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2015年5月3日「裏切りのない言葉」

2015年5月3日「裏切りのない言葉」

【聖 書】ルカによる福音書1章13節~25節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

 天使の声が、ひとりの老人の耳に響いた時、その声はすぐに心に響くものではありませんでした。私たちの耳は、心と直結しているとは言い難いことがあります。耳で聞いたことが「腑に落ちる」経験というものは、実は大変珍しいものであったりするのです。

 老人ザカリアの願いは、神の祝福が、イスラエルの人々はもちろんのこと、この私にも注いで欲しいというものであったに違いありません。長年、こどもが与えられなかったザカリアとエリサベトの夫婦にとって、もはやこどもが授かることは無いだろうと思い、神は別な形で祝福を与えてくださるであろうと、おそらく考えていたことでしょう。

 しかし、神の祝福の示し方は、この老夫婦にとっては「まさにあり得ない」ことだったのです。無理だと思っていたことが、今や現実の「言葉」として、ザカリアに迫ります。エリサベトとの間に生まれたこどもが、ヨハネと名付けられて、ザカリアはもとより多くの人々の喜びとなる、と天使は何のためらいも無く、ザカリアに伝えました。

 ザカリアが示した反応とは、「不安と恐怖」、そして「疑い」でした。神と共に忠実に人生を歩んできたザカリアは、神のなさることを信じ続けてきたはずです。そのザカリアでさえも、不安や恐れ、疑いがわが身を襲ったことは、私たちの人間社会の縮図と言っても、過言ではないのです。私たちの生きる世の中は、どんなに魅力的な言葉が語られ、投げかけられたとしても、それを100%果たすだけの力を持っていません。欠けもあれば、失敗もある。時には裏切りや期待外れの悲しみを生むことさえあるのです。人間の口を通して発する「言葉」の頼りなさを、私たちは痛感させられます。
 
 しかし、神の言葉は「時が来れば実現する」、言葉(ことば)が事柄(ことがら)を必ず伴って、神の言葉は語られます。有言実行とも言える神の誠実さが、ザカリアの、そして私たちの心を貫くのです。ザカリアは暫しの間、言葉を失います。しかし、その間、私たちの頼りない言葉は打ち消され、神の言葉に満たされる経験を、ザカリアは味わいました。私たちも自分の心の中に、「裏切りの無い神の言葉」に満たされつつ、日々を歩む喜びを味わうことができます。それこそ、私たちを不安や恐れから解放させる、実に素晴らしい恵みなのです!

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