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2015年12月13日 「渋柿はいかがですか?」

2015年12月13日 「渋柿はいかがですか?」

【聖 書】ルカによる福音書6章43節~45節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

 主イエスは、人間の心の内奥に、私たちの注意を傾けようとされました。それが、ひとつのたとえ話を通して、私たちに明らかにされます。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。」(6:43-44)。誰でも分かる、この世の中の常識です。
 主イエスが、私たちにこのたとえを通して何を語られたかったのでしょうか。それは、実を生みだす私たちの心がどのようなものであるかを、まず、私たちがじっくりと観察することに理解することに、関心を傾けておられるのです。「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(6:45)と、イエス様が語られたのも、私たちの言動を支配し、司る心の在り様を捉えているのです。
 私たちは、「渋柿」を食べたことがあるでしょうか?私たちが口にしたことがもしあるならば、見た目の美しさを真正面から裏切るようなあの渋さ・まずさを、私たちは想像することができるでしょう。この姿は、私たちの日常生活を示しているものなのです。
 私たちは、心のうちに渋さを抱えて生きている存在です。しかし、その渋さを外面に出さずに生きようとするのも、私たち人間の有様です。外見を繕います。見た目を良くしようと頑張ろうとします。そのために、熱心さを示すこともあるでしょう。しかし、そのような外面と、私たちの内面、つまり心がいつも一致しているとは限りません。大切なことは、そういう自分を素直に受け入れることなのです。自分の内の渋さを理解せずに、どうして、心の中から良いものを出すことができるでしょうか?
 渋柿が甘柿に変わる方法があります。柿の実に、何らかの刺激を与えることなのだそうです。寒風にさらしたり、熱湯につけたり、アルコールやガスを吹きかけるなどの方法で、渋柿が甘柿に変化します。では、この刺激とは何でしょうか?それが、御言葉の刺激であり、聖霊様の臨みによる私たちの内に起こる変革なのです。時には痛みを覚えることもあるでしょう。しかし、それは解放へと自分自身を導くステップなのです。そして、やがては、人々に甘みを与える存在に、私たちが変えられていくことに、素直に喜べるのです。

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