私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2015年9月20日 「固定観念」

2015年9月20日 「固定観念」

【聖 書】ルカによる福音書4章16節~30節

【説 教】齋藤 篤 牧師

【説教要旨】

 故郷であるナザレに戻ったイエスが、安息日の会堂礼拝で聖書を朗読した時のことです。手渡されたイザヤ書の巻物をひも解き、目に止まった聖書の言葉は、決して偶然ではありませんでした。今こそ、この預言の言葉が実現しようとしている。イエスは、あまりにも有名な預言の言葉を会堂に集った同郷の知己と味わいました。
 会堂に集っている人ならば、誰でも知っているイザヤ書61章の預言は、彼らにとっての希望の言葉でした。自分たちを捕らわれの身から解放してくださる、救い主の訪れを約束する神の言葉だったからです。だからこそ、イエスがこの預言の言葉を朗読した時、その言葉に心を熱くし、神の恵み深さを実感したのです。明らかに神の言葉を分かち合ったのです。
 しかし、その心の熱さを一瞬に冷却するような出来事が生じました。「この人はヨセフの子ではないか(4:22)」。ナザレの人々にとっては、神の言葉を朗読したイエスは、昔から知っている木工職人ヨセフの息子に過ぎませんでした。そのヨセフの息子が、このイザヤの預言を読み上げ、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(4:21)」と宣言したのです。神の言葉を実現すると宣言したイエスに違和感をもったのは、明白なことでした。
 これは、ナザレに住む人たちの「固定観念」によるものでした。繰り返しますが、ナザレの人々は、神の言葉を心から受け入れていました。しかし、そこから一歩踏み出すことができなかったのです。神の言葉を実現するイエスを、神の預言の成就と思うことができませんでした。結果として、後に続くイエスの言葉に憤慨し、彼を殺そうと怒りを露わにしました。
 神の言葉を、活きた神の言葉として受け止めるには、残念ながら、ナザレの人々に明らかに足りないものがあったのです。それは、「主の霊」、つまり聖霊様の導きに他なりません。これこそ、イザヤが預言の言葉として語ったことであり、主の霊がイエスに働き、イエスが自分自身の言葉ではなく、聖霊様の助けによって神の言葉を語ることによって、ナザレの人々も、そして現代に生きる私たちもまた、聖霊様の導きによって、イエスを心から受け入れることが可能となるのです。
 私たちの持つ固定観念も、主によって、聖霊様の注ぎによって解きほぐされて、心からしなやかに、熱くされていくことを経験できます。このことを、心から喜び、受け入れる者となることができますように。

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