日 土曜日

おはようございます。

マタイ27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、27:36 そこに座って見張りをしていた。

兵士たちは、イエスさまの服をくじで分け合いました。

つまり、イエスさまの服を、イエスさまのいのちを強奪したのです。

それは、「獲物の分け合い」でした。

けれども、イエスさまがなさったことは、「恵みのわかちあい」でした。

五つのパンと二匹の魚も、最後の晩餐のパンとぶどう酒も、ご自分のご人生もいのちも、神さまからの恵みとして、わたしたちにわかちあってくださったのです。

そして、わたしたちは、今、生かされています。

わたしたちもまた、わたしたちのライフ(生活、人生、いのち)を、他の人とわかちあって生きるように招かれているのではないでしょうか。


2025年1月3日 金曜日

おはようございます。

マタイ27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

わたしたちは、イエス・キリストの十字架を無理やりに担がせられることはありません。

わたしたちは、自分の十字架を背負って、キリストに従うように招かれています。

マタイ16:24 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

わたしたちは、自分の苦しみを放棄するわけにはいきません。

苦しみは、いやいやでも、覚悟してでも、いずれにせよ、わたしたちの背中に乗っています。

誰しもが、すでに、自分の十字架を背負って歩いているのです。

けれども、わたしたちはひとりではありません。

イエスさまが、わたしたちの十字架の重みのほとんどを担いながら、一緒に歩いていてくださるのです。

それは、また、わたしたちがイエスさまの十字架をともに負わせていただいていることでもあるのです。

こうして、イエスさまの十字架とわたしたちの十字架が重なります。

イエス・キリストがそうしてくださるのです。


2025年1月2日 木曜日

おはようございます。

マタイ27:28 兵士たちは、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、27:29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。

わたしたちも誰かを侮辱したり、何らかの意味でイエス・キリストをも侮辱したりしているかもしれません。

「王なる主よ」と、キリストの前にひざまずくときにさえ、そこに何かの意味での侮辱が潜んでいないか、よくよく自分を点検してみたいと思います。

けれども、キリストはわたしたちを侮辱なさいません。

世の人はわたしたちを侮辱することがあっても、キリストは、わたしたちをどこまでも「友よ」と呼び、わたしたちを大切にし続けてくださいます。

わたしたちも、キリストが、わたしたちの暴君にはならず、むしろ、しもべになってくださり、友となってくださったことをつねに覚え、そのことを大切にし続けようではありませんか。

2025年1月1日 水曜日

新年おめでとうございます。

マタイ27:21 総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。27:22 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。

ピラトがイエスさまご自身に「おまえとバラバのどちらを釈放してほしいか」と尋ねたら、イエスさまはなんと答えたことでしょうか。

架空の問いには正解はありません。

しかし、イエスさまがご自分のことを優先なさらなかったことはたしかでした。

荒れ野の誘惑においても、ご自分がパンを食べること、ご自分が墜落から救われること、ご自分が世界を手に入れることを選択しませんでした。

それよりも、イエスさまは、人を癒し、孤独な人々とともにいることに時間を使われました。ご生涯を神さまと人のためにささげました。

もし、ピラトの前に、わたしたちとイエスさまが立ち、ピラトがイエスさまに、イエスさまとわたしたちのどちらを釈放すべきか問うたなら、イエスさまは、わたしたちの釈放を望んでくださるのではないでしょうか。

2024年12月31日 火曜日

おはようございます。

正しいと思うことを述べたり、正しくないと思う相手を正そうとしたりすることは、とても大事ですが、それが、つねに正しいとまで言えるでしょうか。

マタイ27:13 ピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。27:14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。

イエス・キリストはご自分の考えに合わない誰からの言葉に対して、すべて反論したわけではなく、何もお答えにならないときもありました。

この無言は何を意味するのでしょうか。

この無言ほど、強い否定(NO!)はなく、この無言ほど、強い肯定(YES!)もないでしょう。

ただし、イエス・キリストの否定は、斥け、追い出す否定ではなく、今のわたしたちを新しく創り替えてくださる否定です。わたしたちを滅ぼさず、追いやらず、むしろ、包み込んでくださる否定です。

イエス・キリストの無言は、否定と肯定の区別、葛藤、争いを越えた、アガペー(無条件の愛)とインマヌエル(神さまはわたしとともにいてくださる)の深い現れの無言なのではないでしょうか。


2024年12月30日 月曜日

おはようございます。

マタイ27:3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。

わたしたち人間は、「人の血を売り渡し」てしまっています。

パレスチナ、ウクライナで、何か月も、何年も、人が殺され続けることを、わたしたち人間は許してしまっています。

繰り返される戦争の歴史を、人間は止めることができません。

自分と世界の生き方を変えるような祈りがまったく足りないのです。

平和を慕い求める祈りに添った生き方がまったくできていないのです。

けれども、イエス・キリストは、ご自分の命をわたしたちにわかちあってくださることで、戦争や殺人をこの世界からなくせないわたしたちの罪をお赦しくださいます。

そして、戦争と殺人、人が人を傷つけ、心を踏みにじることがなくなりますように、という祈りを、わたしたちがさらに強め、平和と愛と赦しに奉仕するように促してくださるのです。

神さまは、わたしたちの罪をお赦しくださいます。

だから、わたしたちも、少しでも人と平和に生きるように、祈り、そのように生きることを、つねに心がけましょう。


2024年12月29日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ26:74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。26:75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」というイエス・キリストの言葉は、ペトロの裏切りを予告した、たんに冷たい言葉だったのでしょうか。

いや、前もってこの言葉があり、鶏が鳴いたからこそ、イエスさまを三度否定しても、ペトロは、イエス・キリストを忘れず、離れずに済んだのではないでしょうか。

鶏の鳴き声は、「あなたがわたしを三度否んでも、わたしはあなたをけっして見捨てない」というキリストのメッセージでもあったのではないでしょうか。

ペトロの涙は、自分のどうしようもない弱さゆえのものでもあり、同時に、それでも自分を見捨てず、どこまでもともにいらしてくださるキリストに心をつかまれたゆえのものでもあったのではないでしょうか。

2024年12月28日 土曜日

おはようございます。

マタイ26:49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。26:50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。

ユダは、「先生、こんばんは」と何もないように挨拶をしたり、愛情を示す接吻をしたりしますが、それは、イエスさまを裏切ることをごまかしているに過ぎません。

わたしたちもイエスさまの心から離れていないでしょうか。

残酷なことに、相手への親愛や情熱の中に、じつは、自我の強さや執着が潜んでいて、それゆえに、本当は相手から遠いところにいることがありえます。

けれども、イエスさまは、そんなわたしたちを、「友よ」と呼んでくださいます。

イエスさまの「友よ」という言葉には、背くわたしたちへの赦しがあります。

わたしたちは、イエスさまを完全に信頼し完全に従っているとは、とうてい言い難いのですが、それにもかかわらず、イエスさまはわたしたちを「友よ」と呼んでくださいます。

わたしたちを「友よ」と呼んでくださるイエスさまこそが、わたしたちのまことの友です。

だから、わたしたちは「友なるイエスよ」と呼びかけるのです。

2024年12月27日 金曜日

おはようございます。

マタイ26:39 父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。

十字架につけられる前の晩に、イエスさまは神さまにこのように祈りました。

この祈りは二段構え、二重構造です。

十字架の苦しみを取り去ってください。しかし、神さまの御心がなりますように。

わたしたちも、二段構えで祈りましょう。

神さま、今、この苦しい問題を解決してください。

しかし、それがすぐに解決しないときは、解決するまで、わたしを支えぬいてください。

たとえば、今、人からひどく苦しめられているとき、そんなことがなくなりますように、と祈るのは当然です。

しかし、自分を苦しめるその人の言動がすぐには変わらないとき、それも、神さまの「御心」と受け入れるのは容易なことではありません。

けれども、苦しむわたしと神さまが一緒にいて支えてくださる。これは、たしかに「御心」です。

どんなときでも、神さまがわたしたちと一緒にいて守り続けてくださいます。

「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」というイエスさまのお言葉は、「何が起こっても、神さまはわたしをお見捨てにならない」「そうやって、神さまはわたしを生き抜かせてくださる」という深い「信頼」を表しているのではないでしょうか。

2024年12月26日 木曜日

おはようございます。

マタイ26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

多くの人々と同じように、ペトロもまた、イエスさまを「道」とは思わず、むしろ、道を妨げる石だとみなしました。

さらには、イエスさまのことを「知らない」「知らない」「知らない」と、三度いなみました。

わたしたちも同様なのではないでしょうか。

けれども、イエスさまは違います。

イエスさまは、わたしたちの道となってくださいました。

イエスさまは、わたしたちに何度でも「お帰りなさい」「お帰りなさい」「お帰りなさい」とうなずいてくださいます。

イエスさまは、わたしたちをけっして忘れず、見捨てず、むしろ、いつでも、いつまでも、わたしたちと一緒にいらしてくださいます。


2024年12月25日 水曜日

神の御子イエス・キリストのお生まれ、おめでとうございます。

マタイ26:26 イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

イエス・キリストは、ご自分の体と血をわたしたちに与えてくださいました。

イエスさまは、その生涯といのちを、わたしたちとわかちあってくださったのです。

そのために、神さまは御子に、体といのちをもたらされました。

それが、イエスさまの誕生と生涯、そして、十字架と復活です。

たとえ、わたしたちの人生が小さく弱く思えても、わたしたちは神さまのいのちをわかちいただいているのです。

幼子イエス・キリストは、弱さの中に満ちている神さまのいのちそのものです。

わたしたちも、イエスさまとともに、それをいただいています。

このことに感謝して、喜びましょう。

クリスマス、おめでとうございます!

2024年12月24日 火曜日

おはようございます。

マタイ26:21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
26:25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

わたしたちもユダと同じように、自分は、まさかイエスさまを裏切ったりはしない、と思い込んでいるのではないでしょうか。自分はどこまでもイエスさまに誠実であると。

けれども、わたしたちは目に見えないイエスさま、神さまよりも、目に見えるものに安心を求めていないでしょうか。「隣人を愛しなさい」というイエスさまのお心に、どこか不誠実ではないでしょうか。

けれども、イエスさま、そして、神さまは、わたしたちを裏切りません。

神さま、イエスさまは、どこまでもわたしたちに誠実で、どんなときでもわたしたちを愛してくださり、どこへ行ってもわたしたちとともにいてくださいます。

「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る」(創世記28:15)

2024年12月23日 月曜日

おはようございます。

マタイ26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。26:9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」

わたしたちは、自分の持っている高価な香油を、自分を高価にし、自分から芳香を放つために用いるのでしょうか。

それとも、自分の香油は、神さまと隣人におささげして、自分は、高価でもなく、香ることもなく、静かに生きるのでしょうか。

神さまの御子イエス・キリストご自身は、香油を手放して、ご自分は貧しい馬小屋にお生まれになったのではないでしょうか。

あるいは、神さまご自身が、香油はわたしたちにくださり、ご自分は、わたしたちと同じ、つましいお姿になってくださったのではないでしょうか。

2024年12月22日 主日(日曜日)

おはようございます。

わたしたちは、苦しんでいる人、悩んでいる人に、どのようにしたらよいでしょうか。

マタイ25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

わたしたちがその人にすること、心を配ることは、イエスさまにすること、神さまに心を配ることなのです。

わたしたちがイエスさまにするのと同じことを、苦しんでいる人にすることができますように。神さまに配るのと同じ心を、悩んでいる人に配ることができますように。

相手を自分の枠組みに取り込んでしまうのではなく、そのままの相手の姿に、わたしたちは仕えることができますように。


2024年12月21日 土曜日

おはようございます。

人生の終わりに神さまに何と言いますか。

マタイ25:20 五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

わたしたちは神さまに生命をいただきました。

それゆえに、わたしたちは、生命の源である神さまを信頼し、感謝し、希望と愛と平和という神さまの御心に少しでも従って、生きていきたいと思います。

これは、義務ではなく、成長です。

この世の生命を終え、天に帰る日まで、わたしたちは、義務ではなく、成長に憧れ、成長する希望を持って、神さまに導かれながら、歩き続けましょう。

そして、その日には、「神さま、あなたはわたしに生命をお預けになりましたが、わたしはそのあなたに感謝して、信頼して、喜んで、ここまで歩んできました」と報告いたしましょう。

そうすれば、永遠のいのちがあきらかになることでしょう。


2024年12月20日 金曜日

おはようございます。

マタイ25:13 目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。

相手が学校の先生や職場の上司、親であれば、その人たちのいるときだけ「良い子」にしていれば、ごまかすことができるかもしれませんが、神さま、イエスさまに対しては、そんなことをしても意味がありません。

神さま、イエスさまは、わたしたちのことをすべてご存じである、ということもありますが、かりに、神さま、イエスさまにわたしたちの見られたくない姿が見られずに済んだとして、そんなことに何の意味があるでしょうか。

わたしたちが「目を覚まして」神さま、イエスさまをお迎えするのは、わたしたちの悪いところを見られないためでもなければ、ごまかすためでもありません。

生活の中でつねに静かに祈り、神さまにお委ねし、感謝し、自分のことだけでなく隣人に配慮する生き方を心がけること、それが基本的な生活姿勢になることこそが、「目を覚ましている」ことではないでしょうか。

立派でもなく、ひけらかすのでもなく、神さまを信じ、人を大事にすることが、自然な生き方になれば、なんとすばらしいことでしょう。

2024年12月19日  木曜日

おはようございます。

イエス・キリストはいつ来られるのでしょうか。

マタイ24:36 その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。

24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。

この世界に神さまの救いが誰の目にも明らかに完成する日はいつなのでしょうか。

けれども、そのことばかりに気をとられていたら、じつは、いますでに、わたしたちの中にイエス・キリストがお越しになっておられることを見逃してしまうかもしれません。

わたしたちは、イエス・キリストがお越しくださるのを待ち望みつつ、(矛盾するようですが)、同時に、イエス・キリストはすでにわたしたちの中にお越しくださっておられることにも気づきたいと思います。

キリストは、やがて、まもなくお越しになられますが、同時に、わたしたちのところに、すでに、お越しくださっておられるのです。

2024年12月18日 水曜日

おはようございます。

マタイ24:35 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。

「天地は滅びる」とありますが、天国は滅びることはありません。

この場合、「天地」とは、空と大地を含めたこの世界のこと、神さまがお創りになられたこの世界のことです。

形あるものは、やがて、朽ちてしまいます。

ですから、この世界にはいろんなことが起こりうるのです。

けれども、たとえ、空と大地が滅びるような大事件が起こっても、イエスさまの言葉、神さまの言葉は、滅びることはありません。

神さまがわたしたちを無条件に愛してくださる。神さまがどんなときでも私たちと共にいてくださる。

このことを言い現わす神さまの言葉、イエスさまの言葉は、けっして滅びることはないのです。

つまり、神さまの無条件の愛、そして、神さまがわたしたちと一緒にいてくださること、このことはどんなことがあっても、いつまでも続くのです。



2024年12月17日 火曜日

おはようございます。

イエスさまはなぜ神殿の建物の崩壊を予告されたのでしょうか。

マタイ24:1 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。 24:2 そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

わたしたち人間が作ったものは、残念ながら、いつか朽ち果ててしまいます。

戦争のように、人間が人間の作ったものを破壊してしまうこともあります。

神さまが創ってくださったこの地球環境でさえ、人間は深刻な危機に追い込んでいます。

それでも、決して壊されないものがあります。

それは、信仰と希望と愛です。

愛は神さまご自身、キリストご自身です。

愛は、また、神さま、キリストとわたしたちのつながりです。

信仰と希望は神さまがわたしたちにくださるものです。

たとえ物質が壊れてしまうことがあっても、目に見えない信仰と希望と愛は永遠です。


2024年12月16日 月曜日

おはようございます。

律法学者やファリサイ派とはどういう人びとでしょうか。

マタイによる福音書23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

イエスさまは彼らを「偽善者」と呼んでいます。見た目は善良そうだけれども、心の中は「強欲と放縦で満ちている」と言います。

わたしたちも、どこか、偽善の部分を抱えていないでしょうか。

誰かのためと言いながら、自分でもそう思いながら、心の奥底では、じつは、やはり自分のためにやろうとしているに過ぎない、ということがないでしょうか。

自分で自分を偽っていないでしょうか。

自分のエゴイズム(自分中心)がわたしたちには見えているでしょうか。

イエスさまは、わたしたちがそれに気づくように導いてくださいます。

そして、自分の心のそのような部分を認め、罪として告白し、イエスさまに従って、それを克服する道を歩むように招いてくださいます。


2024年12月15日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ23:8 あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。

イエスさまのこの言葉はどういう意味なのでしょうか。

これは、神さま、イエスさまに従うわたしたちの間には、上下、優劣の区別はない、ということでしょう。

わたしたちは、他の人より「上に」立ち、人に「教え」たり、人の「間違い」を「正し」たり、したがります。

自分を通したいのです。

けれども、わたしたちに大事なことは、自分の考えを貫くことではなく、ともに神さま、イエスさまの僕(しもべ)である人びとと、ともに、横に並ぶ者として、神さま、イエスさまにお仕えすることではないでしょうか。

わたしたちの「師」は、神さま、イエスさまだけです。

しかし、その神さま、イエスさまは、わたしたちの僕となってくださいました。

フィリピ2:6-7 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

そうであるなら、わたしたちも、他の者の「先生」ではなく「僕」になろうと祈り求めるのではないでしょうか。

2024年12月14日 土曜日

おはようございます。

不言実行、あるいは、有言実行と言います。しかし、そこには、落とし穴がないでしょうか。

マタイ23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。

ひとつは、親や先生から言われることのように、「~しなければならない」と、仕方なくする、という落とし穴です。

もうひとつは、「良いことをする自分は良い人で、誉められる、誉められたい」という落とし穴です。

しかし、たとえば、「殺してはならない」「盗んではならない」という戒めを神さまがくださったのは、わたしたちに仕方なくそうさせるためではなく、おたがい、なるべく人を傷つけない、人に刃のような言葉や態度をむけないことで、わたしたちは、平安に生きられるからです。

「殺してはならない」「盗んではならない」という戒めは、神さまからの束縛ではなく、むしろ、プレゼントです。

「神さまを愛しなさい」「隣人を愛しなさい」とイエスさまが言われるのは、わたしたちが「良い人として誉められる」ためではなく、まず神さまがわたしたちを愛してくださったのだから、それに感謝する生き方をしませんか、と招いておられるのです。

じゅうぶんにできなくても罰せられません。

けれども、神さまを愛する、隣人を愛することを、大事な目標として、つねに心に置き続けましょう。


2024年12月13日 金曜日

おはようございます。

イエスさまはなぜこのように言われるのでしょうか。

マタイ22:37 『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

それは、まず、神さまがわたしたちを愛してくださるからです。

わたしたちは神さまに愛されています。

だから、わたしたちも神さまと隣人を愛するように、イエスさまに招かれているのです。

それができなければ、神さまはわたしたちを愛してくださらない、ということではありません。

神さまがわたしたちを愛してくださるから、わたしたちも神さまを愛し、隣人を愛するように、お誘いを受けているのです。

2024年12月12日 木曜日

おはようございます。

わたしたちは地上の旅を終えた後、どうなるのでしょうか。

マタイ22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

地上の旅を終えれば、地上的な生活は終わりになります。

地上で複数回結婚した人は、天で復活した時は誰と夫婦になるのか、というようなサドカイ派の問いにはまったく意味がありません。

天は地上とは、まったく異なり、わたしたちの体もどうなるのかわからず、ただ「霊の体」(1コリント15:44)と言うしかなく、今と同じように頭があって手があって足があって・・・などと言うことはできません。

わたしたちの地上の意識も、社会制度も、文化も、天でどうなるのかは、わたしたちの理解を超えています。わたしたち地上の人間の言葉で言い表せるものではありません。言い表すべきでもありません。

イエスさまが「復活の時には、めとることも嫁ぐこともない」と言われるのは、そういう意味ではないでしょうか。結婚生活だけでなく、すべてが地上のわたしたちの理解や言葉を超えているのです。

しかし、たしかなことがひとつあります。天では「天使のようになる」とイエスさまは言われます。

天使とは神さまの使いです。

神さまの使いとして、天では、わたしたちは、神さまにしっかりつながっている、これだけはたしかです。

神さまにつながっているのであれば、神さまを通して、わたしたちは、愛する人びとともつながっていることでしょう。

これも、ただ、つながっている、としか言えず、そのつながりかたは、地上のわたしたちの考えにおさまるものではないでしょう。

地上の旅を終えたあとのことは、わたしたちにはわかりません。

ただ、神さまとつながりつづけている。

神さまを信頼して、天のことは、神さまにおゆだねいたしましょう。

2024年12月11日 水曜日

おはようございます。

イエスさまは悪意にユーモアで返すこともあったようです。

マタイ22:17 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

皇帝に税金を納めるべきだと答えると、イエスさまはユダヤを支配しているローマの味方だ、ユダヤ人の敵だ、ということになってしまいます。

また、税金を納めるべきでないと答えると、イエスさまはローマ帝国に反逆している、ということになってしまいます。

そこで、イエスさまは、自分を陥れようとする問いはまともに相手にせずに、「銀貨には誰の顔と名前が刻まれているか、よく見てごらん。皇帝の顔と名前でしょ! それなら、きっと皇帝のものだから、皇帝に返しておけばいいよ!」とユーモアで応答したのではないでしょうか。

イエスさまは、また、神さまにいただいた人生なのだから、神さまにお仕えする=お返ししましょう、と言われたのではないでしょうか。

2024年12月10日 火曜日

おはようございます。

神さまの婚宴にはどんな姿で行きますか。
 
マタイによる福音書22:9 『町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』22:10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。22:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、22:13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』

このイエスさまのたとえ話で「善人も悪人も皆」とあるように、神さまはすべての人を招いてくださいます。

けれども、「婚礼の礼服」を着ていない人がいました。

たとえ話の王は、この人をすぐに責めることはせず、「友よ」と語りかけます。

それでも、黙っているこの人は、外に追い出されることになります。

神さまの前で、わたしたちは自分を飾り立てる必要はありません。

また、自分は正しい、と装うのもよくないでしょう。

謙虚に、打ち砕かれた心で、神さまの前に立ち、神さまの無条件の赦しを知り、

それゆえに、神さまに心から感謝する。

さらに、隣人を裁かず、むしろ、そのまま受け入れることができるように祈る。

そのような姿が、神さまの前ではふさわしいのではないでしょうか。

あなたは、どう思われますか。

2024年12月9日 月曜日

おはようございます。

マタイ21:42 家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。

わたしたちは、これは良くないと言って、誰かや何かを受け容れなかったり斥けたりするかもしれませんが、じつは、それがとても大切なものであるかもしれません。

わたしたち自身も、これは良くないと言われ、受け入れられなかったり斥けられたりすることがあるかもしれませんが、それは、人の判断であり、神さまはいつもわたしたちを大事に思ってくださるのです。

イエス・キリストは世の人びとや、ユダヤの権力者、ローマからの支配者に捨てられ、十字架につけられ、死んで、墓に葬られましたが、神さまは、そのイエス・キリストを復活させてくださいました。

そして、イエス・キリストは、わたしたちの生と心の一番の土台になってくださいました。

宿屋はどこも斥けましたが、飼い葉おけは、生まれたばかりのイエス・キリストを受け入れました。

やがて、イエス・キリストは、わたしたちの飼い葉おけになってくださったのです。


2024年12月8日 主日(日曜日)

おはようございます。

なぜ、徴税人や娼婦たちの方が先に神の国に入る、とイエスさまは言われたのでしょうか。

マタイ21:31 はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。

神さまの救いは、本当は、神さまの愛に基づく、自由で限りないものなのです。

しかし、自分たちは信仰深いと思っている人々は、それを、「自分+信じる=救われる」「1+1=2」というように、あまりにも、表面的、機械的、図式的、数学的にとらえていたのです。

したがって、徴税人や娼婦たちは、神さまを信じておらず、救われない、と見なされていました。

けれども、この図式にとらわれていない徴税人や娼婦たちは、神さま、イエスさまの無償の愛を、そのまま受け入れることができたのです。

粗末な馬小屋の小さなまぶねで眠る幼子イエス・キリストを、わたしたちは頭で考えますか。それとも、心で、そのままお迎えいたしますか。

2024年12月7日 土曜日

おはようございます。

イエスさまは自分のしたいことをし、語りたいことを語っていたのでしょうか。

マタイ21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」

イエスさまが神殿の境内で教えたことは、自分の思想ではなく、神さまの愛の御心でした。

21:13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」21:14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。

イエスさまは、荒れ野で悪魔に打ち勝たれたように、神殿では心の強盗を追い出され、神さまをお迎えし、神さまに従われたのです。

神殿で、目の見えない人や足の不自由な人たちを癒されたのも、自分の支配力によってではなく、神さまの癒しの御心に根差してのことでした。

わたしたちは、自分の思いに立つのでしょうか。それとも、神さまの権威にお委ねするのでしょうか。

2024年12月6日 金曜日

おはようございます。

わたしたちは、何を信じて、何を祈るべきなのでしょうか。

21:21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。21:22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

この言葉の直前に、イエスさまは実を結ばないいちじくの木を枯れさせました。これは、信仰の実を結ばない者たちへの、気づきの促しではないでしょうか。

イエスさまは、疑わない信仰があれば、わたしたちにもいちじくの木を枯らしたり、山が海に崩れ落ちるような大きな破滅を引き起こしたりすることができる、と言われますが、わたしたちは、信仰や祈りをそのようなことに用いるのでしょうか。

イエスさまは信じて祈ればわたしたちにも裁きの奇跡が起こせると言われたように思われますが、22節では、そこから話を切り替えておられるのではないでしょうか。

「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」とは、超能力や魔法のことではないでしょう。重心は「求めるものは何でも得られる」ではなく、「信じて祈る」にあるのではないでしょうか。

苦しいときでも、神さまに信頼して、祈る。そして、しずけき祈りのなかで、神さまの平安、シャロームに包まれる。これこそが、人生の実り、神さまの愛とそれへの信頼の実りではないでしょうか。

2024年12月5日 木曜日

おはようございます。

イエスさまはなぜ神殿で商人たちを追い出したのでしょうか。

マタイ21:12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。21:13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」21:14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。

神殿は、神さまに祈りをささげる場であるはずです。ところが、神殿の支配者たちは、そこを自分たちの私腹を肥やす騒がしい道具にしていたのです。

イエスさまは、この人たちを「強盗」と厳しく批判しました。

反対に、「目の見えない人」や「足の不自由な人たち」を癒されました。

神殿は、人間がお金儲けをしたり、自分の利益のために利用したりするところではなく、苦しむ人びとの祈りを神さまが聞いてくださる「神の家」なのです。教会も同じことです。

静かな夜、わたしたちが心を貧しくし神さまに祈れば、神さまは祈りをしずかに聞いてくださいます。

アドベントです。イエスさまをわたしたちの心にお迎えし、わたしたちの心を神さまの神殿としてお用いいただき、馬小屋にふさわしい、貧しい小さな祈りを神さまにおささげいたしましょう。


2024年12月4日 水曜日

おはようございます。

ロバに乗ってやってこられるイエスさまを、人々は「ホサナ」と叫んで大歓迎しました。

マタイ21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

「ホサナ」とは「救いたまえ」という意味です。

群衆は、イエスさまが救い主であると知っていたから「ホサナ」と叫んだのです。

わたしたちひとりひとりにも、この世界にも大きな「破れ」があります。

わたしたちも、「どうぞ、この世界とわたしたちをお救いください」「ホサナ、イエスさま」と祈りながら、イエス・キリストをお迎えいたしましょう。

2024年12月3日 火曜日

おはようございます。

エルサレムに入る時、イエスさまはどうして、子ろばに乗られたのでしょうか。

マタイ21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

「預言者を通して言われていたこと」とありますが、これは旧約聖書のゼカリヤ書のことです。

そして、その書には、「子ろばに乗って」のあと、つぎにようにあります。

ゼカリヤ9:10 わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。

つまり、イエスさまは、戦車や軍馬ではなく、子ろばを選ばれたのです。

イエスさまは、軍人のように大きな馬に乗って、人びとを威圧し、見下ろすのではなく、子どもの自転車のように、またがれば、足の裏が地面につくような、小さなろばに乗って、人びとと同じ目線になられたのです。

このアドベント、イエスさまは、わたしたちのところにも、軍馬ではなく、子ろばに乗って、平和なお姿でお越しくださいます。


2024年12月2日 月曜日

おはようございます。

ここで大事なのは視力だけなのでしょうか。

マタイ20:30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
20:31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
20:32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
20:33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。

ふたりの盲人は、イエスさまを「主よ、ダビデの子よ」と呼びました。イエスさまが救い主だとわかったのです。

そして、「わたしたちを憐れんでください」と繰り返し祈りました。

すると、イエスさまは二人を「深く憐れ」まれました。これは、イエスさまは自分の内臓が痛くなるくらいに、二人の祈りを強く受け止められたという意味なのです。わたしたちも、人の苦しみを目の当たりにして、自分の胸が痛むことがありますが、それと似ています。

二人は「見える」ようになりました。けれども、これは視力がもたらされたことだけを意味するのではないでしょう。

なぜなら、その後、この聖書を読んで、じつに多くの視覚障がい者がイエスさまを信じるようになりましたが、かならずしも、肉体の視力を得たわけではないからです。

大事なことは、さいごの「イエスに従った」ということです。

二人は最初道端に座り込んでいましたが、イエスさまと出会い、祈り、祈りが聞かれ、立ち上がり、イエスさまに従って歩き始めたのです。

わたしたちも、このアドベント、もう一度イエスさまと出会い、祈りましょう。イエスさまは、ご自分の内臓を痛めるくらいに、わたしたちの祈りを受け止めてくださいます。

そして、わたしたちは、イエスさまに従って歩き始めましょう。

そうすれば、今までとは違う、まったく新しい世界が見えてくることでしょう。

2024年12月1日 主日(日曜日)

おはようございます。

マタイ20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。

ユダヤを囲む異邦人の諸国には、たしかに、支配者、権力者が存在しましたが、ユダヤ人の中にも、支配者や権力者はいました。

イエスさまは、人を支配しようとしたり、権力をふるおうとしたりすることは、何人であろうと、神さまから離れてしまっている、それは神なき振る舞いである、そういう意味で、そんな者どもは「異邦人」である、と言っているのではないでしょうか。

「偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」とありますが、これは、偉くなる方法を伝授しているのではなく、むしろ、「偉くなろうなどという思いを反省して」という意味ではないでしょうか。

わたしたちは、「いちばん上になる」ためではなく、むしろ、そんな考えを恥じて、「僕になる」=他の人の下になることが求められているのではないでしょうか。

2024年11月30日 土曜日

おはようございます。

マタイ20:18 「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

「十字架」と「復活」の間は、どうして、「しかし」でなく、「そして」で結ばれるのでしょうか。

わたしたち人間の思いでは、「十字架で死んでしまう、しかし、復活する」とならないでしょうか。

けれども、ここで、イエスさまは、「十字架、そして、復活」と言われます。この「そして」には、どのような意味があるのでしょうか。

「異邦人」とは、ここでは、ローマ帝国から派遣されてきた総督のことを指しますが、要するに、人間のなすことです。

祭司長たちや律法学者や異邦人は、要するに、人間は、イエスさまを「侮辱し、鞭打ち、十字架につけ」ますが、神さまは違います。

「人の子は三日目に復活する」とありますが、もう少し正確に訳せば、「人の子は三日目に起こされるだろう」となるそうです。

ここには、「神さま」という隠れた主語があります。

神さまが死んだイエスさまを起こされるのです。

人間はイエスさまを十字架につけて死なせますが、神さまは死んで倒れたイエスさまを起こされるのです。

主語が「人間」から「神さま」に変わる。この「そして」には、そのような意味があるのではないでしょうか。

わたしたち人間の本当の主語も、「わたし」「自分」ではなく「神さま」なのです。


2024年11月29日 金曜日

おはようございます。

どんな人でも愛する神さまは不公平なのでしょうか。

マタイ20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

イエスさまのこのたとえ話の主人は神さまのことでしょう。この神さまは不当なことはしていません。

神さまは、すべての人を招くために、夜明け、午前9時、正午、午後3時、午後5時というように、くりかえし、出かけられました。今は神さまの近くにいないように思える人びとも、午前9時、正午、午後3時、午後5時のいずれかには、神さまと一緒になるでしょう。

わたしたちを招く時の神さまの約束、一方的な約束は、わたしたちを無条件に愛してくださる、わたしたちとどんなときでも一緒にいてくださる、わたしたちに平和を与えてくださる、ということです。

この約束も、すべての人に実現されます。

何時に神さまと出会った人にも。

「気前のよさ」とありますが、直訳すれば「善さ」だそうです。

わたしたちはこのたとえ話にあらわれる神さまの「善さ」を妬むのでしょうか。

自分から見れば、それに値しない人にも「善さ」をあたえる神さまを妬むのでしょうか。

それとも、わたしたちの思いをはるかに超える神さまの「善さ」をおおいに喜ぶのでしょうか。

2024年11月28日 木曜日

おはようございます。

わたしたちはほんとうに家族を捨てなければならないのでしょうか。

マタイ19:29 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。19:30 先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。

ここで言われていることは、家族と縁を切ることではなく、家族や財産への執着や依存を捨てることではないでしょうか。

わたしたちは子供がわたしたちがこれがよいと思い描く道を歩んでほしいと思ってしまいますが、そのような執着は捨てて、神さまにお任せするのが良いのではないでしょうか。

わたしたちは、自分の心を支えるために、人間関係や家族、財産に過度に依存してしまっていないでしょうか。

しかし、わたしたちのまことの支え、根本の支えは、イエスさまの御名であり、神さまです。

家族や財産のことで順調に思える人は、じつは、それに依存し、神さまを根本の頼みにしていないかもしれません。

家族や財産のことが順調に思えず、それが支えとならない人は、じつは、イエスさまと神さまにすべて委ねているのかもしれません。

2024年11月27日 水曜日

おはようございます。

わたしたちはどうすれば神さまに救われるのでしょうか。

マタイ19:23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。19:26 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

じつは、わたしたちは自分が何かをすることで神さまに救われることはできません。

たとえ、人を殺さず、不実を働かず、盗まず、自他に偽らず、いのちのつながりを敬愛し、隣人を自分のように愛しても、完全にそうすることは不可能でしょう。

また、自分や自分のモノと思っているものをすべて捨てて、神さまにまったく委ねようとしても、やはり、完全には不可能です。

つまり、わたしたちは、自分の力では自分を救えないのです。

けれども、神さまは違います。神さまはわたしたちを救うことができるのです。

神さまだけがわたしたちを救ってくださるのです。

2024年11月26日 火曜日

おはようございます。

わたしたちには何が欠けているのでしょうか。

マタイ19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

この青年は、いくつかの「項目」を守れば、神さまが救ってくれる、と思っています。だから、人を殺さない、人に不実を働かない、盗まない、自他に偽らない、いのちのつながりを敬愛する、隣人を自分のように愛する、これらの項目は「守っている」と主張し、これらに加えて、あと果たすべき「項目」は何かと訊くのです。

しかし、イエスさまは、その姿勢の間違いを指摘する意味と、これこそがまことに大切なことであるという意味を込めて、「完全になりたいのなら」と言われます。

持ち物を売る。貧しい人々とわかちあう。天に富を積む。イエス・キリストにつながる。

これは、四つの「項目」ではなく、神さまの愛を信頼して神さまのその愛の御心に沿って生きる、このことの四つの側面なのです。

わたしたちは自分という「持ち物」への執着から少しでも距離を置き、神さまの愛に自分を委ねるのです。自分の中が自分の「持ち物」でいっぱいなら、神さまが入って来られる場所はありません。

わたしたちを愛してくださる神さまの愛は、わたしたちのなかでは、わたしたちが神さまを愛する愛、そして、わたしたちが隣人を愛する愛として働いてくださいます。

神さまの愛は、わたしたちの中で働いてくださり、それはこの世の「持ち物」ではなく、「天の富み」を育ててくださいます。

イエス・キリストのお言葉と行いを神さまのお心と信じて、それに少しでも従おうとするとき、わたしたちは少しでも神さまのお心に近づくことができるのです。



2024年11月25日 月曜日

おはようございます。

永遠の命を得るにはどうしたらよいでしょうか。

マタイ19:16 一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」

わたしたちは「どういうことをすれば」神さまにつながることができるのか、その方法を問います。しかし、イエスさまは、方法以前に、ただひとりの「善い方」、つまり、神さまご自身がおられることに、わたしたちの注意を向けてくださいます。

そして、その神さまがすでにすばらしい生き方を教えてくださったことを、思い出させてくださいます。

人を殺さない。人との誠実なつながりを守り抜く。人から盗まない。人にも自分にも嘘をつかない。いのちのつながりを敬う。隣人を自分のように愛する。

このような生き方は神さまの祝福につながる、とモーセは教えてくれたのでした。しかし、それは、奴隷の地エジプトからの解放という大きな祝福を受けた民に示された生き方でもありました。

イスラエルの民は戒めを守ったからエジプトから解放されたのではなく、ただ、民の苦しみをご覧になった神さまの愛によって、救われたのでした。そのようにして救われた民に、上の生き方が示されたのです。

ですから、これは、永遠の命である神さまにつながるための生き方である以前に、永遠の命である神さまがわたしたちの手をすでに握ってくださいながら、教えてくださる生き方でもあるのです。

神さまのその手を振り切らないなら、殺したり、盗んだり、人に不誠実であったり、命のつながりを軽視したり、隣人を蔑ろにしたりすることはできないでしょう。

神さまのその手につながっていたら、人を殺さず、人から盗まず、人に不実を働かず、命のつながりを敬い、隣人を大事にし続けることができるでしょう。

2024年11月24日 主日(日曜日)

おはようございます。

天の国と子どもはどのようにつながるのでしょうか。

マタイ19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」

子どもたちは自ら、あるいは、誰かに連れられて、イエスさまのところに行きます。

そして、イエスさまは、その子どもたちを迎えます。

つまり、天の国は、子どものように、あるいは、子どもを大事にする人のように、自分からそこに入ろうとする面と、その子どもたちを、イエスさまが迎えてくださる二面があります。

このふたつは、どちらが先に起こるというより、同じことの両面でしょう。

子どもたちが訪ねればイエスさまは迎えてくださいますし、イエスさまが迎えてくださるから子どもたちは訊ねるのです。

イエスさまを訪ね、迎えられる時、わたしたちは「神の子」です。

わたしたちは「神の子」だから、イエスさまを訪ね、迎えられるのです。



2024年11月23日 土曜日

おはようございます。

マタイ19:9 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。

当時、結婚は、双方が相手を大事にする気持ちと、神さまの祝福によってなされる、というようなものではなく、男性が女性をあたかもモノのように所有すること、に近かったようです。

そして、別の女性を所有したくなったなら、「この女性はもはやわたしのモノではありません」という内容の離縁状を書けば、妻を離縁することができたようです。

離縁状さえ書けば一方的に離縁できる、という考えは、律法(申命記24:1)に則っているように思われますが、イエスさまは、それは神さまの愛の御心からそれている、と言うのです。

離縁に限らず、正当な手続きなしに人を追い出すことも問題ですが、たとえ、法に触れないとしても、自分の欲望によって、人をモノのように捨てることを、イエスさまは嫌うのです。

害を加える者など、距離を置くべき相手はいますが、人をモノのように利用するのではなく、愛によって尊重する道をイエスさまは示してくださっておられるのではないでしょうか。

2024年11月22日 金曜日

おはようございます。

イエス・キリストのたとえ話の中のこの言葉にはどのような意味があるのでしょうか。

マタイ18:32 不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。

このたとえ話で主人が帳消しにした額は、現在で言えば、一兆円くらいに相当すると考えられます。

それに対して、家来が仲間に貸していた学は、百万円くらいだと考えられます。

ここには、百万倍の違いがあります。

同じ比率で言えば、借りた100万円を帳消しにしてもらっているのだから、他の人に貸した1円は免除にしましょう、ということになります。

神さまはわたしたちに生命をくださいました。身体をくださいました。生きる場所、生きる時間をくださいました。言葉や文化をくださり、家族や隣人をくださいました。衣食住をくださいました。心をくださいました。人生の喜びをくださいました。無償の愛をくださいました。いつもともにいてくださいました。平和をくださいました。

わたしたちのすべては神さまにいただいたものです。

だから、わたしたちの今日の1秒を、心のごく小さな一部を、わずかな働きを、隣人とわかちあうことができるのではないでしょうか。

2024年11月21日 木曜日

おはようございます。

人を赦す、ということは、どういうことでしょうか。

マタイ18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

自分は人を七回も赦すつもりだ、という得意な思いが、ペトロの中にあったのかもしれません。

たしかに、仏の顔も三度、と言うくらいに、わたしたちは、人を赦せるとしても、限度があります。

しかし、八回目は赦さなかったならば、それまでの七回は無意味になってしまうのではないでしょうか。

神さまの赦しには、限界がありません。

無条件の愛には、「七度目までは赦すが八度目は赦さない」という条件はないのです。

491回目も神さまは赦してくださることでしょう。

しかし、それは、わたしたちをあきらめたり、手に負えない、どうしようもない、と放置しているのではなく、わたしたちが帰って来るのを待っておられるのです。それどころか、探しに来てくださるのです。

2024年11月20日 水曜日

おはようございます。

マタイ18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

わたしたちが地上でなすことで、人との関係のように大事なことは、できるだけ神さまの御心に添えますように、という祈りを大事にしましょう。

愛、平和、喜び、赦し、寛容の神さまの御心に添えますようにと。 その祈りが、とくにふたり以上の間でなされるのなら、きっと天に届くことでしょう。

同時に、イエスさまがその場にいてくださることでしょう。

2024年11月19日 火曜日

おはようございます。

マタイ18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

イエスさまは徴税人の友となりました。イエス・キリストの福音はユダヤ人と異邦人に伝えられました。

それを考えると「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」という言葉は、イエスさまが異邦人や徴税人を良く思っていないことを意味しているのではなく、むしろ、「あなたたちは異邦人や徴税人を斥けるが、人にそのようなレッテルを貼って非難することには慎重でありなさい」という戒めの意味を持っているのではないでしょうか。

非があると思う人をいきなり全員の前で咎めるのではなく、まず、一対一で話をし、それで通じなければ、もう一人二人を交えて話を続け、それでも聞き入れなければ、教会に訴え、それでもだめなら、そのときはじめて、その人に「あなたは神さまに救われませんよ」と言うのもしかたがない、ということではないでしょうか。

言い換えれば、人を簡単に、この人は神さまに救われない、などと決めつけてはならない、ということをも、イエスさまは教えておられるのではないでしょうか。


2024年11月18日 月曜日

おはようございます。

マタイ18:12 ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。

あなたは、一匹の方ですか、それとも、九十九匹の方ですか、あるいは、「ある人」(たぶん、羊飼い)ですか。あるいは、どれにも、少しずつ、あてはまりますか。

あなたがこの話を聞いて喜ぶとしたら、自分が見つけてもらったように思えるからでしょうか。それとも、自分が一匹を見つけ出すことを想像するからでしょうか。あるいは、自分は一匹ではないけれども一匹が見つかったらうれしくなるからでしょうか。

イエスさまのこのお話は、神さまやイエスさまが一匹を大切にする話でもあり、九十九匹が一匹を斥けない話でもあり、あるいは、わたしたちが見失った神さまやイエスさまを見つけ出す話でもあるかもしれません。

高価な真珠や畑の中の宝を見つけるイエスさまのたとえ話のように。

いかがでしょうか。


2024年11月17日 主日(日曜日)

おはようございます。

この言葉でイエスさまはどういうことを言っておられるのでしょうか。

マタイ18:6 わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。

「わたしを信じるこれらの小さな者」とは、子どものように(18:5)、あるいは、飢え渇いている人、宿のない人、獄にいる人、衣服のない人、病気の人(25:35-36)のように、ただ、神さま、イエスさまを信頼する人しかない人たちのことではないでしょうか。

そのように、弱く、力がなく、ただ神さまだけに支えられて生きている人びとを、虐げたり、軽蔑したり、排除したり、無視したりするのであれば、わたしたちは、海の底に沈められている方がましだ、とイエスさまは言われるのです。

言い換えれば、イエスさまは、このような「小さな者」たちを大事になさいました。

わたしたちも、このイエスさまのお心に倣うように招かれているのではないでしょうか。

2024年11月16日 土曜日

おはようございます。

マタイ18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。

子どものように、すなおに純真になりなさい、とイエスさまは言っておられるのでしょうか。

それもあるかもしれませんが、それだけではなさそうです。

18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。

弟子たちのこの質問に対して、そして、学識ある大人を選ぶだろうという期待に反して、イエスさまは、「自分を低くして、この子供のように」と答えています。

これは、そもそも、誰が偉いとか偉くないとか、そういう考え方、そういう価値観は、天の国、神さまのみ心にふさわしくない、と言っておられるのではないでしょうか。

偉い/偉くない、優れている/劣っている、正しい/正しくない。

人をこのように見るのではなく、人はみな、ひとしく、神の子なのだ、神さまの愛の世界の住人なのだ、と言っておられるのではないでしょうか。


2024年11月15日 金曜日

おはようございます。

献金は強いられてするものでしょうか。それとも・・・

マタイ17:24神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。17:25 ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」17:26 ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。

イエスさまは、「やもめの献金」は尊重しましたが、神殿が「税」としてお金を取り立てることには賛成しませんでした。

わたしたちは、神さまの子ですから、神さまの家である神殿、自分の親の家に、「税」としてお金を納めることは強いられないのです。神さまはわたしたちに「税」を課さないのです。

17:27 しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

けれども、魚が釣れたり、さらには、その中に、驚くべきことに銀貨が見つかったりしたときは、神さまのお働きに用いられますようにと感謝して、いただいた恵みの一部をおささげする。献金とはこういうことではないでしょうか。

魚は日ごとの糧、必要な糧ですが、銀貨はどうなのでしょうか。

2024年11月14日 木曜日

おはようございます。

マタイ17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」

信仰によって悪霊を追い出すことは、霊の実によって肉の業に打ち克つことでもないでしょうか。

ガラテヤ5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

愛は利己心を、喜びは怒りを、平和は敵意を、寛容は争いを、親切は不和を、善意はそねみを、誠実はねたみを、柔和は怒りを追い出すのです。

自分の敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみに支配されないように、わたしたちの中には、聖霊の愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制があることを、その都度、想い起こし、その働きにわたしたちを譲る心を強くしたいと祈ります。

2024年11月13日 水曜日

おはようございます。

ペトロはどうして小屋を建てたがったのでしょうか。

マタイ17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

イエスさまのまばゆい姿は、復活の予告でもあったのではないでしょうか。

しかし、復活は十字架の苦しみの後に訪れるのです。

ペトロは、苦しみに耐えることをすっ飛ばして、いますぐ復活の喜びにひたろうとして、小屋を建てよう、などと言ったのではないでしょうか。

けれども、イエスさまは言われました。

17:12「 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」17:13弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

エリヤの再来とも思われた洗礼者ヨハネが苦しんで死んだように、イエスさまが復活なさるのも、十字架の苦しみを経てからのことでした。

同じように、わたしたちも今の苦しみをくぐりぬけないと復活の喜びにあずかれない、ということになりますが、言い換えれば、今の苦しみは苦しみのままに終わらず、かならず復活の喜びがある、ということでもあるのです。

喜びの時は、今にも訪れるかも知れませんし、希望を持って待たなければならないかもしれません。

けれども、間違いないことは、神さまは、わたしたちに喜びの時をかならず与えてくださる、ということです。

ペトロのように小屋など作ってつかのまの喜びをあせって閉じ込めようとしなくても、喜びはかならず来ると信頼すれば、その喜びは、じつは、今、ここにもあるのです。

2024年11月12日 火曜日

おはようございます。

イエスさまはどういう意味で「自分の命」と言っているのでしょうか。

マタイ16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

わたしたちの中には、何でも自分の思うようにしたい、家族や集団も自分の思うようにしたい、という情欲が渦巻いています。(むろん、家族や友を救いたいという健全な祈りは大切です)

けれども、イエスさまは、そういう自分の欲望を捨てて、ついてくるように招いてくださいます。イエスさま御自身が、ご自分の情欲を捨てたからです。

自分の情欲を通そうとする者は、神さまや隣人とつながった本当の自分、本当の命を失いますが、自分の情欲を捨てようとする者は、神さまや隣人とのつながりへの希望が与えられます。

わたしたちが、たとえ、すべて自分の情欲のとおりにできても、神さまや隣人とのつながり、神さまや隣人の思いを失ったら、何の得があるでしょうか。それこそが、自分の本当の命だからです。

神さまや隣人とのつながりを買い戻すにはどうしたらよいでしょうか。

じつは、イエスさまがその代価を支払ってくださいました。

わたしたちは、自分の情欲ではなく、イエスさまと神さまのお心を思いながら、イエスさまにしたがっていくならば、神さまや隣人とのつながりをもう一度与えられることでしょう。

2024年11月11日 月曜日

おはようございます。

ペトロはなぜイエスさまをいさめたのでしょうか。

マタイ16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

「苦しみを受けて殺される」。自分が救い主であると告白したイエスさまがそうなることだけでなく、自分も同じように苦しい道を歩む。ペトロはこれを受け入れられなかったのではないでしょうか。

けれども、わたしたちは自分の人生の苦しみ、重荷を回避せずに、それを引き受けて、歩いていくのです。

16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

わたしたちは自分の苦しみ、自分の痛みを背負って、イエスさまに従うのです。

イエスさまに従うとは、イエスさまに先頭に立っていただいて、道を切り開いていただくということです。だから、わたしたちは、道がつらくても、なんとか歩くことができるのです。

今歩いている道の苦しみがなくなれば、それはすばらしいことですが、たとえなくならなくても大丈夫です。

イエスさまがご自分とわたしたちの十字架を背負って、前を歩んでくださいますから、わたしたちはそれに従って、自分の十字架を背負って歩むことができます。

ふしぎなことに、わたしたちの前を行くイエスさまは、どうじに、わたしたちの隣にいてくださり、さらに、わたしたちの後ろを守ってくださるのです。

ですから、あなたのその道が、今とても苦しくても、きっと歩むことができます。イエスさまがそうさせてくださいます。

2024年11月10日 主日(日曜日)

イエスさまとペトロはどのような関係なのでしょうか。

マタイ16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。

「あなたはメシア、生ける神の子です」「あなたはペトロ」というように、ふたりはたがいに「あなた」と呼び合い、たがいがどういう存在であるかを告白し合っています。

「メシア」や「生ける神の子」は「救い主」を意味し、「ペトロ」は「岩」を意味します。

ペトロがイエスさまのことを救い主であると告白できたのは、神さまの導きによります。わたしたちは自分で信仰告白しているようであって、じつは、神さまがそうさせてくださるのです。

また、ペトロの人生も、自分の力で自分の欲望のとおりに生きるのではなく、イエスさまに用いられます。

教会はイエス・キリストの体、つまり、イエス・キリストが働く場です。ペトロは教会の長ではなく、むしろ、下敷きです。ペトロは自分が上に立つのではなく、背中にイエスさまの体を乗せるのです。

「陰府の力が教会に対抗できない」のはペトロの力ではなく、教会がイエス・キリストの体、イエス・キリストの力が働く場だからです。

わたしたちは、イエス・キリストの体をいただきながら、イエス・キリストの体にお仕えするのです。人の生を満たすというキリストの働きを下からお手伝いするのです。それはわたしたちが人の上に乗らないためです。ましてや、神さまより上になろうとしないためです。

強いられて踏み台にされるのではなく、神さまにお祈りすることで、わたしたちが自分を低くし、イエスさまに上に乗っていただき、神さまと人びとにお仕えすること。あなたは、どう思われますか。



2024年11月9日 土曜日

おはようございます。

マタイ16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。

ファリサイ派とサドカイ派のパン種とはどういうことでしょうか。

こうすれば救われる/そうしないと救われない、こういう人は救われる/こういう人は救われない、というように、神さまの救いをあたかも算数の問題の解き方のようにしてしまい、自分の努力で救われようとする誘惑はわたしたちの中にも潜んでいます。

あるいは、目に見える形式的な儀式にこだわり、目に見えない神さまのお働きを見ようとしない誘惑もまたつねにわたしたちの近くにあります。

けれども、イエスさまは、正しい問題の解き方を自分で身に着けるようなやり方で自分を救おうとするのではなく、神さまの救いの御心と御業に委ねる道を教えてくださいました。

また、目に見えるものや「しるし」にこだわらず、目に見えない神さまのお働き(たとえば、植物の成長のような)を信頼する道を、イエスさまは教えてくださいました。

2024年11月8日 金曜日

おはようございます。

神さまやイエスさまを信じるのに、証拠は必要でしょうか。

マタイ16:1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。

子どもが親に、夫が妻に、「自分を愛している証拠を見せてくれ」というときは、両者の間には、すでに、信頼関係が成立していません。

証拠は要らないのです。

イエスさまは言われました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(16:4)

わたしたちは、神さまとも、イエスさまとも、証拠ではなく、愛と信頼で結ばれます。

わたしたちは空気を吸うとき、証拠によって空気の存在を信じるのではなく、すでに空気に包まれています。

同じように、わたしたちが神さまの愛をいただくとき、証拠によって神さまの存在を信じるのではなく、すでに神さまの愛に包まれているのです。

わたしたちが地面の上に立つとき、証拠によって地面の存在を信じるのではなく、すでに地面によって支えられています。

同じように、わたしたちが神さまを信頼するとき、証拠によって神さまの存在を信じるのではなく、すでに神さまによって生かされ支えられているのです。


2024年11月7日 木曜日

おはようございます。

イエス・キリストは、どうして何千人もの人を満腹にすることができたのでしょうか。

マタイ15:36 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。15:37 人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。

弟子たちは言いました。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」(15:33)。

彼らは食べ物を「どこから」か調達して来るしかないと思っていたのです。

しかし、イエスさまは違いました。イエスさまは、パンと魚を取り、「感謝」の祈りを唱えました。「どこから」か調達してくるのではなく、今ここにある恵みに感謝したのです。

そして、その恵みを「裂き」ました。そして、「渡し」ました。つまり、今ここにある「恵み」を誰か一人のものとせずに、《わかちあう》ことを、イエスさまは教えてくださったのです。

イエスさま自らがわかちあってくださったのです。

こうして、そこにいる皆が、恵みで「満腹」になりました。恵みで満たされたのです。

2024年11月6日 水曜日

おはようございます。 イエスさまは人びとの何を癒されたのでしょうか。

マタイ15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。

イエスさまは、同時に、わたしたちが自分の人生を自分で進めるように、目に見えない神さまと出会うことができるように、人に束縛されずただ神さまに委ねるように、やさしく愛に満ちた言葉を発することができるように、そのように導いてくださいます。

わたしたちは、祈りつつ、この導きを感じるように意識してみるのはどうでしょうか。

2024年11月5日 火曜日

おはようございます。

異邦人の女性がイエスさまのところに来て、自分の娘のいやしを願います。

イエスさまはどうなさるでしょうか。

マタイ15:25 女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

わたしたちも、自分の信仰は神さまの「子供」であるなどと言えるようなものではない、自分なんか「小犬」に過ぎない、と思ってしまうことがあるかもしれません。自分は神さまの救いにふさわしくないと。

それでも、この女性は、自分の娘の癒しをひたすら求めました。

わたしたちも、自分の信仰は浅い、ふさわしくないと思っても、自分、そして、自分以外の人のことをひたすら祈ることが大切ではないでしょうか。

2024年11月4日 月曜日

おはようございます。

マタイ15:11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。

イエスさまのこの言葉はどういう意味でしょうか。

ファリサイ派や律法学者たちは、神さまは「きよい」方だから、人は「けがれ」を避けるために、「けがれた」手で食事をしてはならないとしていたようです。

けれども、その「けがれ」は、異邦人や病気の人を「けがれている」とするような類のことであり、神さまご自身は、そのような人びとを斥けるはずがありません。

むしろ、「だれだれはけがれている」というような言葉こそが、そのようなことを言う人をけがす、とイエスさまは言われるのです。

神さまを「きよい」お方とすることは大切ですが、それは、愛に基づくきよさであり、弱い人びと、苦しむ人びとを斥けるきよさではありません。

むしろ、人が「けがれている」とする人びとを愛することに、そして、わたしたちを愛してくださることに、神さまの「きよさ」があるのです。

2024年11月3日 主日(日曜日)

おはようございます。

イエスさまはどうやって病人を癒したのでしょうか。

マタイ14:35 土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、14:36 その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

その土地の人びとは、イエスさまが病人を癒すことを知っていました。そのイエスさまがその土地に来たことを知った人びとは、自分が病人であろうとなかろうと、病人を癒すイエスさまの来訪の情報と喜びを、自分一人のものとせず、「付近にくまなく」、つまり、すべての人とわかちあったのです。

そして、人びとは自分では歩けない病人をイエスさまのところに連れてきました。つまり、人びとは病人とともに歩んだのです。

さらに、「その服のすそにでも触れさせてほしい」と願いました。つまり、人びとは病人とともに祈ったのです。

このように、人びとは、イエスさまの来訪の情報と喜びを病人とわかちあい、病人とともに歩み、病人とともに祈ったのです。

そうやってイエスさまに触れた病人を、イエスさまはお癒しになられました。


2024年11月2日 土曜日

おはようございます。

水の上を歩くにはどうしたらよいでしょうか。

マタイ14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

水の上を歩くには、イエスさまの「来なさい」という言葉を信じて、歩くことです。

しかし、ペトロは、イエスさまの「来なさい」という言葉より、「強い風」の方が気になってしまい、沈みかけたのです。それでも、イエスさまは、沈みかけるペトロに手を伸ばされました。

わたしたちが困難な人生を生きるのも、この話と同じです。困難な道を歩くには、イエスさまが「来なさい」と言って導いてくださることを信じることです。

それでも、わたしたちは十分に信頼しきれず、沈みそうになります。

けれども、そんなときでも、わたしたちが沈まないように、イエスさまは手を伸ばしてくださいます。


2024年11月1日 金曜日

おはようございます。

マタイ14:24 舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

「安心しなさい。恐れることはない」とイエスさまが言われるのは、何についてのことなのでしょうか。

ひとつは、弟子たちに現れたのは「幽霊」ではなく、イエスさまなのだ、ということですが、さらに言えば、湖の逆風、波を恐れることはない、安心してよい、ということではないでしょうか。

わたしたちの人生にも逆風が吹き、大波に見舞われますが、イエスさまがおられるから、恐れることなく、安心してよいのではないでしょうか。

「わたしだ」とイエスさまが言われたのは、「幽霊ではない。わたしだ」ということに加えて、「わたしがここにいる。わたしが一緒にいる」という意味のように感じられますが、どう思われますか。

2024年10月31日 木曜日

おはようございます。

イエスさまは、どうして、皆を村へ行かせ食べ物を調達させなかったのでしょうか。

マタイ14:15弟子たちがイエスのそばに来て言った。「群衆を解散させてください。自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

それは、今そこにないものを他から調達してくるよりも、今その場にあるものを皆でわかちあうこと、そして、神さまを信頼することを、イエスさまは伝えようとなさったからではないかと考えますが、いかがでしょうか。

14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。

イエスさまのこのお姿は、詩編23編の、羊飼いなる主のお姿と重なるように感じられますが、どう思われますか。

詩編23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

2024年10月30日 水曜日

おはようございます。

イエスさまは人びとと深い交わりをするがゆえに、かえって、神さまの前でひとり静かに過ごすことが必要でした。しかし、それは、人びとを無視したり嫌ったりすることではありませんでした。

マタイ14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

「憐れむ」とありますが、これは「はらわた」「内臓」という名詞が動詞になったものだそうです。 そうすると、どういう意味になると想像できますか。

たとえば、「自分のはらわたが動く、はらわたを痛める」など・・・

皆さんはどう思われますか。

イエスさまは、ひとり神さまと過ごすときを持ちながらも、人びとを深く憐れむこと、つまり、わがこととして心を痛めることを忘れなかったのではないでしょうか。


2024年10月29日 火曜日

おはようございます。

マタイ14:1 そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、14:2 家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」

ヘロデ王はなぜイエスさまが洗礼者ヨハネの生まれ変わりだと思ったのでしょうか。

14:3 実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。14:4 ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。

ヨハネはヘロデ王の不正を指摘しましたが、イエスさまも神さまの光に照らして人びとの偽善を明らかにしました。

ヘロデは自分を裁く預言者であるヨハネをなき者としましたが、イエスさまの中にやはり神さまの預言者の姿を見て、「ヨハネが死者の中から生き返った」と言ったのではないでしょうか。

神さまのお言葉を預かって支配層の悪を裁く旧約聖書の預言者の霊が、ヨハネとイエスさまに引き継がれていたのではないでしょうか。

皆さんは、どう思われますか。

2024年10月28日 月曜日

おはようございます。

マタイ13:54 人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。13:55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。13:56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」

「このような知恵と奇跡を行う力」「こんなことをすべて」とあります。

では、人々は、イエス・キリストを称賛しているのでしょうか。

13:57 このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、13:58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

いや、人々は、イエス・キリストの「知恵と奇跡」を称賛しているようであっても、じつは、イエスさまに「つまずき」「敬わず」「信じなかった」のです。

人々は、目に見えること、人間の感覚によるものは、喜んでも、目に見えず、人間の感覚を超えた「神さまの霊」を、イエスさまの中に予感することはできなかったのです。


2024年10月27日 主日(日曜日)

おはようございます。

わたしたちは自分の何に警戒し、何を大切にすべきでしょうか。

マタイ13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

わたしたちには、自分中心の部分があります。

自分の考え、思いが正しいと主張し、それとは異なる考えや人を受け入れません。

わたしたちの中のこのような部分には、十分警戒したいと思います。

他方、わたしたちの中には、自分自身でも尊重すべき大切なものがあります。

それは、機械やモノや部品のように他のものとは交換できない、かけがえのないわたしたち自身です。

わたしたちは、神さまのみ心に触れたならば、自分中心の自分からは離れ、尊重すべきかけがえのない自分と、神さまのみ心、この二つを大切にしたいと思います。

そして、神さまと出会う前から大切にしてきた、尊重すべきかけがえのない自分は、じつは、神さまにいのちを与えられ、生かされ、愛されている自分であることに気づきたいと願います。


2024年10月26日 土曜日

おはようございます。

神さまは悪人をどうなさるのでしょうか。

マタイ13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

神さまの愛のみ心を離れ、神さまを信頼せず、隣人を愛さず、自分中心に生き、人を傷つけ、人とわかちあわない生き方をしてきた者は、燃え盛る炉の中に投げ込まれる、とイエスさまは言われます。

けれども、話はこれで終わりではありません。

炉の炎はこのようなわたしたちの罪と悪を焼き尽くしてくれるでしょう。

しかし、わたしたちはこの炎に耐えることはできません。

ですから、イエスさまがわたしたちの代わりに、炎に焼かれてくださいました。

それが十字架です。

イエスさまの十字架によって、わたしたちの悪は焼かれ、罪から赦されるのです。

神さまがわたしたちをそのようにしてくださったのですから、わたしたちもそれにお応えして、今まで以上に神さまに信頼し、自分のことばかりでなく隣人のことを考え、人を傷つけず、むしろ、慰める生き方ができるように、深く祈り求めましょう。


2024年10月25日 金曜日

おはようございます。

「天の国」は、わたしたちにとってどのようなものなのでしょうか。

マタイ13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

ひとつは、畑を耕していたら宝が見つかることのように、神さまはわたしたちが予期しない形で出会ってくださるということです。そして、持ち物を売り払ってでも宝を手に入れたいように、神さまとの出会い、神さまご自身は、わたしたちにとっていちばん大切なのです。

もうひとつは、良い真珠を求めていた商人がそれを見つけるように、神さまは探し求めている者と出会ってくださるということです。そして、やはり、持ち物を売り払ってでもその真珠を欲しいように、神さまはなにごとにも替えられないお方であるのです。神さまがおられれば、わたしたちはすべてを所有しているに等しいのです。

このように、わたしたちは、自分が求めていたわけではないのに、まったく思いがけない形で、神さまが出会ってくださることもあれば、神さまを自分から求め、その道の上に神さまがお越しくださることもあれば、神さまを自分から求めつつも、予期しない形で神さまがお越しくださることもあります。

いずれにしろ、神さまと「神さまの愛のみ心によるお治め」(神の国、天の国)は、わたしたちの最高の宝です。

2024年10月24日 木曜日

おはようございます。

天の国はどんな点が小さな種の成長に似ているのでしょうか。

マタイ13:31 天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。

「天の国」とは死後の世界に限らず、神さまのみ心がみなぎる世界のことです。

小さな種が大きな木に育つように、今は小さく見えても、神さまのみ心は、大きく広がっていきます。

また、神さまのみ心に触れることによって、わたしたちの心の中にも希望が生まれ、それも大きく育っていきます。

そして、小さな種や植物は、わたしたち人間の計画や力によってではなく、神さまのいのちの力によって育つように、「天の国」「神さまの国」「神さまのみ心のおさめる世界」「わたしたちが神さまからいただく希望」も、わたしたちの力や計画ではなく、神さまのみ心とお力によって大きく育っていくのです。

わたしたちの思いや計画はどこかに「私欲」を含んでいます。

けれども、神さまのご計画は、世界とわたしたちのためのみ心なのです。

これにお委ねいたしましょう。


2024年10月23日 水曜日

おはようございます。

イエスさまは毒麦をどうなさるのでしょうか。

マタイ13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

これは、イエスさまのたとえ話の中の主人の言葉ですが、イエスさまのお心もあらわしていることでしょう。

わたしたちは、この人は毒麦だと決めつけ、すぐに抜いてしまおう、と思いますが、イエスさまは、すべての人を救おうとなさるのです。

ですから、すぐに決めつけ、滅ぼしてしまうことをなさりません。

また、毒麦は「焼くために束にしなさい」とはありますが、「焼きなさい」とは言われていません。

もし焼かれるにしても、それも、わたしたちの悪の部分を焼いてくださることなのかもしれません。

いずれにせよ、イエス・キリストのお心は、わたしたち人間の「これは毒麦だ、今すぐ抜いて、今すぐ焼いてしまおう」という思いとは、まったく違う、愛のお心なのです。

2024年10月22日 火曜日

おはようございます。

神さまからの福音(良い知らせ)を聞くとはどういうことでしょうか。

マタイ13:23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。

神さまはわたしたちに「わたしはあなたを愛している」と言ってくださいます。

神さまがわたしたちを愛してくださる、ということは、わたしたちの聞き方にかかわらず、神さまの現実です。

けれども、わたしたちがこの御言葉を聞いて、美しい、うれしい、喜ばしい、救われる、と感じたならば、「わたしはあなたを愛している」という御言葉がわたしたちのなかでも現実になるのです。

神さまがわたしたちとともにいてくださる、ということは、わたしたちの聞き方にかかわらず、神さまのゆるがぬ現実です。

けれども、わたしたちがこの御言葉を、美しい、うれしい、救われる、慰められる、この御言葉があれば生きていける、と喜びつつ、いただくのであれば、「神さまはわたしたちとともにおられる」という御言葉がわたしたちのなかでも現実になるのです。

2024年10月21日 月曜日

おはようございます。

イエス・キリストの母と兄弟は何が問題だったのでしょうか。

マタイ12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

イエスさまは、ここで、家族を粗末に扱おうとしたのではないのです。

問題なのは、イエスさまの母と兄弟は「外に立っていた」ことなのです。

中に入らず、外からただ見ているだけでは、イエスさまやイエスさまに従う人びとと、交わることも関わることもできないのです。

神さまを信頼し、イエスさまに従って生きるということは、思い切って中に入ってみることから始まるのです。

神さまを信頼してみよう、イエスさまに従ってみよう、と飛び込んでみることから始まるものがあるのです。

2024年10月20日 主日(日曜日)

おはようございます。

イエス・キリストを信じるのに、証拠が必要でしょうか。

マタイ12:39 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。''''

「人の子も三日三晩、大地の中にいる」とは、イエス・キリストが十字架につけられ、死んで、墓に葬られて、三日目に復活することを指すのでしょう。

わたしたちは、証拠ではなく、これを信じるのです。

ヘブライ11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

信仰には、「見える証拠」は必要ないのです。

2024年10月19日 土曜日

おはようございます。

わたしたちの心の倉には何を宿すべきでしょうか。

マタイ12:33 木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。

わたしたちは、神さまとイエス・キリストの愛と共感の御心につながって、良い実を結びたい、と切に祈ります。

12:35 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。

わたしたちは、自分の邪気を自分の心に貯めこみ吐き出すのではなく、神さまの平和の御心を吸い込み、祈りと歌声として発することができますように、と祈ります。

12:37 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。

わたしたちは、自分の言葉に執着すれば、神さまと人から離れてしまいますが、

神さまとイエス・キリストの御言葉によるのであれば、義とされるのです。


2024年10月18日 金曜日

おはようございます。

イエス・キリストが悪霊を追い出すとはどういうことでしょうか。

マタイ12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

体、心、人間関係、家族、仕事、お金、信仰生活、戦争、災害などで、わたしたちは大きな苦しみを抱えることがあります。

しかし、たとえどれだけ苦しくても、わたしたちは苦しみに完全に支配されているのではありません。

「神の国」がわたしたちのところに来ている、とイエス・キリストは言われます。

「神の国」とは「神さまの支配」「神さまのお治め」「神さまこそがわたしたちの王」ということです。

どんなに苦しくても、わたしたちは苦しみに支配されたり治められたり、苦しみがわたしたちの王になったりすることはないのです。

なぜなら、神さまこそがわたしたちを治めてくださる王だからです。

12:31 “霊”に対する冒涜は赦されない。
12:32 、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。

「神の国」がわたしたちのところに来ているとは、悪霊ではなく、アガペーとインマヌエルの聖霊こそがわたしたちを治めていてくださるということなのです。


2024年10月17日 木曜日


おはようございます。

マタイ12:15 イエスは皆の病気をいやして、12:16 御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。

キリストはなぜこのように戒められたのでしょうか。

ひとつは、手の萎えた人を安息日に癒したことで、ファリサイ派に命を狙われることになったからでしょう(12:14)。

同時に、これは、旧約聖書のイザヤ書の預言の成就も意味していました。

12:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
12:19 彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。12:20 正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」

彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」とは、キリストが病気や障がいのある人々を見捨てず癒すことを指すのでしょう。

叫ばず、その声を聞く者は大通りにいない」とは、キリストは人びとを癒されたことを、宣伝しないだけでなく、なるべく知られないようになさったことを指すのでしょう。

キリストが人びとを癒されたのは、自己アピール、自己主張のためではなく、ただただその人びとの癒しのためだったのです。

キリストは、ご自分のためではなく、わたしたちのために、しずかに、ひそかに、けれども、深く、わたしたちをお癒しくださいます。

フィリピ2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

キリストは、誇らず、かえって、ご自分を無になさったのです。

2024年10月16日 水曜日

おはようございます。

安息日は働いてはならない、と言われますが、病気を治す行為はどうでしょうか。

マタイ12:10 片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。12:11 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。12:12 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」

申命記にはこうあります。5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷も休むことができる。

つまり、神さまが世界を創造された際に七日目はお休みになったように、安息日は、人間も動物も、休み=安息=平安=シャローム=癒しを神さまからいただく日でもあるのです。

ですから、安息日にイエス・キリストが癒しをなさることは当然なのです。


2024年10月15日 火曜日

おはようございます。

安息日には本当に何をしてもいけないのでしょうか。

マタイ12:7 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。12:8 人の子は安息日の主なのである。」

聖書においては、安息日は、金曜日の日没から土曜日の日没までの24時間と考えられています。

出エジプト記20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

11節は創世記の以下の言葉に由来します。「2:1 天地万物は完成された。2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」

つまり、天地創造の時神さまは七日目に安息なさったのでわたしたち人間も七日目に安息しなさい、と言うのです。

さらに、申命記にはこうあります。「5:12 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」

ここには「あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」とあり、安息日は、神さまがわたしたちを休ませてくださるための日でもあるのです。

わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とありますが、人を休ませることは、まさに、憐れみです。

人の子は安息日の主なのである」とありますが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言われたイエス・キリストは、まさに、安息日の主でいらっしゃるのです。


2024年10月14日 月曜日

おはようございます。

イエス・キリストは、わたしたちを休ませ、キリストに従うように招いてくださいます。

マタイ11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

わたしたちは、疲れ、重荷を負うて生きていますが、キリストは「だれでも」受け入れてくださり、慰めと安息、平安を与えてくださいます。

キリストは、攻撃的ではなく、柔和なお方で、傲慢ではなく、謙遜なお方ですから、わたしたちは、このお方に学び、牛が二棟並んで畑を耕すように、わたしたちもこのお方と「共に」歩みたいと願います。

わたしたちも、このお方のように、人に対して、柔和で謙遜でいたい、言葉と態度で人を攻撃したり抑えつけたりしない生き方を、切に祈り求めます。

これが、わたしたちの平安です。



2024年10月13日 主日(日曜日)

おはようございます。

イエスさまのこの厳しい言葉の真意はどこにあるのでしょうか。

マタイ11:20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。11:21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。」

それは、わたしたちが打ち砕かれるためです。

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

わたしたちは、自分は正しい、自分はわかっている、と思っていないでしょうか。
信仰においても、そういうことがないでしょうか。

もし、そうであれば、それは、信仰のようであっても、じつは肉の想いなのではないでしょうか。

しかし、霊は肉の傲慢、自分中心、自分崇拝を打ち砕き、柔和、平和、まことの礼拝をもたらしてくださいます。

わたしたちの「知恵」や「賢さ」が打ち砕かれ、わたしたちが「幼子」になるとき、わたしたちは、イエス・キリストの救いに触れることができるのです。

2024年10月12日 土曜日

おはようございます。

イエス・キリストは、神さまの知恵に満たされていました。

マタイ11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

洗礼者ヨハネが神さまの厳しい裁きと悔い改めを語ると、人々は「悪霊の仕業だ」と言い、

イエス・キリストが罪人を招き食卓を共にし神さまの赦しと喜びを語ると、「大食漢、大酒飲み」と批難する。

人々が神さまからの使者を受け入れない姿を、このようなみごとな対比で表現する「知恵」がキリストには満ちていました。

けれども、それは、たんに言葉の巧みさだけでなく、キリストは、神さまの愛(アガペー)と臨在(インマヌエル)を例え話や癒し、奇跡を通して人びとに伝える、神さまの知恵そのものでした。


2024年10月11日 金曜日

おはようございます。

天の国、神さまの治める世界とはどのようなものなのでしょうか。

マタイ11:11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。11:12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。

ここは理解が難しい、と言われています。

イエス・キリストが当時の子どもたち、女性、病気や障がいを負った人々になさったことから、以下のような解釈が可能ではないでしょうか。

つまり、人間の目からは「小さな者」と見なされる人であっても、神さまは、そのようにご覧にならず、むしろ、とても大切にしてくださる、ということです。

「天の国は力ずくで襲われている」という言葉も難解で、大きくふたつのことが考えられます。

ひとつは、神さまの御心とは正反対に働く力はとても大きい、ということです。それは、わたしたちの心のなかを見てもうかがえるのではないでしょうか。

もうひとつは、これとは、正反対で、わたしたちの罪の大きな力にもかかわらず、神さまはそれにはるかにまさる力で、ここに天の国を打ち立てようとしてくださる、ということです。

人間からはるか遠くにある天の国を、力ずくでここまで持ってきてくださる、ということです。

この両者は正反対に思えますが、天の国、神さまの国には、わたしたちの罪の大きな力と、それにまさる神さまの圧倒的な救いの力が働いているのです。



2024年10月10日 木曜日

おはようございます。

イエスさまがキリストであるしるしはどんな点にあるのでしょうか。

マタイ11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

「来るべき方」とは「お越しになられるのを皆が待ち望んでいるメシア」ということでしょう。「メシア」をギリシャ語では「キリスト」と言い、「救い主」を意味します。

11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

イザヤ書に、たとえば、つぎのようにありますが、これは、メシア到来の預言として読まれてきました。

35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。

61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。

「主はわたしに油を注ぎ」とありますが、「メシア」とはもともと「油を注がれた者」という意味です。

つまり、イエスさまは、ご自分は、旧約聖書で預言されているメシア、キリスト、救い主である、と言っておられるのです。

わたしたちも、イエスさまから、良い知らせを受け、眼を開かれ、歩けるようにしていただき、イエスさまから神さまの言葉を聞いているなら、イエスさまはキリストであると知っているのです。


2024年10月9日 水曜日

おはようございます。

イエス・キリストの弟子を大事にする人は、どのような祝福を受けるのでしょうか。

マタイ10:42 わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。

イエス・キリストは、わたしたち、すべての人を愛してくださいます。

わたしたちが小さくても愛してくださいます。

その小さな一人が渇いているときに、冷たい水一杯をわかちあうことは、 十字架上で「渇く」と言われたキリストと水をわかちあうことと同じです。

そうすると、どのようなご褒美をいただけるのでしょうか。

いえ。小さな人、十字架上で渇くキリストと、わたしたちの水をわかちあう。

これが、すでに、神さまの祝福であり、(良い意味での)報いなのです。

2024年10月8日 火曜日

おはようございます。

「報いを受ける」とは、どういうことでしょうか。

マタイ10:40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
10:41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

「報いを受ける」は、自分のしたことに対して「罰を受ける」という意味にも、「褒賞を受ける」という意味にも用いられますが、現在の日本語では、「罰を受ける」という意味で用いられることが多いようです。

「報われる」は、「努力や苦労(の結果)に対して、好意的な評価がなされ、良い結果がもたらされる」の意味で使われるようです。

では、この聖書の箇所では、「報いを受ける」は、どういう意味で言われているのでしょうか。

ここでは、弟子を受け入れる人は、弟子を遣わしたイエス・キリストを受け入れるのであり、さらには、神さまを受け入れる、とあります。

また、預言者を受け入れる人は預言者と同じ報いを受け、正しい人を受け入れる人は正しい者と同じ報いを受ける、とあります。

預言者とは神さまの御言葉を伝える人であり、「正しい人」とは聖書に現れている神さまの愛の御心に沿っている人のことでしょう。

わたしたちは、神さまの御言葉を直接語っていなくても、神さまの御心に沿った愛の生活をつねにできているわけでなくても、そのような人びとを受け入れれば、わたしたちもそのような人びとと同じように、神さまは受け入れてくださるのです。

御言葉と神さまの愛の御心を受け入れれば、わたしたちは御言葉の語り手や愛を行う人と同じように、神さまに受け入れていただけるのです。

2024年10月7日 月曜日

おはようございます。

イエス・キリストはわたしたちが家族と剣で争うことを望んでおられるのでしょうか。

マタイ10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。

けれども、イエスさまは「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる(26:52)と言われました。

10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

けれども、聖書には「あなたの父母を敬え」(出エジプト20:12)とあります。

問題は、封建的な家制度が人を縛ることです。「家」のために人が犠牲を強いられ、「家長」によって家族が支配されることです。

イエスさまはわたしたちをそこから解き放ち、神の家族へと導いてくださるのです。

10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

もうひとつの問題は、「家」が「自分」の延長、拡大した「自分」となることです。「家族を守る」ことはとても大切ですが、「〇〇家を守る」ことは「自分の命を得ようとする」ことの延長であり、自分中心、エゴイズムのあらわれです。

イエスさまはわたしたちをそこから解き放ち、自己中心の自分ではなく、神さまと隣人に仕える生き方に招いてくださるのです。

それには、御言葉と御心と祈りを剣として、自分を自己中心の自分から切り離し、神さまと隣人をこそ中心にする自分になろう、と心から祈り求めることが大切です。

2024年10月6日 主日(日曜日)

おはようございます。

イエス・キリストを知らないという人は、イエス・キリストから知らないと言われるのでしょうか。

マタイ10:32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

このイエス・キリストの言葉の重さを、わたしたちは少しも割り引くことはできません。

26:35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。

けれども、わたしたちは弱いのです。

26:74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。

イエス・キリストは、このペトロをどうしたでしょうか。

ヨハネ21:17 イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい」

キリストは、ご自分の言葉を覆してでも、ペトロを「知らない」と捨て去ることはなさらなかったのです。

2024年10月5日 土曜日

おはようございます。

とても大切なことを何かの形で表現するとき、伝わらないだろうとか、妨げられるだろうとか、恐れなくてもよいのです。

マタイ10:26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。

伝えようとする大切なことは必ず伝わりますし、妨げがあればそれもやがて明らかになります。

10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

魂は神さまから与えられたものであり、神さまとわたしたちとのつながりです。

わたしたちは、神さまを恐れるのではなく、畏れるのです。

わたしたちが神さまからいただいた大切なものを伝えよう、現わそうとするのであれば、神さまご自身がそうしてくださいますから、何も恐れる必要はありません。

2024年10月4日 金曜日

おはようございます。

大切なことを語らなければならないのに、それゆえに苦しい目、辛い目に遭うことが予想されるとき、わたしたちはどのような準備をしたらよいのでしょうか。

マタイ10:19 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。10:20 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

キリストの弟子たちは、神の国を宣べ伝えようとしますが、それゆえに、支配者に迫害されます。

10:18 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。

けれども、そのときは、神さまの霊が語ってくださるから、心配することはない、とキリストは言われるのです。

わたしたちも、大切なことを語らなければならないときは、神さまが助けてくださいます。

雄弁ではなくても、神さまが言葉を与え、神さまご自身が語ってくださいます。

ですから、うまく話せるだろうか、何を話したらよいのだろうか、と思い悩むことはないのです。

神さまに委ね、神さまを信頼しましょう。

2024年10月3日 木曜日

おはようございます。

蛇の賢さと鳩の素直さとはどのようなものでしょうか。

10:16 わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

困難を乗り越えるには、状況を冷静に知ることと、神さまに全面的に委ねることが必要です。

イエス・キリストはご自分の十字架への道筋をしっかりと把握しておられましたが、その上で、神さまにすべてをお委ねになりました。

わたしたちは、病気や困難に見舞われたときは、それがどのようなものなのか理解し、わたしたちにできる対処をすべきですが、その根底では、神さまに信頼しお祈りすることが大事です。

わたしたちは、やがて地上の旅を終えることを静かに受け止めつつ、そのことを深く神さまにお委ねいたしましょう。

2024年10月2日 水曜日

おはようございます。

マタイ10:12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。 10:13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。

わたしたちは、「神さまの平和がこの人にありますように」という祈りをもって、周りの人や出会う人に接したいと祈ります。

わたしたちの祈りを相手が受け入れてくれる場合もあれば、そうでない場合もあります。

たとえ、わたしたちが祈る「神さまの平和」を相手が受け入れてくれないように見えても、「神さまの平和」はわたしたちのてもとにはとどまり続けます。

たとえ、相手がわたしたちの想いを受け入れてくれなくても、わたしたちの想いはけっして無駄にはならず、わたしたちの中に残り続けるのです。

2024年10月1日 火曜日

おはようございます。

わたしたちが天の国を目指すのではなく、天の国の方から近づいてきてくださいます。

マタイ10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

「天の国」とは「神さまの国」のことであり、神さまが治めてくださるということです。

神さまは、病人に癒しの手を当て、死をわたしたちの終わりとせず、斥けられている人を迎え、わたしたちを苦しめる目に見えない力を追い出してくださいます。

わたしたちも、神さまと一緒に、病人や苦しむ人の近くにいたいと願います。

神さまがわたしたちにそうしてくださるから、わたしたちもそうしたいのです。

10:9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。

たとえ明日のための目に見える保証がなくても、神さまに委ねて、今日一日を生きていきましょう。


2024年9月30日 月曜日

おはようございます。

キリストの12使徒はどんな人たちでしょうか。

マタイ10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。

「汚れた霊」は神さまの御心、聖霊とは反対の力でしょう。パウロは、霊とは正反対の「肉の業」として「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴」(ガラテヤ5:19-20)を挙げています。

12使徒の伝える、イエス・キリストの神の国の知らせは、これらをも追い出すものであったのではないでしょうか。

また、12使徒は、イエス・キリストのお働きに仕えて、病気や患い、患難で苦しむ人びとのそばにいて、祈り、慰めと希望をわかちあおうとしたことでしょう。

10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
10:3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、
10:4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

この中には、「罪人」と同列にされた「徴税人」や、激しい言動の者、そして、裏切りと呼ばれることになる者も含まれていました。

イエス・キリストは、「正しい人」だけでなく、さまざまな問題を抱えた人びとをも招かれたのです。

2024年9月29日 主日(日曜日)

おはようございます。

イエス・キリストはなぜ、神さまの国が来た!という喜びの知らせを宣べ伝え、人びとの心身を癒されたのでしょうか。

マタイ9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

それは、何の支えもなく弱り果て打ちひしがれている大勢の人びとと出会い、イエス・キリストは、体が震えるほど、わがこととして、お心を痛められたからです。

イエス・キリストは、苦しむわたしたちと苦しんでくださいます。

わたしたちは、ひとりで苦しんでいるのではありません。

イエス・キリストがともにおられます。

これが、わたしたちの救いです。


2024年9月28日 土曜日

おはようございます。

それは、愛と善のなす業なのでしょうか。それとも、欲と悪の仕業なのでしょうか。

マタイ9:32 悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。
9:33 悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。
9:34 しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。

イエス・キリストのなされる業も、あるいは、イエス・キリストに従う人のなすことも、人びとに理解される場合もあれば、理解されない場合もあります。

わたしたちは、人や自分のこだわりに流されずに、そこでなされることに「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22-23)、つまり、神さまの御心が満ちているのか、それとも、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和」(5:20)が渦巻いているのか、静かに深く見極めたいと思います。


2024年9月27日 金曜日

おはようございます。

奇跡とはどういうことでしょうか。

マタイ9:29 イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、9:30 二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。

目が見えるようになったことを「だれにも知らせてはならない」とイエス・キリストが言われた理由を考えると、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」(マタイ12:39)が思い出されました。

「目が見えるようになった」という言葉だけが先走れば、キリストがなしたことは「憐れみ」(9:27)(上から目線ではない、深い共苦)であり、そこで起こったことは、超常現象ではなく「信頼」「信仰」の出来事であったこと(9:28)が、置き去りにされてしまうからではないでしょうか。

目が不自由なクリスチャンたちは、目が見えるようになったからではなく、キリストに人生の光を見出したゆえに、キリストを信じているのではないでしょうか。

奇跡の本質は、目に見える現象ではなく、目に見えない神さまの憐みとその人の信仰なのです。

2024年9月26日 木曜日

おはようございます。

キリストが触れ、キリストに触れます。

9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。

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