2015年8月23日 「実を結ぶ」
2015年8月23日 「実を結ぶ」
【聖 書】ルカによる福音書3章8節~14節
【説 教】齋藤 篤 牧師
【説教要旨】
洗礼者ヨハネのもとに、バプテスマを受けたいと願うイスラエル人の群衆が押し寄せました。その群衆に対してヨハネは、非常に辛辣な、警告ともとれるような言葉を投げかけました。
まず、「蝮の子らよ(3:7)」と彼らのことを呼びます。さらに、「我々の父はアブラハムだ、などという考えを起こすな(3:9)」と、イスラエル人に向けて語られました。これは、イスラエル人にとっては、意外や意外の言葉であったに違いありませんでした。どうしてでしょうか。
イスラエル人にとっては、自分たちは「神の子ら」であり、「自分たちの父はアブラハムである」、明確な自意識があったからでした。その背景には、イスラエル人がいにしえより神によって選ばれて、守られて、祝福を受けてきた民であるという、特別な思いをもって生きていたからです。
しかし、その「特権意識」は、いつしか彼ら自身を誤った方向に導きました。神から救われているがゆえの慢心さを、彼らのうちに芽生えさせてしまったのです。その結果、彼らは、神と共に歩んでいるという自意識を持ちながらも、しかし、神に自分たちの心を寄せて、歩むことを実際にはしていなかったのです。神の思い、願い、期待を、イスラエルの民は考えることをせずに、自分の願望や欲求を、神の御心にすり替えてしまいました。その態度に、ヨハネは鉄槌を彼らに対して打ったのです。
「悔い改めにふさわしい実を結べ(3:8)」と、ヨハネは告げます。バプテスマを受けた者として、どのように人生を歩むか。ヨハネは人生の方向転換をして、神と共に歩む者としてふさわしい生き方について提示されました。どのような人生を歩むことができるか、という人々の質問に対して、ヨハネが語ったのは、「もはや自我を中心にして生きる生活から離れること」を勧めたうえで、神を中心に歩む道を示しました。神の思い、願い、御心を尋ねながら、神と共に歩む人生を営むならば、人々は神の救いを仰ぎ見ることが許されるのです。それは幸福な人生そのものです。
この真理が、現代に生きる私たちにもそのまま当てはまるのです。私たちは、バプテスマを受けた者であるならば、自分の心を神様の御心に合わせて生きようと願っているでしょうか?願いだけでしょうか?それが「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」生活へと、導かれているでしょうか?この問いに、私たちは御言葉と聖霊様の満たしによって、整えていくよう勧められています。神と共に歩む人生、それは何物にも勝って幸いな人生を送ることができるからです。