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2016年10月16日 「本質は何も変わらない」

2016年10月16日 「本質は何も変わらない」

【聖 書】ルカによる福音書14章1~6節

【説 教】齋藤 篤牧師

【説教要約】

「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(ルカ14:3)。

主イエスによって、この質問が律法の専門家たちに投げかけられました。安息日は一切の労働を禁じているとみなされていた律法理解の中で、果たして病気を治すこと、つまり医療行為は労働に当たるかどうか、ということを、主イエスは論点の中心に置いているように見える質問です。

しかし、主イエスは既にこの質問に対する明確な答えを持っていました。かつて主イエスは、安息日に病で苦しんでいたひとりの婦人をお癒しになられました(ルカ13:10-17)。主イエスは、安息日を軽んじたのでしょうか?少なくとも、主イエスの態度と行動を良しと思わない人々からは、そのように思われていたことは事実です。現に、主イエスがどのような行動をするか、様子をうかがっていたと聖書は記録しています(14:2)。

主イエスは決して、安息日を軽んじたりはなさいませんでした。それどころか、安息日という出来事に示された神の思いを前面に押し出そうとした結果として、病気を癒されるということをなさいました。どうしてでしょうか?それは、父なる神が律法の言葉をモーセを通して与えられた時の動機に私たちが立ち返る時、そこには「労働をしてはならない」という言葉以上に、神の目的を見出すことができるからです。

神は安息日を通して、人間が元気を回復し、命を与えてくださった神の恵みを喜び、味わうことを期待し、安息日を意図されました。究極的に、安息日は神と共に歩む喜びに至らなければ何の意味もないということです。その本質に立った時、病気は癒されるべきなのです。私たちの命を尊び、育んでくださるのが、私たちの神なのです。私たちが聖書の言葉に触れる時、この視点を忘れてはなりません。まず神が、言葉を通して何を伝えようとされているか、聖書の言葉を愛し、そこに触れるための惜しみなく注目の思いを注ぐならば、私たちは神の御心に生きることが可能となるのです。

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