2015年11月29日 「しかし」
2015年11月29日 「しかし」
【聖 書】ルカによる福音書6章27~36節
【説 教】齋藤 朗子 牧師
【説教要旨】
先週は、ルカ6:20~26から「幸いと不幸」について聞きました。イエス様は、普通なら「不幸」と思われる人々こそ幸いであり、反対に、「幸い」と思われる人々は「不幸」であると言われました。しかし、実際に「不幸」を感じている時、「幸いだ」と言われても信じることは難しいと感じます。
6:27から始まる「敵を愛しなさい」という教えも同じように、その通りに実行するのが難しいお言葉のように思います。「敵を愛すること」はもとより、「自分を愛してくれる人」を愛することも、「人にしてもらいたいと思うことを人にもすること」も、思うようには出来ない時があるものです。「自分を愛してくれる人」が、ある日「敵」になることもあります。
自分が「してもらいたい」と思うことと、誰かが「してもらいたい」と思っていることが違う場合もあります。家族・友人・知人・同僚・クラスメートであってもお互いに愛し切れず、お互いに「敵」になり得ます。このような自分が、ましてや明らかに「敵」である相手を愛せるはずがないと感じてしまいます。
不幸な時や、「敵」が現れた時、私たちの心は千々に乱れます。聖書の言葉が無理難題に聞こえます。そんな私たち「人間」のなかで暮らし、「人間」の弱さも限界も知っているイエス様がご自分の「弟子たち」に語るのは、いつの世も変わらぬ神の慈愛と救いであり、神(天)の国の希望です。
神は私たちと共におられ、「恩を知らない者にも悪人にも」憐み深いお方です。このことが、人間にとっての幸いです。この神を知ること、信じることこそが、不幸な時、敵に悩まされる時の唯一の慰めであり、救いです。今日から教会はアドヴェント(待降節)の時に入りました。クリスマスを迎えるまでのこの期間に、父なる神から私たちに注がれている慈愛を黙想することはとても大切で意義深いことです。
また、神を知ることは、自分を知ることにもつながります。なぜならば、神と人とは互いに関係しあう間柄だからです。神の前に立つ「わたし」とはいったい何者だろうか。どんな存在だろうか。このこともまた考えてみたいのです。神を知り、自分を知ることは、「不幸」や「敵」を乗り越えるための重要なカギとなります。