私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2015年4月19日「老人の喜び」

2015年4月19日「老人の喜び」

【聖 書】ルカによる福音書1章5節~17節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】
 一組の老夫婦は、幼い頃より、祭司であった父の姿を見、神の御存在を間近に感じながら育ちました。やがて、青年となったザカリアも祭司となり、祭司の娘であったエリサベトと夫婦となりました。彼らは、主の掟と定めに忠実であり、その生き方は、まさに非の打ちどころのなかったものであったと、聖書は語ります。

 神に日々祈り、儀式を行う祭司という職務に就いていたザカリア夫婦にとって、心から神のなさることの一切を信じつつ、日々を過ごしていたことでしょう。神を信じる生活が彼らにとっての中心でした。しかし、彼らには、年老いるこの時まで、子供がいませんでした。聖書は、エリサベトが不妊の女だったからと記しています。このことは、2000年前のイスラエル社会においては、「祝福」とは程遠い姿として、人々にみなされていたのです。ザカリア夫婦にとっての祝福とは、子供が授かり、祭司としての家系を継承することにあったからです。

 こんなにも神の前に正しい人であったにもかかわらず、祝福が注がれない現実。これは、私たちが信仰者として生きる姿に相通じるものがあります。神を信じる生活、信じることによって内外に湧き起こる喜び。信仰と喜びが合一していればよいのですが、私たちはしばしば、信仰と喜びに「ズレ」を感じることがあります。信じているのに喜べない。神からの祝福が感じられない。祝福を与えてくださいという真摯な祈りが、祭司ザカリアの日々の願いであり、祈りでもあったのです。

 そのようなザカリアの祈りの場に、突如、主の御使いが現れます。ザカリアは驚き、恐れ、不安に巻き込まれます。彼の反応は、御使いが現れたからだけではありませんでした。驚き・恐れ・不安こそ、実はザカリアの心底にある感情そのものでした。その感情に、主はあらわれ、ザカリアに赤子の誕生を告げられたのです。後に、バプテスマのヨハネとして、主イエスの道備えをする働きをする人物です。

 それは、ザカリアにとっても、彼のみならず、多くの人々の「喜び」となると、御使いは告げました。神はザカリアに、そして、私たちに断言します。私たちがいかに不安を抱き、恐れにおびえ、神のなさることに心が騒ぎ、揺れ動こうとも、神ご自身のなさることは決して変わることはない、と。最終的に、ご自身が良しとされた、最高のタイミングをもって、祝福の喜びを携え、私たちに迫ってくださいます。ここにこそ、私たちにとっての希望が芽生えます。この希望に喜んで立つ者でありましょう!主が私たちに近づいてくださいます!

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