私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2015年10月4日 「まずはやってみよう!」

2015年10月4日 「まずはやってみよう!」

【聖 書】ルカによる福音書5章1節~11節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)。
 漁師であるシモン・ペトロは、イエスにこのように答えました。このたった一言が、私たちの神との関係性をダイレクトに物語っています。
 私たちは、イエスとペトロのやり取りから、ある種のイメージを起こすことができます。明け方前から、夜通し苦労をして網を降ろしたペトロ。しかし、魚は何もとれず、ただただ疲労と徒労の中にいるペトロ。そのような中で、人のアドヴァイスなどを聞ける余裕のないペトロ。これは、私たちの日常世界にも相通じることなのです。成果の無い出来事に、私たちはただただ疲れ、虚しさを感じる存在なのです。
 その虚しさに、イエスの言葉が臨みました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:4)。
 この言葉にペトロは惑います。ペトロには、長年の漁師としての経験に裏打ちされた「常識」を持っていました。その常識からすれば、いくら網を降ろしても、魚が取れない時は取れないのです。それどころか、真昼間に魚など取れるわけがありません。ゆえに、イエスの言葉は、あまりにも常識外れのものであったことは明白でした。いくらでも、その言葉を無視することなど、可能だったのです。
 しかし、ペトロは疑いの中にも、イエスの言葉に心を傾けた瞬間がありました。ペトロが、その後、イエスの言われたように網を降ろして漁をしようと思ったのは、100%の確信のゆえのことでは無かったのです。疑いや自分自身の中にある常識を超えて、まずは実践したのがペトロでした。
 それは、単なるイエスの言葉に、聖霊様の豊かな力が臨むことによって、人の心を動かす「いのちの言葉」となったのです。いのちの言葉が、ペトロ自身を変革する力の源となりました。このことは、私たちにとっても、同様にいのちの言葉が与えられています。
 聖書の言葉が、いのちの言葉となって、私たちの命を活かすのです。たとえ疑いの思いが、私たちを支配したとしても、御言葉は聖霊様によって、不可能を可能とする力として、私たちに祝福のうちに注いでくださいます。私たちはただ、疑っても、その疑いの一線を、えいっ!と乗り越えてみようと願えば、後は神様が助けてくださいます。そのような神の御業を、共に見、味わい、喜ぶ者となりましょう!

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