2016年10月30日 「しょっぱい弟子」
2016年10月30日 「しょっぱい弟子」
【聖 書】ルカによる福音書14章24~35節
【説 教】齋藤 朗子牧師
【説教要約】
私たちは誰でも、これだけは守りたいと思うものが一つや二つはあると思います。しかし、時にはそれが本当に守るべきものなのだろうか?と立ち止まって考えることが必要な場合もあります。また、そうと意識しないままで何かを守っている時もあります。何かをする時や、他者との付き合いの中で、自分の中の何か(プライド、称賛、表面上は平穏な関係など)を守ろうとして、不安や恐れに捕らわれることがあるものです。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)というイエス様の言葉には、家族や近しい人たちからの評価や顔色を気にしたり、その人たちとの今の関係を「守ろう」としたり、自分自身の願望や慣れたスタイルを第一にすることで、救い主への信仰から離れたり、神の御心・み言葉に反するようなことがないようにというイエス様の切なる願いが込められています。
「自分の十字架」(27節)とは、神とその御心への信従を第一とする時に心の中で起きる周囲の人への恐れとの戦いであり、自分の願いと神の御心のどちらを優先するべきかで起きる葛藤と言えるでしょう。それでもキリスト者であり続けようとするならば、私たちにも覚悟が求められます。覚悟を決めて「主こそ我が王、我が冠」という信仰と、「御心こそベスト」という信仰に「筋」を通すのです。塔を建てる人も、圧倒的な数の敵軍を目前にする王も、覚悟を持ってことにあたり、そして、始めたことを途中で投げ出してはいけません(28~32節)。また、信仰に「筋」を通すためには、「自分の持ち物(守りたいもの、自分を捕らえている他のもの)」を一切捨てなければなりません(33節)。
私たち自身は無力ですが、神のみ言葉と聖霊の助けによって信仰に筋を通すならば、料理を美味しくし、人々に喜びを与える「塩」のような味わいのある者へと成熟させていただくことができます。私たちも美味しく「しょっぱい弟子・教会」になりたいと思いませんか。