私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2015年8月16日 「道をつくるために」

2015年8月16日 「道をつくるために」

【聖 書】ルカによる福音書3章1節~7節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

 洗礼者ヨハネとイエスの誕生から30年が経ちました。成人となったヨハネは、自分自身の働きを公に現しました。それは、罪の赦しと悔い改めのための「バプテスマ(洗礼)」を、イスラエルの人々に施すという務めでした。
 キリスト教でしばしば語られる「専門用語」に、罪という言葉があります。私たちは、この罪という言葉の解釈に、しばしば戸惑うことがあります。罪を犯す、つまり犯罪という言葉は、私たちの生活においては、非常に重い言葉として受け止められるからです。私たちの中で、犯罪を簡単におかす人物というのは、そういないことでしょう。にもかかわらず、聖書は罪について再三再四述べ続けているのです。
 聖書で言う罪とは、神と歩調を合わせることのできない姿を言います。神に頼らなくても、人間は独立した存在として生きていくことができるという人間の姿とも言えるでしょう。もしくは、自分は神と共に歩んでいると自負しながらも、実は、神と歩調を合わせていなかったということもあるでしょう。
 ヨハネの活動に先んじること約600年前、イスラエルの民は、辛酸を舐め尽くす数十年間を歩まなければなりませんでした。東の強国であるバビロニア帝国へ強制連行されます。俗にいう「バビロン捕囚」と言われる事件です。この事件を通して、イスラエル国民は生活の不自由さを経験しなければなりませんでした。そして何よりも、自分たちの神を崇拝することすら許されませんでした。彼らが、本当に神を必要としなければならないという実感は、この捕囚期間に再び芽生えるに至ったのです。
 この時代に活動した神の言葉の預言者イザヤは、全ての起伏は平らにされて、そこにまっすぐな道が備えられることを、希望の言葉としてイスラエル国民に語りました。それは、故郷イスラエルへの帰還が、「神と歩調を合わせる」ことによって、いつしか実現することへの保証だったのです。実際に、イスラエルの民は、バビロニアから解放されて、本当の意味で神と共に歩む道を進むことができました。
 この歴史を、洗礼者ヨハネは再び踏もうとしています。自分の人生を方向転換し、神と共に歩む幸いを味わう初めの出来事として、バプテスマが与えられたのです。「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」ことが、バプテスマを受けることによって明らかにされます。この事実は、2,000年経った今日でさえも、教会を通して行われ続けたのです。私たちも備えられた道を進んで歩む者でありたいと願います。

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