2015年11月8日 「どうしてもダメなのですか?」
2015年11月8日 「どうしてもダメなのですか?」
【聖 書】ルカによる福音書6章1節~11節
【説 教】齋藤 篤 牧師
【説教要旨】
天地のすべてをお造りになられた神様は、6日間にわたる創造の御業の後、7日目に休息をされました。神様の愛に満ちあふれた行いを、ゆっくりと振り返るためにも、「休む」ことはどうしても必要でした。神様は休むことにより、その場には、祝福が生まれました。それを受ける人間たちもすべて、神様の祝福によって幸せを味わい、神と共に歩む喜びを、自分のものとすることができたのです。
神の喜びが私たちのただ中にある。そのことをいつまでも記憶するために、神様はモーセを通して、「安息日」に関するおきて、つまり律法をお与えになられました。安息日を神聖なものとして日常と分け、祝福に満たされた思いを私たちが受けるために、この日は仕事をせず、喜びのうちに、神と共に生きる日であることが約束されたのです。
しかし、どうでしょう。安息日に込められた意味・意図、そして「本質」は、時代を経るとともに、消え失せてしまい、残ったのは「仕事をしてはならない」という文字づらだけのおきてと、それを適用しようとするばかりに、取って付けられた山のような細かい規則、そして、その規則だけを意味もなく厳守しようとする堅苦しさ、さらに、人をおとしめるための材料として利用される始末でした。
イエス様とその弟子たちが、安息日に道端にあった麦の穂をむしって食べたのは、脱穀の労働にあたるとか、右手の動かない人の苦しみを癒してあげたことが医療行為にあたるとかで、律法を軽んじていると主張した、ファリサイ派や律法学者たちの姿は、まさに「本質の無い姿」でした。彼らの律法に対する熱心さは、いつの間にかに、憎き相手を攻撃するための悪しき心に替えられていったのです。
イエス様は、そのような空気に抗します。「ただ、本質だけを求めなさい!」。麦の穂をむしり、それを口にすることによって、空腹の苦しさから解放される人の姿、右手が動かない不自由さから解放される姿、それはどれも、安息日にこそ現れるべきものだったのです。その人たちにとっては、神様がお与えになられた、「安息日の本質」を知り、それを味わい、喜びに至る道だったからです。
私たちもまた、「神が与えた喜びの本質」を頂くことができます。逆に、知らず知らずのうちに、それを遠ざけてしまう自分自身もあります。何が「本質」なのでしょうか。そのことをじっくりと神様に聴いてまいりましょう。神様は必ず、その意味を私たちに与えてくださるのですから。