牧師室より7
牧師室より7
2026年8月8日(土)
おはようございます。
ヨハネの黙示録17:1 さて、七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、わたしに語りかけた。「ここへ来なさい。多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。
「大淫婦」とはすごい言葉ですが、これは、ローマの都と神さまから離れた富と文明を指すと考えられるようです。
17:3 わたしは、赤い獣にまたがっている一人の女を見た。この獣は、全身至るところ神を冒涜する数々の名で覆われており、七つの頭と十本の角があった。
これは、「一人の女」は「大淫婦」、ローマの都のことであり、これは、「赤い獣」「七つの頭」「十本の角」はローマ帝国や皇帝の権力、その支配下の諸王の権力を指すと考えられます。
17:12 また、あなたが見た十本の角は、十人の王である。彼らはまだ国を治めていないが、ひとときの間、獣と共に王の権威を受けるであろう。
17:13 この者どもは、心を一つにしており、自分たちの力と権威を獣にゆだねる。
17:14 この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」
「十人の王」はこれから現れるであろう王、「獣」=ローマ帝国に服従する王のことのようです。
この王たちは、小羊=イエス・キリストと戦いますが、イエス・キリストはこの王たちに打ち勝ちます。
ただし、小羊は武力によってではなく勝つのではありません。なぜなら、それは「屠られた小羊」(5:16)だからです。イエス・キリストの勝利は十字架の死によるものだというのです。
このことは、ローマ帝国における迫害によって殉教していく信仰者にも、最終的な勝利の希望を与えることでしょう。
「小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」とある通りです。
小羊は 王の王なり 主の主なり 召されし者らは 勝ち鬨(どき)あげん
2026年8月7日(金)
おはようございます。
ヨハネの黙示録16:1 また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。」
ヨハネの観た幻においては、七人の天使が以下のような災いをもたらします。
悪性のはれ物、海が血となる、川と水源が血となる、太陽の灼熱、国が闇に覆われる、ユーフラテス川が干上がる、ハルマゲドン(メギドの丘)への王たちの集結、大地震、大バビロン崩壊、巨大な雹。
これらは、出エジプト記の十の災いを思わせます。
「大バビロン崩壊」は、ローマ帝国支配や自己絶対化する者の終わりを示していると考えられています。
かつてエジプトで奴隷の身であったイスラエルの民が解放されシナイ山で神を礼拝したように、このことによって、今ローマ帝国支配下で信仰を圧迫されている民も、それに耐え抜けば、天の礼拝に招かれるという希望が与えられているのではないでしょうか。
バビロンの 牢(ひとや)の門を 後にして シオンの丘に 主を賛美せん
2026年8月6日(木)
おはようございます。
ヨハネの黙示録15:1 わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。15:2 わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。
ヨハネの黙示録において、ヨハネは七人の天使による最後の七つの災いを見ることになりますが、その前に、最終的な勝利の幻を見ます。
「火が混じったガラスの海」とは、稲妻や星が輝く大空のこと、
「獣」と「その像」と「その名の数字」に勝った者たちとは、キリスト者のこと。
「神の竪琴」とは、神さまからいただいた恵みのこと、だとする学者もいます。
最後の勝利を得たこの者たちは、つぎのように神さまを賛美します。
15:3 彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。「全能者である神、主よ、/あなたの業は偉大で、/驚くべきもの。諸国の民の王よ、/あなたの道は正しく、また、真実なもの。15:4 主よ、だれがあなたの名を畏れず、/たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、/あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、/明らかになったからです。」
海の岸辺で神さまの救いを賛美する風景は、エジプトを脱出した時のモーセやミリアムの歌を思い起こさせます。
この世には、困難がありますが、やがて、ガラスの海の岸で竪琴を手に神さまを賛美する日が訪れることを信じ、それを待ち望んで、歩きぬきましょう。
水晶の 海の岸辺に 竪琴を かきならす朝 やがてきたらん
2026年8月5日(水)
おはようございます。
ヨハネの黙示録14:16 そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた。
ヨハネの観た幻において、白い雲が現われ、それには、金の冠りをかぶり、手に「鋭い鎌」を持った「人の子のような方」(14:14)が乗っています。イエス・キリストでしょう。
そして、この鎌によって、「地上の穀物」(14:15)が行われます。
続いて、「別の天使」(14:17)が現われ、この天使も鋭い鎌を持っています。
そして、この鎌によって、「ぶどうの実」(14:18)が刈り取られます。
人の子による刈り入れと、この天使による刈り入れが、どう違うかというと、天使による刈り入れは、以下のような結果になっています。
14:19 そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。14:20 搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった。
つまり、天使による刈り入れは「神の怒り」(14:19)を意味するのです。
けれども、人の子による刈り入れには、このような場面は伴っていません。かといって、人の子による刈り入れが「信仰者の救済」だけを意味するとも断定できません。
わたしたちは、自分が神さまの怒りの裁きを受けるかどうかも心配ですが、それだけでなく、神さまは(滅ぼすかどうかは別にして)わたしたちの悪に対して大きな怒りをもっておられることを忘れてはならないでしょう。滅ぼされず救われるにしても、それは、わたしたちの罪に対する神さまの正義にも拘わらず、それを赦され救われるということですから、神さまの悪への怒りの前にわたしたちが立つことは避けられないのです。
自分は正しい、罪を犯していない、神さまの前で自分には悪はない、という人はいないのです。
わたしたちは、罪を告白しつつ、神さまの前に立ち、罪の赦しを受けるのです。
願わくば わが身にあらず わが罪を 滅ぼしたまえ 白雲の主よ
2026年8月4日(火)
おはようございます。
ヨハネの黙示録14:12 ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。14:13 また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
ヨハネの黙示録において、天使が何人も出てきますが、この個所の直前にも三人現れます。
一人目は、あらゆる民に「永遠の福音」(14:6)をもたらし、神を畏れ、創造者を礼拝するように言います。
二人目は、「大バビロンは倒れた」(14:8)と言いますが、これはローマ帝国が滅びる預言と解されることが多いようです。つまり、ローマ帝国によって皇帝崇拝を強いられている信仰者を励ましている、と読むことができるのです。
三人目は、獣を拝むものは苦しめられ、平安はない、と告げますが、これは、皇帝礼拝強要に屈することなく、耐え抜け、というメッセージであると解されます。
この三人の天使の言葉に続いて、ヨハネ黙示録は、「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」(14:12)と言います。
試練を受けている信仰者に、忍耐をもって信仰を貫こう、と励ましているのではないでしょうか。
『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』(14:13)とは重い言葉ですが、たとえ死を迎えることになろうとも、主に結ばれている、という希望の言葉でもありましょう。
この旅を 終える日に主に 結ばるる 幸を望みに 耐えて歩まん
2026年8月3日(月)
おはようございます。
ヨハネの黙示録14:1 また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。
ヨハネの観た幻において、キリストがシオンの丘に立っておられ、そこには144000人がいて、その額にはキリストと神さまの名前が記されていました。獣が人びとに666と刻印した幻とは対照的です。
144000人は神さまの前で「新しい歌のたぐい」を歌いますが、他の人びとには歌えませんでした。
この人びとは「女に触れて身を汚したことのない者」(14:4)とありますが、「偽りがなく、とがめられることのない」(14:5)とありますから、皇帝礼拝をしなかった人びとということではないでしょうか。
さらに「初穂」(14:4)とあり「贖われた」(14:4)とありますから、殉教したが、天で神さまの前に立った人びとではないでしょうか。
わたしたちも、神ならぬ神、つまり、世の偶像や自分の思考の産物を拝むことなく、この世を生き抜いて、まことの神さまの前に立つ日を待ち望みたいと思います。
額には 小羊と父の 御名いただき 新しき歌 歌う日を待つ
2026年8月2日(主)
おはようございます。
ヨハネの黙示録13:11 わたしはまた、もう一匹の獣が地中から上って来るのを見た。この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた。
ヨハネの観た幻においては、第二の獣が登場します。この獣には「小羊の角に似た二本の角があり」ますが、これは、小羊=イエス・キリストの「ふりをする」という意味かもしれません。
13:15 第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。
第二の獣は第一の獣の像を人びとに拝ませ、従わない人は殺します。
13:16 また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。
13:17 そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
人びとに刻まれたこの数字は666です。
これは暴君ネロを表すと言われています。
また、666の6は完全数7には足りないので、不完全を意味し、皇帝が君臨しても、神としてこれを拝むことはできないことを意味するとも言われます。
生かされる 喜びこみあげ 神たたう 強いられるとも 偶像拝まず
2026年8月1日(土)
おはようございます。
ヨハネの黙示録13:9 耳ある者は、聞け。
13:10 捕らわれるべき者は、/捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、/剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。
「耳ある者は、聞け」。これはヨハネの言葉でありながら、イエス・キリストの言葉を思い起こさせます。
あなたたちは大きな苦難の中にあるが、今こそ、神さまの言葉に聞きなさい、真実と希望の言葉に聞きしたがって、ここを生き抜きなさい、という意味ではないでしょうか。
信仰を持っていても、捕らわれたり、殺されたりする人びともいる、とヨハネは言います。イエス・キリストもそう言われるのでしょう。
しかし、そのような苦難の期間は永遠には続かない(7年の半分の3年半!)のだから、忍耐と信仰をもって、この困難の道を歩きぬきなさい、と言われるのです。
この忍耐と信仰は、まさに、イエス・キリストからの恵みです。
キリストがくださった忍耐と信仰をもって、この道を突破いたしましょう。
聞く者は われに聞けとの 主の言葉 忍耐もて聞け 信仰もて聞け
2026年7月31日(金)
おはようございます。
ヨハネの黙示録13:5 この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。13:6 そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。13:7 獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。13:8 地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。
ヨハネの観た幻において、獣は竜(サタン)から力を与えられ、神を冒涜する言葉を発します。しかし、それは42か月つまり3年半に限られます。3年半は、完全を表す7の半分ですから、獣の横暴は永久ではないことを示します。
この獣のしていることは、当時のローマ帝国が人びとに強いた皇帝礼拝(皇帝を神のように拝む)ことに通じます。
しかし、「屠られた小羊の命の書にその名が記された者たち」すなわち、イエス・キリストを「主として」従い続ける信仰者たちは、この獣を「主として」拝むことはしません。
獣には 伏することなし わが君(きみ)は 屠られたまひし 小羊なれば
2026年7月30日(木)
おはようございます。
ヨハネの黙示録13:1 わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。
13:2 わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。
13:3 この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。
13:4 竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。」
ヨハネの観た幻において、つぎは、海の中から獣が上がってきます。この獣は竜から王座と権威を受け取ります。この獣はローマ皇帝やローマ帝国の圧政を象徴すると考えられるようです。
神さまはイエス・キリストに力と権威を与え、竜=サタンはこの世の暴君にそれを与えるというのです。
「死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった」とは死んだ皇帝ネロが再来するという伝説に由来するとも考えられます。
人々が竜やこの獣を拝んだとあるのは、キリスト者も皇帝崇拝を強要され、それは竜=サタンを拝むことにもつながる、という含みがあるとも考えられます。
わたしたちは、私利私欲、支配欲、権力欲、自己正当化と結びついた、わたしたちの内なる獣を拝んではいないでしょうか。信頼と希望と愛でわたしたちを治めてくださるまことの神さまのみを礼拝いたしましょう。
熊の足 獅子の口なる 獣さえ などかは恐れん 主ここにいませば
2026年7月29日(水)
おはようございます。
ヨハネの黙示録12:13 竜は、自分が地上へ投げ落とされたと分かると、男の子を産んだ女の後を追った。12:14 しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女はここで、蛇から逃れて、一年、その後二年、またその後半年の間、養われることになっていた。12:15 蛇は、口から川のように水を女の後ろに吐き出して、女を押し流そうとした。12:16 しかし、大地は女を助け、口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。12:17 竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。
ヨハネの観た幻において、竜は天から地上へ投げ落とされ、イエス・キリストを産み出したイスラエルの民に害を加えようとします。
しかし、民は「大きな鷲の翼」によって、荒れ野に導かれます。
これは、エジプトを脱出した後のイスラエルの民の歩みが神さまに守られたことを思い出させます。
「一年、その後二年、またその後半年の間、養われる」は、合計三年半で、七年の半分であり、七が完全を表すのに対し、その半分は不完全、つまり、苦難が永久ではなく、やがて終わるという希望を与えます。また、荒れ野でイスラエルの民が養われるという黙示録のこの幻も、旧約聖書でのイスラエルの民の荒れ野の旅が厳しくも、神さまに守られたことを思い出させます。
蛇(竜)はイスラエルの民を水で押し流そうとしますが、大地が民を助けます。
竜は「イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうして出て行った」という表現は、この黙示録を読んでいる人びとに、あなたたちが今まさに竜によって苦しめられている、けれども、神さまが守り、やがて、この苦しみにも終わりが来る、という希望を与えます。
苦しみは 七年ならず 三年半 とわにあらず 朝はきたらん
2026年7月28日(火)
おはようございます。
ヨハネの黙示録12:12 このゆえに、もろもろの天と、/その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、/お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」
ヨハネの観た幻において、竜=サタンは天から地上に投げ落とされ、天は神さまの愛と救いに満たされた世界になりますが、地上には投げ落とされたサタン=悪魔が存在します。
したがって、地上の信仰者の苦しみはなお続きます。
しかし、悪魔に「残された時は少ない」のです。悪魔はやがて滅びます。
わたしたちの苦難は永くは続きません。この苦難はやがて終わり、慰めと平安の時が訪れます。
永久と 思われし闇 にも夜明け 近しと叫ぶ 声こだませり
2026年7月27日(月)
おはようございます。
ヨハネの黙示録12:10 わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、/昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、/投げ落とされたからである。12:11 兄弟たちは、小羊の血と/自分たちの証しの言葉とで、/彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
ヨハネの観た幻において、サタン=竜が地上に投げ落とされます。
そして、天は、ただ神さまの救いがみなぎり、神さまが完全に治められます。
しかし、地上には竜がいますから、信仰者の苦難は続きます。
けれども、小羊=キリストの十字架の血と、それを証しする言葉は、究極的には、竜に打ち克っていて、それは、天には竜がいないことにおいて明らかになっています。
地上の信仰者の苦難は続き、ときには殉教さえ起こりますが、天では神さまの救いに満ちていることが約束されていて、それを信じて、耐え抜くように、ヨハネは励ましているのです。
小羊の 愛と血潮と 証もて 竜さえ倒す 勝利われらに
2026年7月26日(主)
おはようございます。
ヨハネの黙示録12:7 さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、12:8 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。12:9 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。
ヨハネの観た幻において、天で、竜=サタンと天使の戦いがあり、竜は天から地上に投げ落とされます。
これには、ふたつの意味が考えられます。
ひとつは、天にはサタンの居場所はなく、神さまが完全に治めている、ということです。
もうひとつは、サタンは天から地上に投げ落とされましたが、滅んだわけではなく、地上に存在するということです。
言い換えると、地上にはまだサタンが存在し、サタンによるとしか思えないことが起こり、信仰者の人生を苦しめるが、天では、神さまが治めておられる、だから、信仰者は苦難を耐え、希望をもって生きよ、ということではないでしょうか。
竜は落ち 天つ御国に みなぎるは 御神(みかみ)とエスの 尽きぬ愛のみ
2026年7月25日(土)
ヨハネの黙示録12:1 また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。
12:2 女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。
12:3 また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。
12:4 竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。
12:5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。
12:6 女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。
ヨハネの観た幻において、ここで、「一人の女」が出てきます。これは、イエスの母マリアかイスラエルの民をあらわすと考えられるようです。この女が産む子は、イエス・キリストのことを指します。
他方、「火のように赤い大きな竜」は世界を手中にしようとする「サタン」を表すと考えられます。
この竜が子を食べようとするとは、サタンがイエス・キリストを殺そうとするということでしょう。
イエス・キリストは「神のもとへ、その玉座に引き上げられ」ますが、「女」は逃げます。
そこは「荒れ野」ですが、神さまが「用意してくださった場所」があり、「養って」くださいます。
この幻のように、ヨハネの黙示録が書かれた時代の、キリストを信じる民は、苦難と迫害を受けますが、その中でも神さまが守ってくださる、とヨハネは民を励ましているのでしょう。
火竜さえ などかは恐れん 荒れ野には 主の備えたる 場所こそあれば
2026年7月24日(金)
おはようございます。
ヨハネの黙示録11:15 さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、/そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」11:16 神の御前で、座に着いていた二十四人の長老は、ひれ伏して神を礼拝し、11:17 こう言った。「今おられ、かつておられた方、/全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。
ヨハネの観た幻において、第七の天使がラッパを吹くと、「この世の国は、我らの主と、/そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」という声が天に響きます。
つまり、今地上は、ローマ皇帝のものとされ、皇帝に統治され、信仰者は迫害されているが、この世界はほんとうは神さまとキリストのものであり、神さまとキリストが治めておられることをこの幻は示し、それを伝えることで、ヨハネは信仰者を励ましているのです。
「二十四人の長老」は信仰者と言い換えることもできるでしょう。信仰者がまことに礼拝すべきは、皇帝ではなく、永遠に治めてくださる神さまだというのです。
わたしたちも、地上において困難があっても、神さまとキリストが世界全体を愛で治めていてくださると信頼して、そのことに感謝したいと思います。
御(おん)神と キリストこそは 世の主(あるじ) 告ぐる天使の ラッパぞ聞こゆ
2026年7月23日(木)
おはようございます。
ヨハネの黙示録11:12 二人は、天から大きな声があって、「ここに上って来い」と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た。11:13 そのとき、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた。
「二人」とはヨハネの観た幻に出てくる「二人の証人」のことですが、これは苦難の中でイエス・キリストを証し続ける人びとのことであるとも考えられます。
この証人は、迫害者によって殺されてしまいますが、神さまの命の息を受け、立ち上がります。つまり、復活します(11:11)。
さらには、「ここに上がって来い」という天からの招きの声によって、雲に乗って天に上げられます。
迫害者たちもこれを見ます。つまり、神さまを信じなかった人びとにも神さまが明らかになるのです。
さらに地震が起こることで、迫害者の中から、天の神さまの栄光をたたえる者も出てきます。
つまり、今は迫害を受けているが、たとえ殉教しても、神さまが復活させ、天に上げてくださる、そのことで、迫害者たちに神さまのことが明らかになる、とヨハネの黙示録は信仰者を励ましているのです。
わたしたちの信仰の生涯の根底には神さまの平安がありますが、それでも、苦しみや悲しみもあります。しかし、神さまはわたしたちを支え続けてくださり、最後は、天に上げてくださいます。そのことは、信仰の証になるのです。
ここに来(こ)よ との御声もて 招かれて 雲にて上(のぼ)らん その日なつかし
2026年7月22日(水)
おはようございます。
ヨハネの黙示録11:7 二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。11:8 彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。
ヨハネの見た幻において、二人の証人は、獣と闘いますが、殺されてしまいます。その死体は大通りにさらされます。証人たちの主でキリストの十字架のようです。
ところが、驚くべきことが起こります。
11:11 三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた。
神さまは、殺された二人の証人を見捨てず、命の息を吹き込み、立ち上がらせるのです。
ヨハネの黙示録を読む当時の教会の人びとも、キリストを証しすることで、たとえ、殉教することがあろうとも、神さまが復活させてくださるという希望を抱いたことでしょう。
わたしたちも、この世でどんなに苦しいことがあっても、倒れることがあっても、神さまは立ち上がらせてくださり、地上の生を終えても、永遠のいのちに入れられることを信じます。
倒るとも いのちの息を いただきて われ立ち上がり 御国へ歩む
2026年7月21日(火)
おはようございます。
ヨハネの黙示録11:5 この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。11:6 彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる。
「この二人」とは、ヨハネの黙示録においてヨハネが見ている幻に出てくる「二人の証人」(11:3)のことです。
そして、この証人の姿は、迫害を受けているキリスト教徒の姿に重なります。
たとえ迫害を受けようとも、キリスト教徒がイエス・キリストを証し、神さまの福音を語る言葉には、「火」(11:5)のような力があり、迫害者に負けない、とヨハネの見た幻は語っているのかもしれません。
「雨が降らないように天を閉じる」という表現は列王記上17章のエリヤを思い出させます。
また「水を血に変える」という言葉は出エジプト記7章のモーセを思い起こさせます。
つまり、ヨハネに示された幻は、ヨハネやヨハネがそれを書き送る人びとに、旧約聖書の預言者とつながる御言葉の力強さを示しているのではないでしょうか。
わたしたちも、困難な道を行かねばならないことがありますが、神さまの言葉の力に支えられて、歩み抜きましょう。
モーセをも エリヤをも且(か)つ われらをも 起こしたまえる 天(あま)つ御言葉
2026年7月20日(月)
おはようございます。
ヨハネの黙示録11:1 それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。11:2 しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。11:3 わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。」
これは、ヨハネの見た幻において、第六の天使のラッパと第七の天使のラッパの間に、挿入された場面です。
ここで「神殿で礼拝している者」は神さまとイエス・キリストを信じている人々のことでしょう。
「異邦人」は、ここでは、単にユダヤ人でない人々というより、信仰者を迫害する人々のことでしょう。
そして、「二人の証人」とは、迫害にもかかわらず、神さまとイエス・キリストを証言する信仰者のことだと考えられます。
「粗布をまとう」とは「悔い改め」を呼びかける姿なのではないでしょうか。
わたしたちの中には、信仰者の姿と、信仰に背く姿が同居しているのではないでしょうか。
わたしたちは、自分自身に対し「証人」となり、つねに「悔い改め」を呼びかけ、そのことによって、つねに、神さまとイエス・キリストを信じていきたいと願います。
粗布を まとう証人の 声すなり われは再び 主に立ち返らん
2026年7月19日(主)
おはようございます。
深沢教会は本日、設立70周年記念礼拝をささげます。
神さまが70年間、御言葉を語り、ひとりひとりを救いに導いてくださったことに、心から感謝いたします。
ヨハネの黙示録10:11 すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」
神さまはヨハネに、さらに多くの人びとに神さまの裁きと救い(苦くて甘い言葉 10:9)を伝えるように言われました。異邦人にも王にも御言葉を告げよと主は言われるのです。
わたしたちも、これまで神さまからいただいた御言葉の恵みに感謝しつつ、これからも、キリストの体である教会として、ひとりでも多くの方に神さまの愛の言葉を届け、ひとりひとりが恵みの人生を歩めるように、祈り求めましょう。
「愛される ために生まれた」 この言葉 心に届け 君に幸あれ
2026年7月18日(土)
おはようございます。
ヨハネの黙示録10:9 そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」
10:10 わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。
ヨハネは幻において、天使から巻物を受け取り、それを食べますが、それは、口の中では蜜のように甘かったが、腹までいたると苦くなった、と言います。
つまり、神さまの救いの言葉は、救いという意味では蜜のように甘いのですが、神さまの言葉は、どうじに、人間を裁く言葉でもあるので、苦いというのです。
たとえば、「神は愛なり」という言葉は「神さまはわたしたちを愛してくださる」という意味では救いの言葉ですが、「あなたは神さまと人を愛していますか」とわたしたちに問いかける言葉でもあり、その意味では苦いのです。
あるいは、「神を信じなさい」という言葉は「神さまこそが信頼できるお方である」という意味では救いの言葉ですが、「あなたは神さまを信頼していますか」とわたしたちの信仰に問いかける言葉でもあり、その意味では苦いのです。
甘くとも 苦かろうとも 慕わしき 裁きつ救う イエスの御言葉
2026年7月17日(金)
おはようございます。
ヨハネの黙示録10:1 わたしはまた、もう一人の力強い天使が、雲を身にまとい、天から降って来るのを見た。頭には虹をいただき、顔は太陽のようで、足は火の柱のようであり、
「虹」は神さまがノアと結んだ「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」(創世記9:15)という契約を思い出させます。
「火の柱」は出エジプトやシナイ山とつながっていることでしょう。
「雷」は神さまの顕現や天の声を表わすと言われます。
10:2 手には開いた小さな巻物を持っていた。そして、右足で海を、左足で地を踏まえて、
10:3 獅子がほえるような大声で叫んだ。天使が叫んだとき、七つの雷がそれぞれの声で語った。
10:4 七つの雷が語ったとき、わたしは書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはいけない」と言うのが聞こえた。
「七つの雷」は神さまの声を意味すると考えられますが、それを「秘めておけ。書き留めてはならない」とは、わたしたち人間は神さまの愛や救いのメッセージはいただきますが、神さまのすべてがわかるわけではない、神さまのなさることは人知を超えているということではないでしょうか。
キリストの再臨や御国の到来のことも、わたしたちが人間の言葉で言い表したり、人間の時間で計算したりできるものではないのです。
神さまの愛と救いの御心はわたしたちは感謝して受け取りますが、どうじに、神さまのこと、天のこと、世界のことなど、わたしたちにはわからないし、わたしたちの言語、論理、感覚、認識の範疇でとらえられないものがあることをわきまえたいと思います。
わたしたちの地上の生活を終えた後のことなど、わたしたちの言葉や感覚でとらえられないこと、表現できないことを、無理にその枠に押し込んでしまえば、神さまの神秘が損なわれてしまうのではないでしょうか。
わが理には 掬い切れざる 神秘有り われは黙して ただ委ねなん
2026年7月16日(木)
おはようございます。
ヨハネの黙示録9:17 わたしは幻の中で馬とそれに乗っている者たちを見たが、その様子はこうであった。彼らは、炎、紫、および硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とを吐いていた。
9:18 その口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災いで人間の三分の一が殺された。
ヨハネの見た幻において、第六の天使がラッパを吹くと、馬に乗った騎兵が二億も現れ、その馬は獅子のような頭をしており、口から火と煙と、硫黄を吐き、人間の三分の一が死にます。
この幻は、自分は神を信じることなく、信じる人びとを迫害する人々への、悔い改めの警告を表わすと考えられます。しかし、この警告にもかかわらず、人々は偶像礼拝を続けます。
9:20 これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。
9:21 また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。
わたしたちは、ここまで極端ではないと思いますが、それでも、愛と信頼を心の真ん中に置くように、神さまに促されているにもかかわらず、そこには、憎しみや不安を置いてしまっていないでしょうか。
自分の憎しみや不安よりも、神さまからの愛と神さまへの信頼をこそ、わたしたちの心の中心に置きたいと願います。
イエスより 受けし愛抱(だ)き み神への 信頼をこそ 真ん中に置く
2026年7月15日(水)
おはようございます。
ヨハネの黙示録9:1 第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、
9:2 それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。
9:3 そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。
このいなごは人々に大きな苦痛を与えますが、「額の神の刻印を押されている人」はそれを免れます(9:4)。
ヨハネの黙示録は、全体としては、「苦難の中で信仰を守り、忍耐し続けなさい。そうすれば神は最後にあなたを救い、勝利を与えてくださる」というメッセージを持っていますが、ここでは、信仰者はある種の苦難は免れる、と言っているようにも考えられます。
神さまを信じる者が免れる苦難とはどういうものでしょうか。
わたしたちもいくつかの苦しみを抱えていますが、信仰故に免れている苦しみがあるとすればどういう苦しみなのでしょうか。
わたしたちは苦しいことがあっても、それでもなお神さまからいただいている恵みを思い出そうではありませんか。
苦しみに まさる御(み)恵み 数うれば 我が額にも 刻印ありなん
2026年7月14日(火)
おはようございます。
ヨハネの黙示録8:12 第四の天使がラッパを吹いた。すると、太陽の三分の一、月の三分の一、星という星の三分の一が損なわれたので、それぞれ三分の一が暗くなって、昼はその光の三分の一を失い、夜も同じようになった。
太陽も月も星も神さまが創造されたものです。
創世記1:16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。1:17 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、1:18 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。
その三分の一が失われるというのです。
しかしすべてが滅びたのではなく、三分の二が残っている、希望があるとも考えられます。
黙示録はさらにこうも言っています。
ヨハネの黙示録21:23 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。
神さまと小羊つまりイエス・キリストの光は太陽や月の輝きにはるかにまさると言うのです。
神さまとキリストの光は、被造物の輝きにはるかにまさります。
わたしたちは目に見えるものや感覚的なものの輝きにこだわりますが、神さまとキリストはそれをはるかにまさる光を照らしてくださいます。
太陽も 月も星も 消えるとも なお我照らす 神と小羊
2026年7月13日(月)
おはようございます。
ヨハネの黙示録8:10 第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。8:11 この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。
ヨハネの観た幻の叙述が続きます。燃える巨星が天から落ちてくる、とは、神さまの裁きを示しているのかもしれません。
それが川とその水源に落ちて、川の水が苦くなり、多くの人が死んだ、というのは、その裁きが多くの人の死を意味したということでしょうか。
これに対して、神さま、イエスさまの水は、本来は救いをもたらします。
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)。
「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた」(黙示録22:1)。
苦水(にがみず)を 天(あま)つ真清水(ましみず) 水晶の 命の水に 変えるは小羊
2026年7月12日(主)
おはようございます。
ヨハネの黙示録8:8 第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、8:9 また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船という船の三分の一が壊された。
「火で燃えている大きな山」という幻はAD79年に起こったヴェスビオス火山の噴火の影響を受けていると考えられます。
また、「血の海」「海の生き物が死ぬ」という幻は、出エジプト記の以下の箇所を思い出させます。
出エジプト記7:20 モーセとアロンは、主の命じられたとおりにした。彼は杖を振り上げて、ファラオとその家臣の前でナイル川の水を打った。川の水はことごとく血に変わり、7:21 川の魚は死に、川は悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。こうして、エジプトの国中が血に浸った。
そうすると、出エジプトにおいて上の出来事は、イスラエルの民を虐げるファラオらエジプト人への裁きであったように、黙示録でヨハネが見ている「火で燃えている大きな山」「血の海」もキリスト者を迫害するローマ帝国への裁きを示していると考えられます。
そして、モーセらが忍耐を経て、神さまによってエジプトから解放されたように、ローマ帝国下で迫害を受け、礼拝さえ抑圧されたかもしれないキリスト者にも、やがて天の礼拝に導かれる希望が与えられます。
わたしたちも、今は、解決が難しい問題が重くのしかかっても、神さまがかならずそこを突破させてくださり、さいごは、天の礼拝へと招き入れられることでしょう。
大山が 火となり海を 血にせども 騒ぐわが身を 主は包みたもう
2026年7月11日(土)
おはようございます。
ヨハネの黙示録8:6 さて、七つのラッパを持っている七人の天使たちが、ラッパを吹く用意をした。8:7 第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。
8:1で小羊=イエス・キリストによって、第七の封印が開かれ、「雷、さまざまな音、稲妻、地震」(8:5)が起こります。
それに続いて、七人の天使がラッパを吹くのですが、第一の天使がラッパを吹くと、「雹と火」が「地上に投げ入れられ」「地上の三分の一が焼けた」とあります。
出エジプト記の以下の箇所が想い起こされます。
9:24 雹が降り、その間を絶え間なく稲妻が走った。それは甚だ激しく、このような雹が全土に降ったことは、エジプトの国始まって以来かつてなかったほどであった。9:25 雹は、エジプト全土で野にいるすべてのもの、人も家畜も残らず打った。雹はまた、野のあらゆる草を打ち、野のすべての木を打ち砕いた。9:26 ただし、イスラエルの人々の住むゴシェンの地域には雹は降らなかった。
同じようにヨハネが見た幻も神さまの裁きを表わすと考えられます。
この裁きが意味することは、
1)今イエス・キリストを信じる民はローマ帝国によって迫害を受けているが、世界と歴史を真に治めているのは帝国ではなく神さま
2)神さまに敵対し民を迫害する者は神さまの裁きを受けることになる
3)キリストを信じる民も苦難を経験するが、神さまは民を滅ぼすのではない
というようなことが考えられるようです。
この幻では「地上の三分の一」は焼かれますが、三分の二は残っています。
ということは、これは最終的な裁きではなく、悔い改める余地が残されているということです。
わたしたちの心の中にも、人を傷つける要素、神さまに信頼しきっていない要素がないでしょうか。
世界を治められる神さまを畏れつつ、同時に、神さまの救いの完成への信頼が深められますように。
青草は ことごと焼かれ なお残る 三分の二の 木立はいずこ
2026年7月10日(金)
おはようございます。
ヨハネの黙示録8:1 小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。
この沈黙は、これから大きなことが起こる前の静けさとも考えられます。
8:2 そして、わたしは七人の天使が神の御前に立っているのを見た。彼らには七つのラッパが与えられた。
ラッパは、これから神さまが大事なことをなさることを示しているとも考えられます。
8:3 また、別の天使が来て、手に金の香炉を持って祭壇のそばに立つと、この天使に多くの香が渡された。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。
8:4 香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。
香は、神さまにささげられる祈りを象徴しているとも考えられます。香炉は香、つまり神さまに祈りを伝える器であるとも考えられます。
8:5 それから、天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上へ投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こった。
神さまに祈りを伝えて器に、天の祭壇の火が満たされて地上に投げつけられたのは、神さまが祈りにお応えになったことを意味するとも考えられます。
「雷、さまざまな音、稲妻、地震」は、神さまの顕現を表わします。
「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」(6:10)
「血の復讐」とは言葉が強いですが、苦しむ民の祈りの応えて、神さまが立ち上がられることを、「雷、さまざまな音、稲妻、地震」は示しているのではないでしょうか。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」(出エジプト記3:7)という旧約聖書の言葉が連想されます。
そして、これに続くシナイ山での出来事も思い出されます。
「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた」(19:16-18)。
祈りは地上から天に届き、神さまは天から地へと答えてくださる。ヨハネはこう言って、迫害を受ける信仰者を励ましたのではないでしょうか。
香煙(こうえん)は 天まで届き 稲妻の 応えは地へと 神はおられる
2026年7月9日(木)
おはようございます。
ヨハネの黙示録7:15 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。
7:16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。
7:17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」
「大きな苦難を通って来た者」でその衣をキリストの血で洗い白くされた者(7:14)は、神さまの玉座の前に置かれ、昼も夜もそこで神さまに仕えることになります。
神さまはこの者たちの上に幕屋を張ってくださいます。
それゆえに、この者たちは、暑さから守られ、もはや飢えることも渇くこともありません。
かつての苦難から、すっかり解き放たれるのです。
神さまとともに玉座におられるキリストが、この者たちの牧者隣、永遠のいのちのいずみへと導いてくださいます。
かつてはとめどなく涙がこぼれましたが、いまやその涙の一滴一滴は神さまによって拭われたのです。
わたしたちにもこの救いが約束されています。
たとえ今は苦しくても、わたしたちは神さまを信頼して、この道を歩き抜き、キリストがともに歩いてくださり、神さまの雲によって守られ、とこしえのいのちに導き入れられ、心は打ち震え、主の御足を濡らすことでしょう。
幕屋張り 灼熱遮る 主に守られ 渇きも涙も はやわれになし
2026年7月8日(水)
おはようございます。
ヨハネの黙示録7:13 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」7:14 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
ヨハネは、天の玉座の神さまを、白い衣を着た大群衆が賛美している幻を見ます。
この人々は、大きな苦難を経験しましたが、いまやイエス・キリストの十字架の血によって清められた白い衣を着ています。
迫害による殉教者と思われるこの人々が白い衣を着ているのは、殉教ゆえというよりも、小羊の流した血のゆえ、つまり、キリストゆえという点は大事でしょう。
この人々が「大きな苦難」を経験したのは罪ゆえとはヨハネは言っていません。しかし、人間としての罪は誰しもが持っています。この人々は大きな苦難を経験してきたが、いまやキリストによって人間としての罪が赦され、救いに入れられた、ということではないでしょうか。
わたしたちの苦しみも、個々の罪への報いであるとは、新約聖書は考えません。しかし、わたしたちが神さまと隣人に背を向ける罪人であることには変わりはありません。けれども、キリストは自らの十字架の血によって、わたしたちの罪を洗い流してくださるのです。
いくつもの 濁流くぐりし われなれど いまや主イエスの 白き衣に
2026年7月7日(火)
おはようございます。
ヨハネの黙示録7:11 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、
7:12 こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」
ヨハネは天上の礼拝の幻を見ます。
神さまの玉座の周りには、神の民とあらゆる生き物がいて、天使たちは神さまにひれ伏し、礼拝します。
そして、賛美と栄光、知恵と感謝、誉れと力、そして、威力が、とこしえに、わたしたちの神さまにありますように。
賛美は、賛美するわたしたちは消え、ただ賛美される神さまだけがそこにおられます。
栄光は、栄光を神さまに帰するわたしたちは消え、ただ神さまの栄光だけがそこにあるのです。
知恵は、わたしたちに知恵があるのではなく、イエス・キリストこそが知恵なのです。
感謝は、自分に感謝するのではなく、神さまにおささげするのです。
誉れは、自分を誇るのではなく、神さまにこそ誉れがあるのです。
力は、自分の力ではなく、神さまの力です。
威力、権威は、わたしたちのものではなく、神さまのものです。
わたしたちはこれらが自分のものであると思い違いをします。わたしたちはこれらを自分のものにしようとします。
しかし、賛美も栄光も、知恵も感謝も、誉れも力も、権威も、すべて神さまにお返しするのです。
その意味で、わたしたちは、礼拝の最後に、頌栄を歌うのです。
わたしたち人間は、栄光を自分のものにしようとしますが、礼拝の最後に、栄光を神さまにお返しするのです。
すべてのものを、神さまに帰するのです。
わたしたちはうしろに引っ込み、ただ神さまだけが玉座におられるのです。
わたしたちが玉座にいてはなりません。わたしたちはすべてを神さまに明け渡し、自分の思い、自分という思いを神さまに明け渡し、すべてを神さまに帰し、ただ神さまだけに玉座にいていただくのです。
礼拝ではただ神さまの愛と救いとインマヌエルだけがそこにあるのです。
われは消え 賛美と栄光 知恵と感謝 誉れと権威 神にあれかし
2026年7月6日(月)
おはようございます。
ヨハネの黙示録7:9 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、
7:10 大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」
「白い衣を身に着ける」とは、神さまの救いに入れられることを意味するのではないでしょうか。
そして、「なつめやしの枝を持つ」は、その神さまのわざを喜んで、賛美することをいみするのではないでしょうか。
キリストを信頼する民は、地上では、少数で、迫害を受けさえしていますが、天の礼拝には、「あらゆる国民、種族、民族」から、数え切れない人々が集うのです。
神さまが、当時は少人数の民だったアブラハムに言った言葉が思い出されます。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)。
そして、天の大群衆は、神さまと小羊なるキリストの救いを、こぞって賛美するのです。
わたしたちも、苦しみや痛みで、いまは歌声は小さくても、神さまがきっと、大きな喜びをもたらしてくださり、わたしたちの賛美も大きくされるでしょう。
涙(なだ)ここに あふれ落つとも かなたには 白き衣の マス・クワイヤー
2026年7月5日(主)
おはようございます。
ヨハネの黙示録7:4 わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
7:5 ユダ族の中から一万二千人が刻印を押され、/ルベン族の中から一万二千人、/ガド族の中から一万二千人、
7:6 アシェル族の中から一万二千人、/ナフタリ族の中から一万二千人、/マナセ族の中から一万二千人、
7:7 シメオン族の中から一万二千人、/レビ族の中から一万二千人、/イサカル族の中から一万二千人、
7:8 ゼブルン族の中から一万二千人、/ヨセフ族の中から一万二千人、/ベニヤミン族の中から一万二千人が/刻印を押された。
刻印は苦難を耐え抜き最終的に救われる人々であることを示すと考えられますが、その数は144000人になると言います。
これは12×12×10×10×10で、完全数をあらわすと考えられます。
挙げられている部族名は旧約聖書に出てくるイスラエル12部族を示すと言うよりも、イエス・キリストを信じる神の民、新しいイスラエルを表わすと考えられます。
ユダ族が最初にあるのは、イエス・キリストがユダ族出身だからと考えられます。
ダン族が挙げられていないのは、旧約聖書では、この部族が偶像崇拝に関わったり
(士師17-18章)、反キリストに関わったり(エレミヤ8:16)したからと考えられます。
ヨハネはヨハネの黙示録の最初の読者となる1世紀後半のキリスト者に、ローマ帝国の圧力に耐え抜くと必ず救われる、あなたたちは神の民だ、と励ましているのです。
この世界では苦しんだり押しつぶされそうになったりしますが、わたしたちも神の民に数えられ、刻印をいただいていることを信じ、耐え抜いて、救いの完成を待ち望みましょう。
刻印は 十四万と 四千人に 主の慈しみは すべての民に
2026年7月4日(土)
おはようございます。
ヨハネの黙示録7:1 この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。7:2 わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、7:3 こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」
昨日は第六の封印が開かれた幻によって6章を終えましたが、第七の封印が開かれる幻の話が8章で述べられる前に、7章では、「刻印を押された神の僕」や「白い衣を着た大群衆」の幻の話が述べられます。
上の聖書の箇所で、大地の四隅で風を押さえつけている天使は、大地や海を、大災害から守っていると考えられます。
さらに、これは、神さまが世界への裁きを一時的に延期させていることを意味すると考えられます。
では、それはいつまで延期されるのかというと、「神の僕たちの額に刻印を押してしまうまで」だと言うのです。
神さまを信じる者の額に刻印が押されますが、これは神を信じる者がこの世の災害や試練、迫害を免除されるということではなく、それをくぐりぬけて、最終的に救われるという刻印のように考えられます。
ヨハネはローマ皇帝を拝むように圧力をかけられている民を、神さまを信じてこの苦悩を耐え抜けば、かならず救われる、その刻印があなたたちには押されている、と励ましているのではないでしょうか。
わたしたちの信仰生活にも、いろいろな形で試練があり、それはほんとうに苦しいものですが、イエス・キリストを信じるならば、額に刻印をいただき、これをくぐりぬけ、神さまの救いがみなぎる神さまの国へと導かれるのです。
額には 印いただき 手のひらに 御言葉握り 試練をくぐる
2026年7月3日(金)
おはようございます。
ヨハネの黙示録6:12 また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、
6:13 天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。
6:14 天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。
6:15 地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、
6:16 山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。
6:17 神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。
小羊が封印を開くごとに、戦争、饑饉、死、殉教者の魂が現れますが、最後に第六の封印が開かれると、すさまじい天変地異が現れます。
大地震、太陽や月の異変、星の落下、空の消滅、陸の移動が起こります。
たとえ「地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者」であっても、この「神と小羊の怒り」に耐えることはできません。
この世界は王やその配下の者が支配し、奴隷たちは支配され、その中にはキリスト教徒もいたと考えられます。
しかし、この天変地異の幻は、「地上の王」も神と小羊の怒りに耐えられないことを示すことによって、世界を本当に治めているのは、神さまとイエス・キリストであることを伝えているのではないでしょうか。
そして、神さまは、世界を創造されたお方であり、さらには、世界を新しく創造されるお方である、と聖書は語っています。
「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)
「 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)
天と地が 滅びゆくとも 御言葉で 新天新地を 主は創られる
2026年7月2日(木)
おはようございます。
ヨハネの黙示録6:9 小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。6:10 彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」6:11 すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。
ヨハネが見た幻において、小羊=イエス・キリストが巻物の封印を順に開いていくと、戦争、饑饉、死、陰府を示すものが現れますが、第五の封印を開くと「証しのために殺された人々の魂」つまり殉教者の魂が現れます。
殉教者たちはイエス・キリストに裁きを求めます。すると、白い衣が与えられます。これは、殉教者が天で受け入れられることの保証を示すと考えられるようです。
また「しばらく静かに待つように」と告げられますが、これは、神さまはかならず救いの計画を実現してくださることの希望であるとも考えられるようです。
ヨハネはこの書を通して、迫害を受けている人々に、神さまはあなたたちの信仰をご存じだ、かならずお救いくださる、という希望を与えているのです。
わたしたちも、人生において苦しいことがつぎつぎに起こるが、神さまを信頼して待ち続ければ、神さまが白い衣を着せてくださる、という希望を抱くことが許されているのです。
赤き血を 流した民に キリストは 白き衣を かけてくださる
2026年7月1日(水)
おはようございます。
ヨハネの黙示録6:7 小羊が第四の封印を開いたとき、「出て来い」と言う第四の生き物の声を、わたしは聞いた。6:8 そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は「死」といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた。
第二の封印が開かれると戦争が、第三の封印が開かれると饑饉が現れ、ここに第四の封印が開かれると、「青白い馬に乗っている」「死」が現れ、「死」には「陰府」が従っています。
しかし、イエス・キリストは平和と満たしをもたらし、「死」ではなく「いのち」を、「陰府」ではなく「復活」をもたらしてくださいます。
陰府(よみ)にくだり 陰府より帰りし 蘇りの主 死にたるわれに いのちをたもう
2026年6月30日(火)
おはようございます。
ヨハネの黙示録6:5 小羊が第三の封印を開いたとき、第三の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤を持っていた。6:6 わたしは、四つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。」
黒い馬は饑饉を表わし、秤や小麦、大麦の値段は、饑饉による食料の値段の高騰を示す、という解釈が有力なようです。
ヨハネの黙示録は、このような饑饉が来ると予言しているとも、あるいは、この時代のローマ帝国の現状を示しているとも解されるようです。
第二の封印が開かれ現れた赤い馬は戦争を示すと言われますが、第三の封印が開かれ現れた黒い馬は、戦争が饑饉をも引き起こすことを示すという解釈もあるようです。
イエス・キリストはこれとは正反対のことをなさいました。
マルコ6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。6:42 すべての人が食べて満腹した。
戦争は 饑饉をもたらし 主の愛は 数千人を 満たして余る
2026年6月29日(月)
おはようございます。
ヨハネの黙示録6:3 小羊が第二の封印を開いたとき、第二の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。6:4 すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。
ヨハネが見た幻において、小羊=イエス・キリストが第二の封印を開くと、「赤い馬」に乗っている者が現れ、その者には「地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力」そして「剣」が与えられたとあります。
これは、戦争や暴力を意味するのではないでしょうか。
しかし、そのような力を神さまから与えられているように見えても、それを行使するかどうかは別の話です。
なぜなら、神さまは十戒においてすべての人に「あなたは殺してはならない」と命じておられるからです。
また、戦争をする力は神さまから与えられたものだと聖書が語る時、それを行使せよと言っているのではなく、むしろ、戦争も神さまの支配下にあるのだから、わたしたちが祈り、愛に生きるのであれば、神さまは戦争の力を押さえてくださる希望を与えてくださるのではないでしょうか。
わが君は 平和もたらし 愛し合い 土を耕す 鋤(すき)をくださる
2026年6月28日(日)
おはようございます。
ヨハネの黙示録6:1 また、わたしが見ていると、小羊が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。6:2 そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った。
ヨハネが見た「白い馬」に「乗っている者」は誰でしょうか。
この後に出てくる「赤い馬」「黒い馬」「青白い馬」に乗っている者がそれぞれ、戦争、饑饉、死を表わしているので、「白い馬」に乗っている者も弓のような武力による支配を表わすのかもしれません。
しかし、「白」は勝利を表わす色であり、これは、イエス・キリストや信仰者の勝利を表わすという解釈もありえます。
3:4 しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。
19:14 そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。
これらの箇所を併せて読むと、6:2の「白い馬に乗っている者」は、以下に続く戦争、饑饉、死を乗り越えるイエス・キリストや神の民と解釈することもできるかもしれません。
白馬にて もたらされるは 戦争か あるいはとわの 平和の世界か
2026年6月27日(土)
おはようございます。
ヨハネの黙示録5:11 また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。
ヨハネの見た幻では、天の神さまの玉座の周りに神さまの民と神さまの創られた生き物がいて、さらに天使たちの賛美の歌声がそれを取り囲みました。
5:12 天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」
天使たちの賛美の内容は、「力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美」は「屠られた小羊」つまりイエス・キリストにふさわしい、というものです。
5:13 また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、/賛美、誉れ、栄光、そして権力が、/世々限りなくありますように。」
天使たちとともに、世界の被造物、生き物も、「賛美、誉れ、栄光、権力」は「玉座に座っておられる方と小羊」つまり神さまとキリストにふさわしい、と賛美します。
5:14 四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。
神さまの民も、同様に、神さまとキリストにひれ伏し、礼拝します。
力、富、知恵と誉れ、栄光は 主にとこしえに 天の礼拝
2026年6月26日(金)
おはようございます。
ヨハネの黙示録5:9 そして、彼らは新しい歌をうたった。「あなたは、巻物を受け取り、/その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、/あらゆる種族と言葉の違う民、/あらゆる民族と国民の中から、/御自分の血で、神のために人々を贖われ、5:10 彼らをわたしたちの神に仕える王、/また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。」
「ヨハネの黙示録」を最初に読んだ時代の人びとは、ローマ皇帝ドミティアヌスの迫害に苦しんでいた、と考える聖書学者は少なくありません。
ヨハネはその人びとに、世界を本当に支配しているのはローマ皇帝のように見えて、そうではなく、目に見えない神さまなのだ、と励ましているのでしょう。
「新しい歌」とは、イエス・キリストを賛美する歌です。イエス・キリストこそ、神さまから巻物を受け取って、その封印を解き、神さまの救いの約束を明らかにするお方である、と賛美するのです。
キリストは「屠られて」「ご自分の血」を流されますが、それは、「あらゆる種族」「あらゆる民族」の人びとを贖うためです。
その人びとは「神に仕える王、また祭司となった」とありますが、王のような支配者になった、ということではありません。あくまで「神に仕える」のです。そして、神さまが神の国の王として愛で世界を治められるそのお働きに仕えるように招かれるということでしょう。
「彼らは地上を統治する」とは神さまの民は神さまの御国の愛によるご支配に招き入れられるということではないでしょうか。
イエス・キリストはわたしたちをもそのようにお招きくださいます。
愛によってわたしたちを救ってくださる神さまの御国の民とされて、わたしたちも神さまの愛の働きに招き入れられているのです。
巻物の 封印解かれ 放たれる 愛の御国の 我も民なり
2026年6月25日(木)
おはようございます。
ヨハネの黙示録5:7 小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った。
この「小羊」はイエス・キリストです。イエス・キリストが、天の玉座におられる神さまの右の手から、巻物を受け取るのを、ヨハネは見ます。
5:8 巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。
そうすると、「四つの生き物と二十四人の長老」すなわち神さまに創られた生き物と神さまの民は、賛美と祈りをたずさえて、イエス・キリストの前でひれ伏すのです。
これは、わたしたちがささげる礼拝と同じことです。
イエス・キリストから、神さまの救いの言葉をいただき、賛美し、祈る礼拝そのものです。
キリストの 御言葉を聞き 瞳濡れ 賛美と祈り 天の礼拝
2026年6月24日(水)
おはようございます。
「ヨハネの黙示録」はドミティアヌスというローマ皇帝がキリスト教を迫害した時代に記されたのではないか、という有力な学説があります。紀元一世紀の末のころです。イエスさまの十字架と復活、召天、ペンテコステが紀元30年ごろ、つまり、紀元一世紀の前半ですから、「ヨハネの黙示録」はその何十年か後に記されたと考えることができるようです。
ローマ帝国は、イエス・キリストを救い主、王として信仰する代わりに、ローマ皇帝を礼拝することを強要したと考えられ、そのような迫害下にあるキリスト教徒を励ますために、この書は記された、と考えることができる、と日本基督教団出版局発行の注解書などには記されています。
ヨハネの黙示録5:1 またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。
ヨハネはこのような幻を見ますが、封印を開けることができる者がおらず、ヨハネは「激しく泣いた」(5:4)とあります。巻物には神さまの救いの計画が記され、巻物が開かれることが迫害下の希望になるという希望を抱いたからではないでしょうか。
しかし、長老のひとりが言います。
5:5「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」
「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえ」とはイエス・キリストのことです。
(※「ひこばえ」とは、木や草の切り株、根元、根などから新しく生えてくる若い芽や枝のこと。木を切り倒しても、切り株の脇から新しい芽が出てくることがあり、それが「ひこばえ」。)
イエス・キリストが、この巻物の封印を開いて、神さまの救いの計画を明らかにし、迫害を受ける民を救ってくださるのです。
苦しみに 救いもたらす 巻物の 封印解くは ダビデのひこばえ
2026年6月23日(火)
おはようございます。
ヨハネの黙示録4:9 玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、4:10 二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。4:11 「主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、/御心によって万物は存在し、/また創造されたからです。」
ヨハネの見た幻では、神さまによって創られた生物(9節)は神さまを賛美し感謝し、神さまの民も自分たちの誉れをすべて神さまの前で捨ててただ神さまだけにひれ伏します(10節)。
そして、神さまは万物を創造され、万物は神さまの御心によって存在する、その神さまに栄光と誉れと力を帰する、と賛美します。
万物を 創造しては あらしめる 神のみにあれ とわのみ栄え
2026年6月22日(月)
おはようございます。
ヨハネの黙示録4:6 また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。4:7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。
4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、/全能者である神、主、/かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」
「水晶に似たガラスの海」とありますが、荒れ狂う海も、「玉座」つまり神さまの前では静まりかえっているということでしょうか。
「四つの生き物」は、幻想的で、ひとつひとつはいろいろな意味に解釈されるようですが、四つ全体で被造物の全体、神さまに創られたものの全体を表わしているのかもしれません。
「前にも後にも一面に目があった」とは、神さまをよく見ているということでしょうか。
神さまに創られたものは、神さまをしっかり見ながら、神さまを「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美します。
この三重に聖なるお方は「全能者である神、主」であり、「かつておられ、今おられ、やがて来られる方」つまりイエス・キリストであられます。
この世では、ローマ皇帝のような暴君が支配し、人びとは苦しんでいますが、世界を本当に治めているのは、天の玉座の神さまであり、わたしたちは、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」とこのお方を賛美しつつ、この苦しみを乗り越えることができるのです。
主の前に こころ静まり 水晶の 海とはなりぬ 至聖(しせい)なるかな
2026年6月21日(主)
おはようございます。
ヨハネの黙示録4:4 また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。4:5 玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。
「二十四の座」とは、イスラエル12部族の12とイエスさまの12弟子の12を合わせた数字ではないか、という説があるようです。
つまり、天の王座の周りには、神さまの民が並んでいる、というイメージです。
「白い布」や「金の冠」は、神さまの救いを表わす、とも考えられます。
玉座から起こる「稲妻」「さまざまな音」は、神さまの権威や栄光を表わすと言われます。
「七つのともし火」「七つの霊」は、神さまの霊が七つあると言うよりは、「七」は完全を表わし、神さまの完全な霊が臨在することを表わすと考えられます。
地上ではローマ皇帝が君臨し、キリストを信じる者が苦難を経験していますが、天の王座には神さまがおられ、神の民が賛美しているので、恐れることはない、という励ましのメッセージを送っているのではないでしょうか。
わたしたちの人生において、さまざまな苦しみがありますが、天の玉座から神さまが愛によって治めていてくださるので、恐れることはない、という希望を持ちましょう。
二十四(にじゅうし)の 天の家族に 加わって 地の教会で 御名をたたえる
2026年6月20日(土)
おはようございます。
パトモス島で、七つの教会へ手紙を書くように命じられたあと、ヨハネは聖霊の働きによって、天の玉座を見ます。
ヨハネの黙示録4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」
4:2 わたしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。
4:3 その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。
このように、天上で神さまがまばゆいばかりの玉座に座しておられます。
エメラルドの虹は、「肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」(創世記9:15-16)という神さまの約束を意味しているのかもしれません。
滅ぼさない 約束の虹 天上の 玉座にかかる エメラルドの橋
2026年6月19日(金)
おはようございます。
ヨハネの黙示録3:21 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。
これは、「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」(3:14)つまりキリストが、ラオディキアの教会の人びとに語った言葉です。
「勝利を得る」とはどういうことでしょうか。
15~20節をまとめますと、自分の信仰は十分だと思わず、むしろ、霊的な貧しさに気づき、戸をたたいてくださるキリストを、自分の貧しさの中に迎え入れて、キリストにある真の豊かさと交わりを回復しなさい、ということでしょう。
このように、自分の貧しさの中にキリストの豊かさをいただくことが勝利なのであり、それはキリストとともに座することである、とキリストご自身が言われるのです。
戸をたたく キリストをこそ お迎えし 貧しき心 ゆたかになりぬ
2026年6月18日(木)
おはようございます。
ヨハネの黙示録3:10 あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。3:12 勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。
これは、ヨハネの黙示録において、「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方」(3:7)すなわちイエス・キリストから、フィラデルフィアの教会の人びとに向けられた言葉です。
「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」(3:8)。
苦難の中、苦しみながらも、キリストの言葉を守った人びとに対して、御国の門は開かれている、とキリストは言います。
また、試練の中キリストの言葉を守った人びとを、今度はキリストが守る(3:10)とキリストは言います。
さらに、今苦難の中にあっても、キリストは「すぐに来る」(3:11)から、キリストの言葉を「堅く守りなさい」(3:11)と勧めます。
キリストはそのような人びとを「わたしの神の神殿の柱にしよう」(3:12)、そうすると、その人びとは「もう決して」(神殿の)「外へ出ることはない」(3:12)と言われます。
また、そのような人びとの上には「わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記される」(3:12)と言います。つまり、新しいエルサレムの市民とされ、神さまとキリストに属する者とされると言うのです。
神の名と キリストの名を 刻まれて 天の都の 民とされる日
2026年6月17日(水)
おはようございます。
ヨハネの黙示録3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。
これはサルディスの教会の人びとに、「神の七つの霊と七つの星とを持っている方」(3:1)、つまり、イエス・キリストが語った言葉です。
その前に、キリストは、彼らの罪を指摘します。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない」(3:1-2)。
そして、悔い改めを促します。
「どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ」(3:3)。
悔い改めない者は裁かれます。
「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない」(3:3)。
しかし、信仰を守り抜く者たちもいます。
「しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである」(3:4)。
「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」(3:5)。
「勝利を得る」とは信仰を守り抜くということでしょうか。
「白い衣を着せられる」「命の書に名前がある」「神さまの前でキリストによって名を呼んでいただく」とは、永遠のいのちに入れられるということでしょうか。
深白(ふかじろ)の 制服を着て 名を呼ばれ 地を旅立ちて 御国の門(かど)へ
2026年6月16日(火)
おはようございます。
ヨハネの黙示録2:26 勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、/わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。2:27 彼は鉄の杖をもって彼らを治める、/土の器を打ち砕くように。2:28 同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。
ヨハネの黙示録において、「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子」(2:18)すなわちイエス・キリストは、ティアティラの教会の人びとをほめて言います。
「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている」(2:19)。
どうじに、戒めの言葉も伝えます。
「あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている」(2:20)。
冒頭の「勝利を得る者」(2:26、28)とは、信仰が迫害を受けているときも、偶像崇拝に陥らず、むしろ、「愛、信仰、奉仕、忍耐」(2:19)を貫いた者のことを指すのでしょう。
「明けの明星」(2:28)とはイエス・キリストご自身のことです。
つまり、キリストは苦難の中で信仰を守り抜いた者とともにおられる、と言うのでしょう。
どこまでも つづく闇夜と 思えども まなこ凝らせば 明けの明星
2026年6月15日(月)
おはようございます。
ヨハネの黙示録2:17 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」』
これは、ベルガモンの教会に向けられた言葉です。
この人びとは、迫害においても信仰を捨てなかったとのことです。
しかし、それは完全ではなく、神ならぬものに神のようにすがろうとしていた側面もあったようで、それを悔い改めることが求められています。
さもなければ、「鋭い両刃の剣を持っている方」(2:12)、すなわち、キリストが、人びとのそのような傾向と戦うと。
そして、その勝利の際には、神さまの永遠のいのちの糧である「マンナ」と、そのしるしである「白い石」が与えられ、そこには、神さまとの新しい繋がりに入った者の新しい名前が記されていると言うのです。
キリストはわたしたちを苦しめるものに打ち勝ってくださり、永遠のいのちの糧、そのしるし、新しい人生を与えてくださいます。
新しい 名を記された 白い石 マンナとともに ただおしいただく
6月14日(主)
おはようございます。
ヨハネの黙示録2:11 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。
これは、ヨハネの黙示録において、「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」(2:8)すなわちイエス・キリストから「スミルナの教会」(2:8)にあてられた言葉です。
スミルナの教会の人びとは、「苦難や貧しさ」(2:9)を経験しているが、「本当はあなたは豊か」(2:9)と、キリストから励まされます。
さらには、「受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない」(2:10)とも。
「見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(2:10)。
「命の冠を授けよう」というキリストの約束は、すなわち「第二の死から害を受けることはない」(2:11)という約束でもあります。
「第二の死」とは、地上の生涯を終えるという第一の死のあと、さらに、神さまから永遠に断絶されることを意味するとも考えられます。
しかし、たとえ、地上の生命を終えても、神さまは永遠にともにいてくださる、とヨハネの黙示録を通して、キリストは約束してくださるのです。
生命(せいめい)は やがてお返し 預かりもの とわのいのちは いただいたもの
6月13日(土)
おはようございます。
ヨハネの黙示録2:7 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。
これは、「ヨハネの黙示録」において「エフェソにある教会」(2:1)に向けられた言葉の締めくくりです。
ここでは、イエス・キリストが「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」(2:1)と呼ばれています。
また、「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった」(2:2-3)というように、エフェソの教会が苦難に耐えていることをほめています。
同時に、「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」(2:4-5)と戒めてもいます。
そして、その結びとして、「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」(2:7)とあるのです。つまり、神さまの言葉に耳を傾けるならば、「神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」、すなわち、永遠のいのちを得る、とあるのです。
この「神の楽園にある命の木の実」は創世記の以下の言葉を思い出させます。
「主なる神は・・・園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」(2:9)
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(3:22)
つまり、創世記においては、人は自分が神になりかわって善悪を判断し、神になりかわって自らの手で命の木に手を伸ばそうとするのですが、黙示録においては、御言葉を聞く者にイエス・キリストが「命の木の実を食べさせる」と言うのです。
わたしたちは、命の木の実を自らもぎとりますか。それとも、イエス・キリストの御言葉を通していただきますか。
楽園の 命の木の実 キリストの 手ずから受ける その日愛しい
6月12日(金)
おはようございます。
ヨハネの黙示録1:17 わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、1:18 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。
ヨハネは迫害ゆえにパトモス島にて囚われの身になっていましたが、同じく迫害を受けている七つの教会に、イエス・キリストに導かれて、この書を書き送ります。
「最初の者にして最後の者」(17節)、「生きている者」(18節)とはイエス・キリストのことです。このイエス・キリストは十字架で死んだが復活して、「死と陰府の鍵を持っている」(18節)のです。
つまり、たとえ迫害で死んだとしても、死後の世界もイエス・キリストが治めておられるのだから、恐れることはない、と人びとを励ましているのです。
わたしたちも、いつかは地上の生を終えますが、その先にある世界、わたしたちが「死」と呼ぶ世界を恐れる必要はありません。イエス・キリストが治めておられるからです。
なお、ここでヨハネに現れたイエス・キリストのお姿は特徴的です。
1:13 燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。
1:14 その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、
1:15 足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。
1:16 右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
神々しく、力強く、とくに、「声は大水のとどろきのよう」「口からは鋭い両刃の剣」というように、言葉に重みと切れ味があるイエス・キリストが思い浮かばれます。
天と地の 鍵はキリストの 御手にあり などかは恐る 死をも陰府をも
2026年6月11日(金)
おはようございます。
ヨハネの黙示録1:9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。
ヨハネは、神さまの言葉を宣べ伝え、イエスさまのことを証したゆえに、パトモス島に流刑になっていたようです。
けれども、そのとき、ヨハネはみっつのことを信じていました。
ひとつは、自分はこの書を読むであろう「アジア州にある七つの教会」(1:4)の人びとと「共に」いるということです。
つぎに、自分は「イエスと結ばれている」ということです。
そして、自分と七つの教会の人びとは信仰ゆえに共に苦しんでいるが、それは、イエスさまの地上での苦しみ、十字架の苦しみと結ばれている、また、イエスさまは信仰ゆえに苦しむ自分たちと共に苦しんでくださる、共にこの苦しみを忍耐してくださる、そこにはすでに支配=神さまの支配=神の国があらわれている、ということです。
ヨハネは、七つの教会の苦しんでいる人たちに、わたしも一緒に苦しんでいる、イエスさまも一緒に苦しんでくださる、ここに神さまの国が既にある、だから、この苦しみを耐え抜こう、という励ましと希望をもたらそうとしているのです。
わたしたちもそれぞれ苦しみを抱えていますが、わたしたちはひとりで苦しんでいるのではなく、共に苦しんでくれる人が(たとえ、目に見える近くにいなくてもどこかに)いると信じましょう。
何よりも、イエスさまがともに苦しんでくださるから、この苦しみに耐えることができると信じましょう。
なんだ坂 これしきの丘 きみがいて イェスの後押し きっと登れる
2026年6月10日(水)
おはようございます。
ヨハネの黙示録1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。わたしはアルファであり、オメガである。
かつて神さまはエジプトでこう言われました。
「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:3)。
そして、いま、このヨハネの黙示録では、これが、「今」「かつて」「やがて」においてもそうであること、つまり、神さまは、現在・過去・未来のすべてにおいて、たしかにここにおられるお方であることが明言されています。
また、かつて神さまはイザヤ書でこう言われました。
「わたしは初めであり、終わりである」(イザヤ44:6)。
これをギリシャ語でやや言葉を工夫して言うと、「わたしはアルファであり、オメガである」となります。アルファはギリシャ語の最初の文字、オメガは最後の文字だからです。
神さまは、世界の初めにおられ、世界を創造されたお方であり、世界の終わりにもおられ、世界を完成してくださるお方だからです。
そして、旧約聖書では父なる神さまだけについて言われていたこれら二つのことが、ヨハネの黙示録では、父なる神さまとイエス・キリストについて言われていることも大事です。ここでは、イエス・キリストと父なる神さまの一体が言われていると言えるでしょう。
世界の初めであり、完成である神さまとキリストがともにいてくださいますから、わたしたちはきっとどんな苦しみも不安も乗り越えることができるでしょう。
御父(おんちち)と 御子(みこ)キリストは アルファにて オメガにいます わが主なる神
2026年6月9日(火)
おはようございます。
ヨハネの黙示録1:7 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。
イエス・キリストは十字架につけられ葬られましたが、復活し、昇天し、やがて、もう一度、この地にお越しになられます。
その際には、すべての人びとが、イエス・キリストが世界を愛でお治めになる王であることを知ります。
イエス・キリストを十字架につけ、イエス・キリストや信仰者を迫害した人びとも同じです。
わたしたちは、イエス・キリストの前で、神さまの主権を畏怖し、自分中心であることを深く悔い改めます。
ヨハネの黙示録が書かれた時代の信仰者は、ローマ帝国や皇帝による迫害に苦しんでいたのでしょう。
しかし、ヨハネは、まことに世界を治めているのはローマ皇帝でも帝国でもなく、神さまとイエス・キリストであり、神さまの国であることを信仰者に告げ、励ましています。
目には見えないが、神さまとイエス・キリストこそがわたしたちを治めてくださるまことの主であり、やがて、それが明らかになり、ローマによる苦しみは終わる、という希望と持とうと。
皇帝は 王にはあらず 神こそが 世を統べたもう 望みは消えず
2026年6月8日(月)
おはようございます。
ヨハネの黙示録1:5 わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、1:6 わたしたちを王国とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
イエス・キリストは、わたしたちを愛してくださいます。
ご自分のいのちによって、わたしたちを死の縄目から解放してくださいます。
イエス・キリストは、わたしたちを神さまの王国の民としてくださいます。
そして、神さまにお仕えして、神さまのことを他の人に伝える者にしてくださいます。
どうじに、他の人のことを神さまにとりなす者(祈る者)としてくださいます。
わたしたちは、神さまの愛の王国の民なのです。
この民として、わたしたちは、この神さまのことを人々に伝え、人々のためにお祈りいたしましょう。
神の国の 民なるわれら 祭司なれば などかは祈らぬ いくさの終わりを
2026年6月7日(日)
おはようございます。
(昨日と同じ節の後半のコメントです)
1:4‐5 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。
「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト」とあります。
つまり、イエス・キリストは、父なる神さまの愛を現す(証する)お方であり、父なる神さまとわたしたちの救いにおいてとことん誠実なお方であり、父なる神さまによって死者の中から復活したお方であり、地上の王たちのように暴力によってではなく愛によって世界をお治めになるまことの王なのです。
キリストは 御父(みちち)の証人 まことにて 復活の初穂 愛の国王
2026年6月6日(土)
おはようございます。
ヨハネの黙示録1:4‐5 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。
「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」は「父なる神」あるいは「キリスト」を指すと考えられます。
「七つの霊」は「聖霊」を指すと考えることもできるようです。
聖霊はひとつなのに「七つ」とは不思議ですが、これは、「完全」を現すとか、「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊」(イザヤ11:2)を連想させるなどの解釈があるようです。
「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト」は、そのまま、「イエス・キリスト」のことです。
この三位一体の神から「恵みと平和があなたがたにあるように」とヨハネは「アジア州にある七つの教会」を祝福しています。
父なる神さま、そして、キリストは、わたしたちにとっても、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」です。
父なる神さま、そして、キリストは、わたしたちと、この今、ともにいてくだり、かつて、わたしたちを創造し、わたしたちをあらしめてくださり、やがて、わたしたちを天に迎えるためにお越しくださるお方なのです。
今おられ かつてもおられ またやがて 来られる方に われただ祈る
2026年6月5日(金)
おはようございます。
ヨハネの黙示録1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。1:2 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
ヨハネの黙示録というと、世界の終わりに何か恐ろしいことが起こるようなイメージがもたれることがありますが、じつは、「黙示」とは、「覆いを取り除くこと」「隠れていたことを明らかにすること」「啓示すること」です。
イエス・キリストのご生涯と十字架、復活も、神さまがご自身を「啓示」する出来事であるとキリスト教では考えます。
生まれてまもない当時のキリスト教会は、ローマ帝国の圧力や迫害を受けていました。
しかし、「ヨハネの黙示録」は、「ローマ皇帝が支配者ではなく、神さまとキリストが世界を治めておられる、そのことがやがて明らかになる」ことを伝えようとしていると考えられます。
ヨハネの黙示録からは、「何年何月何日に世界にどのようなことが起こる」といったことではなく、「神の言葉とイエス・キリストの証し」(2節)を受け取りたいと思います。
今世界は困難な状況にあり、わたしたちひとりひとりも苦難を抱えていますが、神さまが世界とわたしたちを治めていてくださり、最大の喜びをもたらしてくださることを信じて、歩みましょう。
終点にて 聞こえてくるは 叫び声 にはあらずして 喜びの歌
2026年6月4日(木)
おはようございます。
ホセア書14:9 ああエフライム/なおも、わたしを偶像と比べるのか。彼の求めにこたえ/彼を見守るのはわたしではないか。わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ。
イスラエルの民は、神さまを偶像(神さまではないもの、お金、権力、軍事力、自分の思い・・・)と比べて、偶像に傾きます。
けれども、民の求めに本当にこたえ、民を本当に見守るのは神さまです。
神さまは、「命に満ちた糸杉」です。
民は、神さまにつながって、「実を結ぶ」のです。
糸杉の 枝にはどんな 実が結ぶ すがたさまざま 虹色がいい
2026年6月3日(水)
おはようございます。
ホセア書14:8 その陰に宿る人々は再び/麦のように育ち/ぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。
イスラエルの民は神さまから離れましたが、神さまはこの民をふたたび迎え入れます。
神さまとともにあって、この民はレバノン杉のように大きく育つ、という幻が神さまに示されます。
さらに、この大樹の陰に、他の民も宿るようになり、育ち、花を咲かせると。
わたしたちはどうでしょうか。
わたしたちも神さまの意に沿わない者でありながら、神さまはわたしたちを愛し抜いてくださいます。
わたしたちは神さまからいただいたその愛を、わたしたちの出会う人々とわかちあっているでしょうか。
わたしたちは、道を行く人々に木陰を提供できているでしょうか。
イエスさまが先頭に立ってわたしたちを導いてくださることを信じましょう。
キリストの 木漏れ日を浴び 空を見て 花を咲かせる 野草になりたい
2026年6月2日(火)
おはようございます。
ホセア書14:6 露のようにわたしはイスラエルに臨み/彼はゆりのように花咲き/レバノンの杉のように根を張る。
神さまから離れたイスラエルでしたが、神さまはイスラエルをけっして見捨てません。
神さまは御言葉と愛によって、露のようにイスラエルを潤し、イスラエルは冬を乗り越えたゆりのように花を咲かせます。その根は大木のように神さまという大地に深く張っています。
神さまは、わたしたちも、来る朝ごとに、愛と御言葉によって、潤いを与えてくださいます。
わたしたちは、白百合のように、今日を生きるいのちを咲かすことができます。
神さまは、わたしたちの根っこを、深いところでしっかりとお支えくださいます。
春に咲く うるわしの花 白百合に 萌えたつこころ うるおう眼(まなこ)
2026年6月1日(月)
おはようございます。
ホセア書14:5 わたしは背く彼らをいやし/喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。
イスラエルの民は神さまに背き、神さまから離れました。
しかし、神さまは、いまや、この民を癒やし、「喜んで」「愛する」と言われるのです。
いまや、神さまの怒りはこの民から離れ、神さまの愛がこの民に臨むと言うのです。
わたしたちも、神さまの愛の御心に、じゅうぶん適っているとは言えません。
神さまをじゅうぶんに信頼しているとは言えません。
しかし、神さまは、わたしたちを癒し、喜んで愛してくださいます。
神さまの怒りは、わたしたちから離れ、神さまご自身がわたしたちと一緒にいらしてくださると言うのです。
遠ざかる 我を追いかけ 呼びとめて 振り向きざまに いだくはイエス
2026年5月31日(主)
おはようございます。
ホセア書14:3 誓いの言葉を携え/主に立ち帰って言え。「すべての悪を取り去り/恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。14:4 アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを/再びわたしたちの神とは呼びません。
わたしたちは「アッシリア」をわたしたちの救いとしていないでしょうか。
「軍馬」に乗っていないでしょうか。
自分の手で造ったものを「神」と呼んでいないでしょうか。
わたしたちはお金や富や繁栄やこの世的な力をわたしたちの救いとしていないでしょうか。
「ろば」に乗ったイエスさまより「軍馬」に乗った将軍を求めていないでしょうか。
自分の思いの産物を「神」と呼んでいないでしょうか。
神さまをわたしたちの思いで仕立て上げていないでしょうか。
わたしたちは古くからの自分の思いにしがみつき、それを打ち砕かれ、つねにあたらしく神さまと出会うことを恐れていないでしょうか。
アッシリアは 救いにあらず わが神は わが内心の 偶像にあらず
2026年5月30日(土)
おはようございます。
ホセア書12:10 わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしは再びあなたを天幕に住まわせる/わたしがあなたと共にあった日々のように。
イスラエルの民は神さまから離れてしまいました。
民は、かつての荒れ野での天幕生活のような厳しい状態に陥るでしょう。
しかし、そこは、神さまと民との原点でもあり、荒れ野の生活でも神さまはともにおられるのです。
つまり、イスラエルの民は神さまから離れてしまいますが、神さまはその民を離れず、民が苦しいときも、ともにおられる、と言われるのです。
荒れ野にて 天幕の中 ともにいる 主はわが信仰 熟させたもう
2026年5月29日(金)
おはようございます。
ホセア書12:6 主こそ万軍の神/その御名は主と唱えられる。12:7 神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち/常にあなたの神を待ち望め。
わたしたちが造り出す偶像ではなく、生きておられるまことの神さまこそが、わたしたちの主、造り主、主人であり、根本の支えです。
わたしたちは、お金や自分の力、自分の思いを自分の最大の支えにしてしまうことなく、まことの神さまに立ち返らなければなりません。
神さまは、わたしたちを愛し、わたしたちを救うという正義のわざをなしてくださいます。
それにお応えして、わたしたちも人を愛し、人の生を尊重する正義を求めなくてはなりません。
それは、神さまの御心がなるように慕い求めることであり、神さまのお越しを待ち望むことでもあるのです。
絵に描いた 餅を拝まず ただ愛と 正義の神を われ待ち望む
2026年5月28日(木)
おはようございます。
ホセア書11:9 わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。
イスラエルの民は、神さまに背き、神さまから離れ、それに対して、神さまは厳しい裁きの言葉を告げられました。
しかし、いまや、「怒りに燃えることはない」「イスラエルを滅ぼさない」と神さまは言われます。
なぜなら、神さまは、わたしたち人間のようにただ怒りだけで相手を滅ぼし去るようなことはなさらず、愛をもってお赦しくださるお方だからです。
神さまは、ご自分に背く者をお赦しくださいます。
どこまでも自分中心で、神さまへの信仰の中にさえ罪を含めているわたしですが、神さまはお赦しくださるのです。
底なしの 沼にしずむ 罪人と ともにくだりて 引き上げるきみ
2026年5月27日(水)
おはようございます。
ホセア書11:1 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。11:2 わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。
ホセアの時代の何百年前、神さまはイスラエルの民をエジプトから救い出し、ご自分の子となさいました。それは、イスラエルの民がそれにふさわしいことを神さまに対してなしたからではなく、ただ、神さまがイスラエルの民を愛した故にです。
神さまのイスラエルの民への愛は、見返りの愛ではなく、無条件の愛でした。
しかし、イスラエルの民は、神さまのその愛を忘れて、ホセアの時代にも、神さまから離れてしまいます。
けれども、神さまは驚くべきことを言われます。
11:8 ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。
神さまの愛を忘れ、神さまから離れたイスラエルの民であるのに、神さまはこの民を、見捨てない、滅びに引き渡さない、この民のことで、神さまは激しく心を動かし、憐れみに胸を焼かれる、と言われるのです。神さまは、どこまでも、無償の愛、相手に条件を求める愛を貫かれるのです。
わたしは、神さまに愛され、救われるに値する点を何一つ持っていませんが、そのわたしを愛してくださる神さまの御言葉に、救われています。
見捨てずに 胸焦がしつつ 我を愛す アガペーこそが 我をも救いき
2026年5月26日(火)
おはようございます。
ホセア書10:12 恵みの業をもたらす種を蒔け/愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように。10:13 ところがお前たちは悪を耕し/不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ。
わたしたちは「自分の力と勇士の数」を頼りにしていないでしょうか。
わたしたちは、自分の慣れ親しんできたこれまでの思い、昔からの考え、これは間違いないと想ってきたことを頼りにしていないでしょうか。
神さまは、それは「悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べる」ことだと言われます。
そこには、自分しかないのです。
そこに、神さまがおられるようで、じつは、自分の世界にとどまり、自分自身を刈り入れ、自分を食べているに過ぎないのです。
では、どうしたらよいのでしょうか。
「恵みの業をもたらす種を蒔け」「愛の実りを刈り入れよ」「新しい土地を耕せ」と主は言われます。
自分を出るのです。神さまの御言葉を聞くのです。自分以外の声で、神さまの御言葉を聞くのです。
何度も読んだ聖書の箇所から、これまで自分が受け取らなかった、新しい神さまのメッセージを聞くのです。何度も読んだ聖書の箇所から、まったく新しい恵みを受け取るのです。そして、わたしたちの信仰、それから、神さまとわたしたちの関係を、まったく新しくしていただくのです。
種を蒔け 土を耕せ 刈り入れよ 自分ではなく 愛の実りを
2026年5月25日(月)
おはようございます。
ホセア書9:10 荒れ野でぶどうを見いだすように/わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように/お前たちの先祖をわたしは見た。ところが、彼らはバアル・ペオルに行った。それを愛するにつれて/ますます恥ずべきものに身をゆだね/忌むべき者となっていった。
かつてイスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しんでいました。
神さまは、民をそこから救い出し、荒れ野の旅を導かれました。
その際、神さまはイスラエルを、みずみずしい「ぶどう」や「いちじく」のように大事にし、愛されたのです。
しかし、それから、サウル、ダビデ、ソロモン王の国ができ、それが分裂して、来たイスラエル王国の民は、いまや、神さまを離れ、神ならぬものを「愛する」ようになってしまいました。
「愛する」とありますが、イスラエルの民は、神ならぬものをまるで神であるかのごとく、執着し、欲したのです。それは、神さまがイスラエルの民を「ぶどう」や「いちじく」のように大切に思い、愛されたこととはまったく違います。それは、相手を大切に思うことではなく、自分の利益のために、相手を所有したがったに過ぎないのです。
けれども、わたしたちは、心身が乾ききっている時に、思いがけずみずみずしいぶどうやいちじくの木が現れたら、こころから感謝するように、神さまの前に立とうではありませんか。
荒れ野にて ぶどういちじく 慕うごと 天の御神は 我を喜ぶ
2026年5月24日(日)
おはようございます。
ホセア書8:4 彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない。彼らは高官たちを立てた。しかし、わたしは関知しない。彼らは金銀で偶像を造ったが/それらは打ち壊される。8:5 サマリアよ、お前の子牛を捨てよ。わたしの怒りは彼らに向かって燃える。いつまで清くなりえないのか。
わたしたちのまことの王は、神さまです。
ですから、わたしたちが特定の人間を、絶対間違いのない神のような存在として、根本的に依存してしまうなら、それは偶像崇拝です。
金や銀、この世の財産、この世の誉れを、これと同じように、神のように頼ってしまうのなら、それも偶像崇拝です。
けれども、神さまは、そのような偶像には関知しない、むしろ、それらを打ち壊す、それらを捨てよ、と言われます。
わたしたちは本当に信頼しているのは何でしょうか。
わたしたちは何に心の安定を求めているのでしょうか。
人と仲良くしたり、仕事が安定したり、感情が満たされたりすることも、大切です。
けれども、根本の支えは、神さまです。
たとえ、人とうまくいかないときも、仕事が不安定なときも、感情がみだれるときも、それでも、神さまが支えていてくださる、ともにいてくださる、という神さまの言葉によって、わたしたちの根本は支えられるような信仰を慕い求めましょう。
わたしたちがそのような信仰に到達できなくても、神さまは、ともにいてくださり、支えていてくださる、神さまのこの愛は、完成しているのですから。
金銀も 乱れぬ心も あらねども わたしはここに の御言葉あり
2026年5月23日(土)
おはようございます。
ホセア書8:2 わたしに向かって彼らは叫ぶ。「わが神よ/我々はあなたに従っています」と。8:3 しかし、イスラエルは恵みを退けた。敵に追われるがよい。
神さまは言われました。
「殺してはならない」(出エジプト記20:13)
しかし、キリスト教徒がほとんどの欧米諸国は、歴史の中で戦争を繰り返してきました。
戦争は別だ、という言い訳を、神さまはお許しくださるでしょうか。
イエスさまは言われました。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:21-22)
イエスさまは、人に対して腹を立て罵る者は人を殺すのと同じことだ、と言っておられるのではないでしょうか。
わたしたちは、神さまを信じていると言いながら、人を罵っていないでしょうか。
神さまは「人を殺さない」で生きるという恵みをわたしたちに与えてくださいました。
イエスさまは「人を罵らない」で生きるという恵みをわたしたちに与えてくださいました。
しかし、わたしたちは、このとうとい「恵みを退け」ていないでしょうか。
戦争も人を傷つけることも、神さまの「恵みを退ける」行為ではないでしょうか。
武装せず 争い放棄は 天来の 恵みにあれば 退けはせぬ
2026年5月22日(金)
おはようございます。
ホセア書7:11 エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め/あるいは、アッシリアに頼って行く。
ここでは、鳩は、「すぐ飛び回る」「落ち着きがない」そして「簡単に罠にかかる」鳥とされ、エフライムつまりイスラエルは、この鳩のようだと言われています。
つまり、神さまを信頼仕切れず、落ち着かず、いろいろなものにすがろうとし、神さまでないものに大きく頼ろうとする故に、エジプトやアッシリアと軍事同盟を結んでしまうということです。
わたしたちはどうでしょうか。お金、人間関係、目に見える確かさは必要ですが、それは、適度な範囲においてのことで、根本の支え、目に見えない支えは、やはり神さまではないでしょうか。
神さまがともにおられる、神さまがわたしを愛してくださる、神さまが平安にしてくださる。
このことをこそ根本の支えとしたいものです。
ただそばに いるだけでよい インマヌエル 星屑さえも 愛しむアガペー
2026年5月21日(木)
おはようございます。
ホセア書7:9 他国の人々が彼の力を食い尽くしても/彼はそれに気づかない。白髪が多くなっても/彼はそれに気づかない。7:10 イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。彼らは神なる主に帰らず/これらすべてのことがあっても/主を尋ね求めようとしない。
イスラエルの人たちは、何でも自分たちの力で進めようとし、神さまに依り頼もうとはしませんでした。
何でも自分でする、何でもできると、傲慢になり、神さまから離れてしまったのです。
その結果、頼みにしていた自分の力があてにならなくなっても、それに気付きません。
それでも、神さまに帰ろうとも、尋ね求めようともしなかったのです。
わたしたちは、謙虚になり、自分なりに努力はしつつも、つねに、神さまに祈り求め、神さまにお願いし、神さまにこそ、依り頼もうではありませんか。
白髪(はくはつ)と 弱まる手足に 誘われて 尋ねよ求めよ 神に帰らん
2026年5月20日(水)
おはようございます。
ホセア書7:8 エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ/エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。
エフライムとは北のイスラエル王国のことで、「諸国民の中に混ぜ合わされ」とは、アッシリアに頼ったり、エジプトと同盟したり、周囲の異教文化や偶像礼拝を取り入れたりしたことのようです。
神さまを根本的な頼みとせず、国は大国の軍事力に頼ったり、民は目に見えるものに頼ったりしたことを言っているのではないでしょうか。
「裏返さずに焼かれた菓子」とは、片面はこんがりと焼けていても、もう一面は粉のままのことで、見かけや外側は神さまを礼拝するように装っても、内面ではそうでないことを言うのでしょう。
わたしたちは、ある程度の経済力や人間関係、自分の力を大事にしても、根本の支えは、目に見えない神さまであることをつねに思い出しましょう。
目に見える世界でいろいろなことがあっても、根本では、神さまがわたしたちを支えていてくださいます。
神さまも お菓子を焼くのか わが罪を 裁かれながらも ほほえみこらえず
2026年5月19日(火)
おはようございます。
ホセア書6:6 わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。
神さまは「愛」を喜ばれると言われます。
これは、神さまへの愛のことでしょうか。
それとも隣人を愛することでしょうか。
むろん、両方であって良いと思いますが、
「愛であって」と「神を知ることであって」が並行していますので、「神さまへの愛」の意味が強く感じられます。
この並行によって、同時に、「神を知る」とは「神を愛する」ことなのだと教えられます。
心のこもらない礼拝や献げものではなく、神さまを何よりも大切に思い、慕い求めることを、神さまはお喜びになるのです。
喜びは 金(きん)にはあらず 愛をこそ 切に望むと わが主の御言葉
2026年5月18日(月)
おはようございます。
ホセア書6:3 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。
「主を知ることを追い求めよう」という言葉には、「主を知ることを切に追い求めよう」ということと同時に「主を完全に知ることはできないけれども、知りたいと願い、知る努力をし続けよう」という響きを感じます。そのようなわたしたち人間の側の不確実性とそれゆえの切望が表現されているのではないでしょうか。
それに対して、神さまのお答えは確実です。
「主は曙の光のように必ず現れる」、朝日が昇らなかったことがないように、明日も朝日は必ず昇るように、神さまは必ずわたしたちの上に昇ってくださいます。
「降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように」、雨が空から降るように、朝日も空に昇るように、神さまは天からの恵みとしてわたしたちを訪れてくださいます。
春雨も 曙の陽(ひ)も 主の恵み 土を潤し 闇路を照らす
2026年5月17日(日)
おはようございます。
ホセア書6:1 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。6:2二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。
わたしたちの人生には、倒れてしまうこともあります。
引き裂かれるような思いをすることも、打ちのめされることもあります。神さまが試練を与えておられるように思えるときもあります。
いずれにせよ、神さまは、いやし、傷を包んでくださる、我々を生かし、立ち上がらせてくださる、とホセア書は言います。
打たれても 傷は包まれ 裂かれても お癒しくださる 主に生かされる
2026年5月16日(土)
おはようございます。
ホセア書5:14 わたしはエフライムに対して獅子となり/ユダの家には、若獅子となる。わたしは引き裂いて過ぎ行き/さらって行くが、救い出す者はいない。5:15 わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め/苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。
神さまから離れてしまったイスラエルに対する神さまの裁きは厳しく、獅子のようだと、ホセア書は言います。イスラエルを救い出す者はいない、と。
けれども、イスラエルみずからが罪を認めて、探し求めるなら、あるいは、神さまを見いだすことができるかもしれない、とも言っています。
さらには、神さまはホセアに「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」と命じ、ホセアは出かけて行ってその妻を買い取ったように、イスラエルの民を、神さまから探し求める、と言われるのです。
神さまに対するわたしたちの罪は、神さまに導かれ自分を省みればみるほど、どこまでも深いのですが、神さまはそのわたしたちを探し求め、赦し、受け入れてくださいます。
この坂を 上り詰めれば もう我が家 いや とうさんが 駆けおりてくる
2026年5月15日(金)
おはようございます。
ホセア書5:12 わたしはエフライムに対して食い尽くす虫となり/ユダの家には、骨の腐れとなる。5:13 エフライムが自分の病を見/ユダが自分のただれを見たとき/エフライムはアッシリアに行き/ユダは大王に使者を送った。しかし、彼はお前たちをいやしえず/ただれを取り去ることもできない。
神さまの厳しい裁きの言葉が続きます。
わたしたちは、どうしても自分中心で、どこまでも自分に固執します。
わたしたちがいくら「本当にその人のことを思って」と思っても、神さまはわたしたちの心の奥底にある「じつは自分のために」という思いを見抜かれます。
わたしたちがいくら「神さまを信頼している」と言っても、骨の髄にある「自分が自分が」という声を聞き逃されません。
わたしたちは、神ならぬ神、つまり、お金、財産、人間関係、自分の確信を根本の頼みにしようとします。しかし、それらのものは、わたしたちを根本から救うことはできないのです。
わたしたちの不安、孤独、飢え渇きを根本から癒やすことができるのは、神さまとその御言葉だけなのです。
インマヌエル この五文字こそ わが救い 主がともにいる 七音(ななおん)の幸(さち)
2026年5月14日(木)
おはようございます。
ホセア書5:10 ユダの将軍たちは国境を移す者となった。わたしは彼らに、水のように憤りを注ぐ。
イスラエルが北イスラエルと南ユダに分裂して以来、北から南への、また、南から北への武力攻撃は何度かあったようです。
また、それによって相手の領土を奪おうとしたこともあったようです。
神さまはそのことに対して、「水のように憤りを注ぐ」とホセア書は言います。
神さまはそのような行為を禁じておられるのです。
申命記27:17 「隣人との地境を動かす者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
出エジプト記20:13 殺してはならない。
世界中の戦争が終わり、日本が戦争の加害者にも被害者にもならないように、平和を求める祈りを日々深めましょう。
剣をば 鍬(くわ)に持ち替え 槍をこそ 鋤(すき)に打ち替え シャロームを祈る
2026年5月13日(水)
おはようございます。
ホセア書5:6 彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが/見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた。
神ならぬ神、偶像、お金、財産、地位、自分の思いをあたかも神であるからのように根本の頼みとする者が、形だけは、羊と牛を神殿に捧げて、神さまを礼拝しているようなことをしても、そこには、まことの神さまを見いだすことはできません。
「主は彼らを離れ去られた」とは、とても厳しい言葉ですが、わたしたちも、神さまを信じていると思っても、じっさいにはお金や地位や自分を信じているだけのことではないか、吟味する勇気があってもよいでしょう。その勇気のある人は、以下のイエスさまの言葉からじつに大きな救いを得ることでしょう。
ルカ15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」
いつわりの 道を行きて 迷う身を この世の果てまで 主は追い求める
2026年5月12日(火)
おはようございます。
ホセア書5:3 わたしはエフライムを知り尽くしている。イスラエルがわたしから隠れることはできない。まことに、エフライムは淫行にふけり/イスラエルは身を汚している。5:4 彼らは悪行のゆえに、神に帰ることができない。淫行の霊が彼らの中にあり/主を知りえないからだ。5:5 イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢だ。イスラエルとエフライムは/不義によってつまずき/ユダも共につまずく。
神さまは愛に満ちたお方です。けれども、わたしたちは、神さまのこのような厳しい言葉にも耳を傾けます。
神さまはわたしたちを知り尽くしておられます。わたしたちは神さまから隠れることはできません。わたしたちの「淫行」すなわち「偶像礼拝」、つまり、神さまではないものを神さまのようにしてしまっていることを見抜かれます。
わたしたちは、わたしたちの力では神さまのもとに帰ることができません。わたしたちの中には「淫行の霊」、パウロの言葉で言えば「肉の欲望」(ガラテヤ書5:16)が強いからです。これは、色欲、食欲、権力欲、名誉欲、所有欲だけのことではなく、なによりも我欲のことです。わたしたちの中で、我欲でないものなど何もありません。
ホセア書は、北イスラエルだけでなく南ユダも同じだと言います。
つまり、わたしには罪がない、わたしが信じているものは偶像ではない、などとは誰も言えないのです。
それにも関わらず、神さまはわたしたちを探し求めてくださいます。わたしたちは神さまによる罪の指摘から「隠れることはできない」(ホセア5:3)ですが、どこまでも探し求めてくださる神さまから「隠れることもできない」のです。
神さまはわたしたちの罪を「知り尽くして」(ホセア5:3)おられますが、わたしたちの苦しみも痛みも孤独も不安も「知り尽くして」おられ、どこまでも探し求めてくださいます。
わが罪を どこまでも知り わが魂(たま)を どこまでも追う わが神の愛
2026年5月11日(月)
おはようございます。
ホセア書4:16 まことにイスラエルは/強情な雌牛のように強情だ。どうして主は、彼らを小羊のように/広い野で養われるだろうか。4:17 エフライムは偶像のとりこになっている。そのままにしておくがよい。4:18 彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね/恥知らずなふるまいに身をゆだねている。
イスラエルの民が偶像を崇拝する姿は、強情であり、小羊のように広い野で羊飼いに養われることはない、とホセア書は告げています。
偶像のとりこになっていると。しかも、酔いしれていて、それに気付かず、偶像崇拝を続けると。
わたしたちはどうでしょうか。たしかに、神さまを信じています。それは、嘘偽りのないこと、とうといことです。
しかし、そこに、お金、地位、自分を過度に信じてしまう罠が潜んでいないでしょうか。
わたしたちはそれになかなか気付かないのです。
偽物を わが心から 去らせたまえ わがこだわりを 打ち砕きたまえ
2026年5月10日(主)
おはようございます。
ホセア書4:12 わが民は木に託宣を求め/その枝に指示を受ける。淫行の霊に惑わされ/神のもとを離れて淫行にふけり 4:13 山々の頂でいけにえをささげ/丘の上で香をたく。樫、ポプラ、テレビンなどの木陰が快いからだ。お前たちの娘は淫行にふけり/嫁も姦淫を行う。
自分で決断することには、ふたつの道があるのではないでしょうか。
ひとつは、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ」をともなう「肉の業」(ガラテヤ5:20)です。「利己心」に似ていますが、ここに「我執」も加えるとよいと思います。パウロはこれらをまとめて「偶像礼拝」(5:20)と呼んでいます。ホセア書で神さまが問題にしている偶像礼拝です。「肉の業」とは、「自分への執着」と言ってもよいでしょう。あるいは、自分に執着するための神ならぬ神への執着と言ってもよいでしょう。
もうひとつは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制」をともなう「霊の結ぶ実」(5:22-23)です。ここに「譲歩」「謙遜」「敬意」「他者尊重」などを並べても、不自然ではありません。「霊の結ぶ実」とは「まことの神さまへの明け渡し」と言ってもよいでしょう。
上に挙げたホセア書の中にある「木に託宣を求める」「その枝に指示を受ける」「淫行の霊に惑わされる」「淫行にふける」「姦淫を行なう」とは「肉の業」「自分への執着」「自分に執着するための神ならぬ神への執着」と言い換えることができるでしょう。
わたしたちは、これから離れ、厳密な意味でこれから離れることを祈り求め、自分を調べ、自分の中心を神さまにお譲りいたしましょう。
この体 敵意争い 追い出して 愛と喜び お迎えします
2026年5月9日(土)
おはようございます。
ホセア書4:10 彼らは食べても飽き足りることなく/淫行にふけっても/子孫を増やすことができない。彼らは淫行を続け/主を捨て、聞き従おうとしなかったからだ。4:11 ぶどう酒と新しい酒は心を奪う。
お金や財産や名誉や人脈や自分の知識や能力や満足感を、神さまの代わりに、自分の根本の支えとしようとしても、わたしたちは満たされることはありません。
お金も誉れも、得れば得るほど、もっと欲しくなるからです。
それらは、わたしたちの心を奪い、神さまから引き離してしまいます。
しかし、神さまとその御言葉は、わたしたちを満たしてくださいます。
マルコ6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。6:42 すべての人が食べて満腹した。
わたしたちの心の飢えを、ほんとうに満たしてくださるのは、神さまとイエスさまの愛とその御言葉です。
食べ放題 増えるは目方と 後悔のみ 主の歌こそは 我をも満たす
2026年5月8日(金)
おはようございます。
ホセア書4:6 わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる。お前が知識を退けたので/わたしもお前を退けて/もはや、わたしの祭司とはしない。お前が神の律法を忘れたので/わたしもお前の子らを忘れる。
預言者ホセアは神さまの厳しい言葉を伝えます。
わたしたちは神さまのことを知りたいと願っていますが、つねにあらたな気持ちで知ろうとしているでしょうか。慣れ親しんだ言葉であれば、これまでと同じように受け取るだけで、そこから新しいものを聞こうとしているでしょうか。
自分が正しいと思う読み方を確認するだけで、気付かなかった読み方、気付かなかった神さまの恵みをそこに聞き取ろうとしているでしょうか。
神さまを知る、神さまの言葉を聞くということは、情報を得るということではなく、味わうということです。
一度味わった御言葉を、この味はもう知っていると思い込むのではなく、今度はより深く味わう、あらたな味わいを見いだす、そのような味わい方が大切でしょう。
風は澄み 新しい音 聞こえ来る いくたび奏でた この五線譜から
2026年5月7日(木)
おはようございます。
ホセア書4:1 主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも/神を知ることもないからだ。4:2 呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり/流血に流血が続いている。4:3 それゆえ、この地は渇き/そこに住む者は皆、衰え果て/野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される。
この言葉は、2800年前のイスラエルの人々だけでなく、現代世界の諸国家と国民に、神さまが、熱いお心で語りかけておられるのではないでしょうか。
さらには、キリスト教会も神さまのこの言葉をしっかり聞く必要があるでしょう。なぜなら、わたしたちが隣人や家族に向ける誠実さは慈しみはとても美しいものでありながら、とても自己中心的なものであるからです。なぜなら、わたしたちは「神を知る」ようで、そこにはわたしたちの思い込みや願望を忍び込ませているからです。
わたしたちは、悲観的にも自虐的にもなるべきではありませんが、神さまの前で、神さまがわたしたちの偽りを教えてくださることにおゆだねしたいと思います。
けれども、さらに大事なことは、神さまはわたしたちを裁き捨てるのではなく、むしろ、わたしたちをどこまでも愛し、追いかけ、赦し、深く憐れんでくださるということです。
わが嘘を わが偽りを 露わにし さらの浴衣を 主は着せたもう
2026年5月6日(水)
おはようございます。
ホセア書3:3 わたしは彼女に言った。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」3:4 イスラエルの人々は長い間、王も高官もなく、いけにえも聖なる柱もなく、エフォドもテラフィムもなく過ごす。3:5 その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく。
神ならぬ神、偶像を崇拝していたイスラエルの民は、それをやめ、ただ、まことの神、自分が造りだしたのではない神、自分の考えによるのではない神、愛の神に仕えるように促されます。
そして、神さまも、いや、まことの神さまこそが、わたしたちの手を取り、けっして離さない、と言われるのです。
バビロン捕囚での生活は厳しいものでしたが、そこは、まことの神さまのことだけを思い、まことの神さまに立ち返る期間でもありました。
イスラエルの民は、やがて、バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還して、自分たちを捨てないまことの神に仕え、まことのメシアの到来を求めるようになりました。
そして、御国を来たらせたまえと、神さまの救いが完成する日を希望をもって祈り求め、どこまでもわたしたちを愛してくださるという、神さまのまことの恵みを、深い畏れをもって、この手にいただくのです。
主の許(もと)に とどまりつづけよ 汝(な)が手をば つかみて離さぬ まことの主なれば
2026年5月5日(火)
おはようございます。
ホセア書3:1 主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」
あなたの誠実さを裏切って、つれあいが不実を働いても、つれあいへの誠実さを貫け、と神さまは言われます。
それは、神さまご自身がそうなさるからです。
すなわち、イエスラエルの民は、神さまに背を向けて、神さまでないもの(お金、力、人脈、自分の思考)を根本の支えとしてしまうけれども、神さまはそれでもイスラエルの民を愛し抜かれるからです。
同じように、わたしたちも、主よ、主よ、と言いながら、ほんとうは神さまでないものを神さまのように頼ってしまっていますが、それでも、神さまはわたしたちを愛し抜いてくださるのです。
不実なる 我が身なれども どこまでも 誠実な主に 愛し貫かれる
2026年5月4日(月)
おはようございます。
ホセア書2:23 その日が来れば、わたしはこたえると/主は言われる。わたしは天にこたえ/天は地にこたえる。2:24 地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ/それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。2:25 わたしは彼女を地に蒔き/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ/ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって/「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。
「あなたを憐れむ」「あなたを愛する」「あなたを見捨てない」という神さまの声が宙に響きます。
宙はその声を大地にこだまさせます。
大地はその声を、穀物、酒、オリーブ油、花、草に響かせます。
地の産物は、「神さまが種をまいてくださった」と合唱します。
かつて「ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)」と呼ばれた者を、神さまは憐れみます。愛します。
かつて「ロ・アンミ(わが民でない者)」と呼ばれた者を、神さまは、いまや、「わが民」と呼びます。
その民は、神さまに「わが神よ」とこたえます。
かくして、神さまの愛の声と、それへの感謝、賛美が天と地と人に響き渡ります。
「わが民」「わが神」という声が世界に響きます。
あなたこそ わが愛し子と 声響く 主をたたえよと 賛美は満ちる
2026年5月3日(日)
おはようございます。
ホセア書2:21 わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び/正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。2:22 わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる。
神さまは、ご自分から離れたイエスラエルの民ととこしえの契りを結ばれました。
それは、神さまはイスラエルに、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ、という約束です。
しかも、これは、神さまの以下の言葉にあるように、神さまの一方的な愛による約束です。
「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように」(3:1)
この神さまの一方的な愛は、この時のイスラエルの民だけに向けられたものではなく、神さまに背き、神さまを信頼しきれない、わたしたちすべての人間への神さまの愛ではないか、とわたしは考えます。
神さまはすべての人を無条件に愛しておられる、とわたしは思います。
いさおなき われをも愛す 慈しみ とわの憐れみ そのかたじけなさ
2026年5月2日(土)
おはようございます。
ホセア書2:19 わたしは、どのバアルの名をも/彼女の口から取り除く。もはやその名が唱えられることはない。2:20 その日には、わたしは彼らのために/野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。弓も剣も戦いもこの地から絶ち/彼らを安らかに憩わせる。
バアルとは物質的富への願望と結びついた偶像のことで、イスラエルの民は神さまを離れてこちらになびきがちでしたが、神さまはそのような偶像崇拝から民を救い出すと言われます。
物質的富への欲望はときに戦争を招きますが、まことの神さまを信頼するのであれば、「弓や剣や戦い」もなくなります。
また、「野の獣、空の鳥、土を這うもの」といった自然界の生物との間にも平和が生まれます。
以下のような聖句も思い出されます。
イザヤ書11:6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。11:7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。11:9 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。
マルコ1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
いつわりの 神の名はなく 剣(つるぎ)なく 獅子は草食み(くさはみ) 平和みなぎる
2026年5月1日(金)
おはようございます。
ホセア書2:18 その日が来ればと/主は言われる。あなたはわたしを、「わが夫」と呼び/もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。
わたしたちは、神さまのことを「わが主」(ヘブライ語でアドーナイ)と呼びます。「わが」をつけずに「主」だけですと、「アードーン」です。
これに対し、上の「わが主人」の主人は「バアル」です。
アドーナイはヤハウェの神さま、アブラハム・イサク・ヤコブ、モーセ、ダビデらを導いた神さま、そして、イスラエルの民を導いた神さまですが、バアルは富や利益崇拝とつながる偶像の名前です。
つまり、「あなたはわたしを、「わが夫」と呼び、もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない」とは、偶像崇拝から離れ、ただ神さまにお仕えする、ことを意味します。
バアルは「主人」として人間を「奴隷」にして支配する偶像ですが、まことの神さまは「わが夫」つまり家族としてともに歩んでくださるお方であることがここでは強調されています。
ファラオにも ネロにもあらず わがエスの その頭(こうべ)には 荊(いばら)の冠(かんむり)
2026年4月30日(木)
おはようございます。
ホセア書2:16 それゆえ、わたしは彼女をいざなって/荒れ野に導き、その心に語りかけよう。2:17 そのところで、わたしはぶどう園を与え/アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったとき/エジプトの地から上ってきた日のように。
神さまはご自分から離れたイスラエルの民を荒れ野に導き、その心に語りかけます。民が神さまに立ち返るためです。
ホセアより何百年も前、エジプトでファラオに支配されていた民を神さまは導き出しますが、ただちに約束の地に連れて行くのではなく、民は40年荒れ野を旅することになります。民の神さまへの信頼は十分ではなく、40年はそれが養われる期間でもあったのです。
わたしたちも、人生において、試練に遭う時があります。それは、かならずしも、神さまへの背き故のことではありません。十分に神さまに信頼して生きてきても、試練は訪れます。イエスさまの荒れ野の経験も、神さまへの背き故のことではありませんでした。試練は、神さまへの信頼がさらに増し加えられる時でもあるのです。
突然の 荒野の道に とまどえど ひとりではない イエスと歩む
2026年4月29日(水)
おはようございます。
ホセア書2:8 それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ/石垣で遮り/道を見いだせないようにする。2:9 彼女は愛人の後を追っても追いつけず/尋ね求めても見いだせない。そのとき、彼女は言う。「初めの夫のもとに帰ろう/あのときは、今よりも幸せだった」と。
イスラエルの民は、神さまではないものを追い求めますが、結局は、それに到達することはできません。
神さまが守ってくださるからです。
そして、まことの神さまのところに帰る、という思いを神さまから与えられます。
イエスさまの放蕩息子のたとえでも、息子はお金やぜいたくな生活に満足を求めますが、そこには救いはなく、父の元に帰ろう、という思いを与えられます。
わたしたちも、神さまを根本の頼みにしているようで、じつは、それ以外のものに強く依存していないか、じつは、自分の思いにしがみついていないか、つねに自分を点検し、つねに、神さまご自身のお言葉、御心に立ち返りたいと願います。そうすれば、神さまの方から駆け寄ってきてくださいます。
風が吹く 声が聞こえる 帰るんだ 百合咲く丘の なつかし家に
2026年4月28日(火)
おはようございます。
ホセア書2:7 その母は淫行にふけり/彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。彼女は言う。「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻/オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」
イスラエルの民は、神さまではないものに全面的に頼ってしまったり、権力や経済力によって弱者を虐げたり、エジプトやアッシリアといった大国に頼ったりして、神さまから離れてしまいました。
ホセアはこれを「淫行」「恥ずべきこと」と言い、神さまでないもの、権力や経済力、大国を「愛人」と言い表しています。
わたしたちは、どうでしょうか。口では、神さま、神さま、と言いながら、自分でも気付かないような心の奥底では、お金や地位、自分の考え、この世的に価値があるとされるものに、いちばん頼ってしまっていないでしょうか。自分で作り上げた偶像にこそ頼ってしまっていないでしょうか。
けれども、わたしたちの根本の頼みは、偶像ではなく、神さまです。わたしたちのまわりやわたしたちの中にあるあらゆる偶像から離れ、聖書とイエス・キリストにおいてご自身をお示しになった神さまに繰り返し立ち返りましょう。
我が我を 打ち壊したまえ 我が神よ 建て直したまえ ただあなただけを
2026年4月27日(月)
おはようございます。
ホセア書2:4 告発せよ、お前たちの母を告発せよ。彼女はもはやわたしの妻ではなく/わたしは彼女の夫ではない。彼女の顔から淫行を/乳房の間から姦淫を取り除かせよ。2:5 さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし/生まれた日の姿にして、さらしものにする。また、彼女を荒れ野のように/乾いた地のように干上がらせ/彼女を渇きで死なせる。
ここでは、神さまに背くイスラエルの民の様(さま)が、「淫行」「姦淫」という言葉で言い表されています。
妻に対して不実を働く夫ではなく、夫に対して不実を働く妻が、神さまに背くイスラエルのたとえに用いられていることには、この時代の男性やホセアの持つ女性観、そして、現代の男性を含むわたしたち人間の言語や思考の限界を示しているのではないでしょうか。
けれども、ホセア書で、イスラエルの民が(そして、わたしたちが)神さまに根本の信頼を置かず、神さまでないこの世的なものに必死にすがろうとする姿が指摘されていること、そして、それにもかかわらず、神さまはわたしたちを見捨てず、呼び求めてくださることが、あきらかに示されていることは、きわめて大切です。これは、イエス・キリストによって、頂点に達します。
不誠実 隠しきれない 我なれど 主は赦したもう 駆け寄りたもう
2026年4月26日(主)
おはようございます。
ホセア書1:6 彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。「その子を/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず/彼らを決して赦さないからだ。
1:8 彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。
1:9 主は言われた。「その子を/ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。あなたたちはわたしの民ではなく/わたしはあなたたちの神ではないからだ。」
ホセアはゴメルと結婚し、子が与えられます。
神さまはその2番目の子にロ・ルハマ(憐れまれぬ者)、3番目の子にロ・アンミ(わが民でない者)と名付けるように言います。この名前は、イスラエルの民が神さまから離れてしまったことを象徴しているようです。
しかし、神さまはやがてイスラエルの民を赦し、次のように言われます。
2:3 あなたたちは兄弟に向かって/「アンミ(わが民)」と言え。あなたたちは姉妹に向かって/「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。
わたしたちは、自分が否定されているように、神さまに愛されていないように思ってしまうことがありますが、神さまは、じつは、わたしたちを否定せず、愛しておられるのです。
だめ印 一枚一枚 はがしては その傷口に 星印貼る
2026年4月25日(土)
おはようございます。
ホセア書1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」
紀元前1000年頃、ダビデの王国が栄えますが、紀元前930年頃、それは北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。そして、ホセアはその200年後の北イスラエル王国の預言者です。
神さまはホセアに、不誠実な妻を受け入れよ、と言います。
不誠実な妻の姿は、神さまから離れてしまった北イスラエル王国の指導者や民の姿と重なります。
つまり、神さまはそのような神さまに背くイスラエルの民を見捨てず迎え入れる、と言われるのです。
これは、不誠実などどうでもいい、構わない、ということではありません。
それは、厳しく暴かれ、指摘され、問われます。
それにもかかわらず、神さまはわたしたちを裁き捨てず、見捨てず、ともに歩んでくださる、というのです。
放蕩の 子どもを迎え 淫行の 人をも捨てぬ 神はとことん
2026年4月24日(金)
おはようございます。
イザヤ書66:22 わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。
神さまは、大地と海、空、つまり、わたしたちが生きる世界を創造してくださいました。
また、そこに生きるわたしたちと先祖、そして、子孫を創造してくださいます。
しかし、世界は、ときに、破滅的な状態に陥ったり、自ら悪に染まっていったりしてしまいます。
わたしたちも、また、ときに、打ちのめされたり、自ら神さまから離れたり人を憎んだりしてしまいます。
けれども、神さまは、わたしたちの世界を新しく創り直してくださいます。
わたしたち自身を、再び起き上がらせ、新しく創り変えてくださいます。
神さまは、古いわたしたちと古い世界を、新しく創造してくださいます。
冬枯れの 野に一面の 百合は咲き うつむいたあの 子は起き上がる
2026年4月23日(金)
おはようございます。
イザヤ書66:12 主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。66:13 母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。
聖書では、神さまは「父」と呼ばれることが多いのですが、ここでは、神さまの慰めが「母」の慰めにたとえられています。
バビロニアで捕囚とされていたユダの民はエルサレムに帰還し、町と神殿の再建が始まります。
平和でなければ、それはできません。
民の心に平安が宿ります。
平和も平安も、神さまのシャロームです。
神さまのシャロームは、子どもが母の胸に抱かれ、膝の上であやされる平安にたとえられます。
母の胸 ねむりてねむり シャロームの なみなみと満つ おおかわのごと
2026年4月22日(水)
おはようございます。
イザヤ書66:10 エルサレムと共に喜び祝い/彼女のゆえに喜び躍れ/彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。
バビロニアに捕らわれていた民は解放され、バビロニアに滅ぼされたエルサレムの都は、いまや、回復されます。
喪の悲しみは、婚姻の喜びへと変えられます。
この喜びは、新約聖書に引き継がれます。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21:3-4)。
神さまは、わたしたちの悲しみを主にある喜びに、喪を祝宴に変えてくださいます。
その日を信じて、希望を持って、待ちましょう。
その日の喜びを、御言葉と祈りによって、今日、ここに、先取りさせていただきましょう。
喜怒哀楽 私の怒と哀 包むのは 天の喜び 賛美の楽の音(ね)
2026年4月21日(火)
おはようございます。
イザヤ書66:1 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。66:2 これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。
神さまは、人間の建てた神殿や教会の建物におられるだけでなく、天を椅子とし、地に足を置かれます。
宇宙レベルのこの大きな大きなお方が、苦しみ、心が張り裂け、ただ御言葉の前で静まる、小さなちいさなわたしたちを顧みてくださいます。
何億光年 サイズの宙(そら)に わたる主は 隅にうつむく われを喜ぶ
2026年4月20日(月)
おはようございます。
イザヤ書65:19 わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。65:20 そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。
バビロニア帝国に国を滅ぼされ捕囚の身となったユダの民は、神から見捨てられたのだと非難を受けたり、神さまから罰を受けているのだと反省をしたりしたようですが、神さまは、いま、その民を「喜び」と「楽しみ」とすると言われます。
民の泣き声、叫び声は、いまや、喜びと感謝の歌声と変えられます。
戦争や暴虐によって早く死んでしまう人もいなくなるでしょう。
誰もが神さまから与えられた生を祝福のうちに生き抜くことができるでしょう。
挫折をも 再起と変える 主の復活 哀しい歌は うるわしの賛美に
2026年4月19日(日)
おはようございます。
イザヤ書65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。65:18 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。
神さまは新しい天と新しい地を、そして、新しい民を創造すると約束してくださいました。
これは、新しい世界、新しい人類が別に創られる、ということではなく、わたしたちとわたしたちが生きているこの世界がまったく新しく創り変えられるということです。
たとえ、今わたしたちが苦しんでいても、わたしたちのまわりに様々な問題があっても、神さまは、わたしたちとわたしたちのまわり=世界をまったく新しくしてくださるのです。
苦しかったこれまでとはまったく違う新しい生き方を神さまは用意してくださるのです。
古き世を 新しき世に 変えたもう 主はわたしをも ふたたび起こす
2026年4月18日(土)
おはようございます。
イザヤ書62:11 見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。62:12 彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ/あなたは尋ね求められる女/捨てられることのない都と呼ばれる。
娘シオンとはエルサレムの都のことで、また、ここでは、そこの民をも指すのでしょう。
バビロニアに滅ぼされたエルサレムの都は荒廃します。
しかし、いまや、今度はバビロニアが滅ぼされ、エルサレムからバビロニアに連れ去られた民の子孫は解放され、それに伴い、エルサレムが神の都として復興すると、イザヤは預言するのです。
民は、もはや、「捨てられた民」ではなく、むしろ、神さまはこの民を「尋ね求め」「贖って」くださるというのです。
わたしたちも、神さまから見捨てられたのではないかと思うくらいに苦しいことがありますが、神さまはわたしたちを見捨てられたのではなく、むしろ、苦しむわたしたちを「尋ね求め」「贖って」(救い出して)くださるのです。
見捨てない 地の果てまでも 探し出す 牧者は我の 一推(いちお)しなれり
2026年4月17日(金)
おはようございます。
イザヤ書62:8 主は、御自分の右の手にかけて/力ある御腕にかけて、誓われた。わたしは再びあなたの穀物を敵の食物とはさせず/あなたの労苦による新しい酒を/異邦人に飲ませることも決してない。62:9 穀物を刈り入れた者はそれを食べて、主を賛美し/ぶどうを取り入れた者は/聖所の庭でそれを飲む。
わたしたちの収入は、結局は神さまからいただいたものです。わたしたちはこれの大部分を自分たちの生活のために用い、また、神さまにおささげし、あるいは、隣人とわかちあいます。
けれども、これが誰かから力尽くで奪われるようなことがあってはなりません。
イザヤによれば、バビロンで捕囚の身となったユダの民は、そこから解放され、エルサレムに帰還します。
もはや、神さまからいただいたものを、バビロニアの支配者から奪われることなく、これからは、それを賛美とともに神さまにおささげし、隣人とわかちあい、自分の糧とすることができるのです。
主からの恵みを、感謝とともに主におささげし、感謝をもって毎日の衣食住に用い、感謝しながら隣人とわかちあうことが、わたしたちにも許されています。
感謝します 日々の糧とし わかちあい 主にお返しする 天よりの恵み
2026年4月16日(木)
おはようございます。
イザヤ書62:6 エルサレムよ、あなたの城壁の上に/わたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。主に思い起こしていただく役目の者よ/決して沈黙してはならない。62:7 また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり/エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。
祈りは、わたしたちが語り、神さまに聞いていただく、と同時に、神さまが語ってくださり、わたしたちが聞くことです。
御言葉においても、それは、神さまが語ってくださり、わたしたちが聞く、と同時に、わたしたちが語り、神さまに聞いていただくことでもあります。
神さまの恵み、救いは、神さまからの一方通行ですが、祈りや御言葉は双方向であり、そこには、コミュニケーションがあります。
預言者イザヤは、わたしたちは沈黙してはならないし、神さまも沈黙なさらない、と言います。
この場合の「沈黙」は「言葉がない」ということよりも「交わりがない」ということでしょう。
神さまとの双方向の交わり、コミュニケーションは、呼吸のようでもあります。
神さまが息を送ってくださり、わたしたちはそれを吸います。
わたしたちは、息を吐き、神さまはそれを受け止めてくださいます。
ここには「沈黙」「断絶」ではなく、息が通い合っています。
吸えば吐き 吐けば吸うたび 深まりぬ 神の御言葉 静けき祈り
2026年4月15日(水)
おはようございます。
イザヤ書62:5 若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる。
聖書全体を見渡しますと、親が子を待つ、羊飼いが羊を探す、友のために命を捨てる、一番最後に雇った者から賃金を払う、というような表現も見られますが、ここでは、「若者がおとめをめとる」という比喩が用いられています。
そして、これが言い表していることは、「あなたを喜びとする」、あなたを大切にする、ということです。
神さまはわたしたちをご自分の喜びとしてくださるのです。
神さまの楽しみは何かと言えば、わたしたちなのです。
そして、その神さまは、わたしたちを「再建」してくださいます。
わたしたちが、倒れても、また倒れても、その都度、神さまは建て直してくださいます。
神さまは、「あなたはわたしの喜び」と言いながら、いくどでも、いくどでも、わたしたちを起き上がらせてくださいます。
七転び しようと七度 起こされる わが喜びよ との声がする
2026年4月14日(火)
おはようございます。
イザヤ書62:3 あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。62:4 あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく/あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ/あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ/あなたの土地は夫を得るからである。
ユダの民はバビロンで捕囚の身になりましたが、人生には、そのように「神さまから見捨てられた」と言いたくなるような苦しいことが起こります。イエスさまも十字架上で「わが神、なにゆえ我を見捨てたもう」と叫ばれました。
あるいは、自分の人生は荒廃している、荒れ果てている、と思ってしまうようなことも起こります。
しかし、神さまはかならずそこから救い出してくださいます。
わたしたちは、捨てられたのでもなければ、荒廃しているのでもありません。
神さまはわたしたちを「望ましい」者、愛しい者と思ってくださり、わたしたちを捨てず、むしろ、どこまでもいっしょにいらしてくださるのです。
神さまはわたしたちを御手の中においてくださり、宝石のように大切にしてくださいます。
十字架の エリエリレマの 絶望に インマヌエルの ファイナルアンサー
2026年4月13日(月)
おはようございます。
イザヤ書61:10 わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。61:11 大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
わたしたちは、喜びや楽しみを神さま以外のものに求めてしまいがちですが、わたしたちの根本の喜び、根本の楽しみは、神さまから与えられるものです。わたしたちは、喜びや楽しみの根本を神さまに求めましょう。
神さまはわたしたちの求めに答えてくださり、いや、わたしたちが求める前から、喜びと楽しみを備えてくださいます。
神さまはインマヌエル(「神さまがわたしたちとともにおられる」)の衣をわたしたちに着せてくださり、アガペー(「わたしはあなたを無条件で愛する」)の冠をかぶせてくださいます。
春。いま、目の前の原には緑の草が波打ち、向こうの丘は緑の木立を膨らませています。
それと同じように、「すべての民」に神さまは「恵みと栄誉を芽生え」させてくださいます。
全地には 草の芽萌えて 頭(こうべ)には 輝く冠 すべての民に
2026年4月12日(主)
おはようございます。
イザヤ書61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。61:4 彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
神さまは、わたしたちの嘆きを喜びに、暗い心を賛美に変えてくださいます。
そして、わたしたちは、廃墟を建て直し、荒廃したものを再興するために用いられます。
つまり、神さまは、わたしたちを、闇から光へと導き出してくださいますから、今度は、わたしたちが、神さまの器として、神さまの光を反射して、闇を照らすように用いられるのです。
泣き声は 歌声になる イースター 夜明けの星の バックコーラス
2026年4月11日(土)
おはようございます。
イザヤ書61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
「捕らわれ人には自由を」「つながれている人には解放を」とありますので、バビロンで捕囚の身とされている人びとに、預言者が、神さまがそこから解放してくださるという「良い知らせ」を告げる場面が想像されます。
この何百年かのち、イエスさまはナザレの会堂でイザヤ書を読んだ、とルカ福音書は報告しています。
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
イエスさまも、また神さまの霊に導かれて、貧しい人、捕らわれている人、障がいを抱える人、抑圧されている人に、神さまの救いと恵み、喜びの知らせ(福音)を伝えました。
イエスさまは、苦しんでいるわたしたちやわたしたちの家族にも、福音、苦しみからの解放をもたらしてくださることでしょう。
降り続く 雨も止むよと イェスの声 レイニーブルーは スカイブルーに
2026年4月10日(金)
おはようございます。
イザヤ書60:21 あなたの民は皆、主に従う者となり/とこしえに地を継ぎ/わたしの植えた若木、わたしの手の業として/輝きに包まれる。60:22 最も小さいものも千人となり/最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。
「とこしえに地を継ぐ」とありますが、これは「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)というイエスさまの言葉を思わせます。
この「柔和な」は「へりくだった」とも訳され、「心の貧しい」(マタイ5:3)や「悲しむ」(マタイ5:4)とともに、イザヤ60:22の「最も小さいもの」「最も弱いもの」と響き合っているように思われます。
つまり、イザヤ60:21ー22は、バビロンで捕囚となった民がいまや解放されエルサレムに帰ってくることを示しているように考えられますが、同時に、神さまは、小さな人々、弱い人々、苦しむ人々を顧みられるという旧約、新約を貫くテーマに即しているのではないでしょうか。
神さまは、この世的には高い立場になく、人の目には優れているとは見られず、自分でもなんと情けないと思うわたしたちをこそ、とうとい、値高い、と愛してくださるのです。
聖書の神さまは、優秀な者を大事にする神さまではなく、罪人を愛してくださる神さまです。
一番なら 一番下か 最後が良い イエスはそこに いつもおられる
2026年4月9日(木)
おはようございます。
イザヤ書60:19 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。60:20 あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。
太陽は沈み、月は欠け、人は時に去りますが、神さまという光は、沈むことも、欠けることもありません。
永遠に輝き、いつもわたしたちを照らしてくださいます。
神さまこそが、わたしたちのまことの太陽であり、まことの月、まことの光なのです。
わたしたちは嘆く必要はありません。
わたしたちには、光があり、希望があり、喜びがあるのです。
日は沈み 月は欠けても とこしえの 光なる主が あなたを照らす
2026年4月8日(水)
おはようございます。
イザヤ書60:17 わたしは青銅の代わりに金を/鉄の代わりに銀をもたらし/木の代わりに青銅を/石の代わりに鉄をもたらす。わたしがあなたに与える命令は平和/あなたを支配するものは恵みの業。60:18 あなたの地は再び不法を耳にすることなく/破壊と崩壊は領土のうちから絶える。あなたの城壁は「救い」と/城門は「栄誉」と呼ばれる。
青銅ではなく金、鉄ではなく銀、木ではなく青銅、石ではなく鉄とは、バビロニア帝国による不法な支配ではなく神さまによる平和を、帝国による破壊ではなく神さまによる恵みの業を、軍隊による城壁や城門の崩壊ではなく神さまによる「救い」と「栄誉」を、ということではないでしょうか。
わたしたちの上にも同じことが起こるでしょう。
挫折から再起、絶望から希望、怒りから平安、攻撃から和解、裁きから赦し、戦争ではなく平和、差別ではなく共生、永久の死ではなく永遠のいのち、滅びではなく救いを、イエス・キリストがもたらしてくださることでしょう。
爆音は 歌声となる 春の朝 枯れ木に花咲き 伏せ人(びと)は起きる
2026年4月7日(火)
おはようございます。
イザヤ書60:15 かつてあなたは捨てられ、憎まれ/通り過ぎる者もなかったが/今、わたしはあなたをとこしえの誇り/代々の楽しみとする。
「かつて」と「今」の違いは、「捨てられ、憎まれ」と「誇り」「楽しみとする」との違いだけにあるのではなく、誰がそうするのか、という点もとても重要です。
つまり、「かつて」あなたは「人々に」捨てられ、憎まれたが、「今」あなたは「神さまに」誇りとされ、楽しみとされる、と言うのです。
これまでは、人々がわたしたちに向ける視線、人々がわたしたちに向ける言葉ばかりを気にし、それに傷つけられていたが、これからは、神さまがわたしたちを愛し大切に思ってくださることに気付いて、神さまのまなざしと御言葉に支えられて生きていきなさい、と言うのです。
人々に 数えられない 者なれど 主の目にわれは 喜びとなる
2026年4月6日(月)
おはようございます。
イザヤ書60:3 国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。60:4 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。60:5 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。60:6 らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
「黄金と乳香」という言葉は、イザヤの数百年後のイエス・キリストの誕生を連想させます。
諸々の国々の民が宝や富を携えて、エルサレムに集まってきて、「主の栄誉」が宣べ伝えられるとは、神さまこそが世界の王であることの宣言であり、これも、イエス・キリストの「神の国は近づいた」という宣言を想い起こさせます。「神の国」とは「神さまが王である国」「神さまが王としてお治めになる」ということです。
世界は王や大統領や総理大臣や政治家や富豪、権力者によって治められているように見え、そこには、戦争があり、貧富の格差があり、差別があり、生きている人びとの苦しみがありますが、そのような世界の中で、聖書は、神さまこそがこの世界を治めておられる、神さまこそがすべての人の王である、と教えてくださいます。
この世の苦しみ、不条理にあっても、この世界を本当に治めておられるのは神さまだ、神さまは力ではなく愛で治めてくださる、神さまの愛は世界中のすべての人びとに注がれている、わたしたちも神さまに愛されている、わたしたちの知らない人びとも神さまに愛されている、と信じて、この世界で与えられた命を精一杯生き抜きましょう。
そして、この世界の旅を終えたときは、世界のまことの王である神さまが、わたしたちを永遠のいのちの内に受け止めてくださることを信じましょう。
王の王 王ならぬ王 愛の王 死を乗り越える いのちの王なり
2026年4月5日(主)
主の復活、おめでとうございます。
イザヤ書60:1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。60:2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。
世界では戦争や災害が続き、人びとの命と生活が損なわれています。
わたしたちも、家族、健康、仕事、人間関係など、なかなか解決しない苦しみを負っています。
まさに、「闇に覆われ」「暗黒に包まれて」います。
けれども、ここに光が輝き出ます。
神さまです。
イエス・キリストは、十字架で死に、暗い墓に放り込まれていました。
けれども、光が昇り、闇に差し込み、キリストは復活なさいました。
主がキリストを暗闇から導き出してくださいました。
これは、世界とわたしたちもこの闇から救い出される希望です。
神さまは墓に横たわっていたイエス・キリストを起き上がらせてくださいました。
神さまは、世界とわたしたちも起き上がらせてくださいます。
長い夜に 終わりをつげし 光あり イェス起き上がり ガリラヤに行く
2026年4月4日(土)
おはようございます。
イザヤ書58:9 あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら 58:10 飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。
神さまはわたしたちの光です。
わたしたちが「神さま」と呼べば、神さまは「わたしはここにいる」とお答えくださいます。
わたしたちが、人を縛り付けたり、指を指したり、悪口を言ったりするのをやめて、飢えている人に心を配り、苦しめられている人と祈りをともにするなら、神さまは、闇の中で光となり、闇を光に変えてくださいます。
明日の朝は、イースター、イエス・キリストは闇から光へと復活してくださいます。神さまは闇を光と変えてくださいます。
十字架につけられた直後の闇、金曜日の闇、夕べの闇は、イエス・キリストがわたしたちの闇まで降りてきてくださる闇でした。
そして、今夜の闇、土曜日の闇は、日曜日の朝の復活に続く闇なのです。
いつまでも 終わらないのか この闇は いや友よ見よ 夜明けは近い
2026年4月3日(金)
おはようございます。
イザヤ書58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。
聖書において、断食には、悔い改め、嘆きと悲しみの表現、神への切実な祈り、自己否定とへりくだり、というような意味があると考えられます。
2026年においては、今日(4月3日)は、イエス・キリストの十字架にわたしたちの心を寄せる金曜日であり、わたしたちの罪を悔い改め、わたしたちの罪の故に神さまを悲しませ、人びとを傷つけていることを告白し、心を痛め、自らを何か正しい者であるかのようなおごりを捨て去る日です。今日だけではありません。
神さまは、それには、悪によって苦しめられている人びとを救い出し、空腹の人びとと食をわかちあい、住まいのない人に宿を提供し、着るもののない人に衣を贈り、このように、隣人への助けを惜しまない生き方が、とうぜん、伴うと言われます。
マタイの「25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」という御言葉が思い出されます。
わたしたちはこのようなことはほとんどしていませんし、できませんが、それをすなおに認め、自分のことだけでなく、自分以外の人に衣食住が足りる平和な生活がありますようにと、心から祈り求めることが大切なのではないでしょうか。このようなことは政治の問題であって信仰とは関係がないとしてしまえば、このイザヤ書やマタイの御言葉から遠く離れてしまうことでしょう。
イエス・キリストが十字架で苦しんでおられます。
隣人が衣食住の不足、病気、怪我、戦争で苦しんでいます。
今日、わたしたちは何を祈りますか。
十字架で うめくイエスの ともだちの なみだ乾かぬ 世界の片隅
2026年4月2日(木)
おはようございます。
イザヤ書57:17 貪欲な彼の罪をわたしは怒り/彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。57:18 わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために 57:19 わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。
わたしたちは神さまに背き、神さまの御心ではなく、自分の心の情念によって行動したり言葉を発したりしてしまいます。神さまは、そのようなわたしたちをごらんになっておられます。
けれども、神さまはわたしたちを癒やし、休ませ、慰め、回復させてくださいます。
神さまのシャロームは、神さまの近くにいる人だけでなく、遠く離れている人にも届けられるのです。
離れても 離れてもなお 離れない アイ・アムの声 シャロームの声
2026年4月1日(水)
おはようございます。
イザヤ書57:16 わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。
わたしたちが今直面している苦しみは神さまからの罰である、と言うことはできません。
この苦しみは永遠のものでもありません。
神さまは、ご自分がお創りくださった命、つまり、わたしたちの霊、つまり、神さまとわたしたちのつながりが弱り果て、消えてしまうことのないように、やがて、その苦しみを取り除いてくださいます。
神さまは、神さまとのつながりにおいて、わたしたちを生かし続けようとしてくださるのです。
イエス・キリストも十字架の上で死に、陰府にくだり、神さまとのつながりがすべて切れてしまったかのようでしたが、神さまはキリストを三日目に死の床より起き上がらせました。それが復活です。
三日目に 動かぬ石は 転がされ エンドレスレインは おおブルースカイ
2026年3月31日(火)
おはようございます。
イザヤ書57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
神さまは高いところにおられます。
けれども、わたしたちが神さまに近づくには、わたしたちがたかくあがろうとしてはならないのです。
むしろ、わたしたちは低くくだるのです。へりくだるのです。
さらには、神さまご自身がくだってきてくださいます。
高いところにおられる神さまがわたしたちとともにいらしてくださる。
それは、神さまが低いところにくだってきてくださり、わたしたちもへりくだることによってなのです。
空高く いますお方は へりくだり われらもならい さらに低きに
