2016年2月28日 「『にんげんだもの』を超えて」
2016年2月28日 「『にんげんだもの』を超えて」
【聖 書】ルカによる福音書8章22~25節
【説 教】齋藤 朗子牧師
【説教要旨】
イエス様の行動には、必ず意味があります。出発するのは行くべき所に行くため。そこへ行くのは御国を伝えるため。弟子たちを連れて行くのは、ご自身の業を見せることで弟子たちの信仰を強め、福音への確かな確信を育てて「宣べ伝える者」に訓練するためです。
本日の箇所では、イエス様は弟子たちを伴ってガリラヤ湖を船で渡られる途中で「眠ってしまわれた」とありますが、この「眠り」にも弟子たちを育てるという意図があったのではないかと思います。
2年前、マザー・テレサの書簡集が出版されましたが、マザーは手紙の中で自身の心の闇について書いています。神と人への奉仕に生涯を捧げ、世界中の人々によき模範を示し、彼女との出会いを通して修道者へと献身した人も少なくありません。しかし、マザー自身は長い間、神に見放されているという想いに苦しんでいたことが書かれています。神は、マザーの呼びかけに、まるで眠っているかのように答えません。マザーの心は神への「飢え乾き」ゆえに、不信と虚無にさいなまれたのでした。
荒波におびえる弟子たちをよそに、船の上で眠るイエス様のお姿と、マザーが経験した「沈黙する神」が重なります。しかし、神が沈黙される(イエスが眠っておられる)ということには、信仰を鍛錬するという意図があります。イエス様は、荒波が起きてもあえて眠り続け、弟子たちが、恐れの中でもご自分を信じ、ご自分を求めるようにされたのです。
また、イエス様が船の操縦を弟子たちに「任した」ことにも、弟子訓練という目的があったと言えると思います。イエス様ご自身が船を漕ぐことは出来るだろうけれども、イエス様は、弟子たちがご自分の業に参加する・奉仕する機会を与え、任されるのです。たとえ、まだ信仰的に未熟であっても、大人でも子供でも、学問がなくても、そのようなことは神にとって問題ではありません。教会という船の上では、誰もが神に用いられる器です。
主なる神は、常に親心をもって私たちを育ててくださっています。しかし私たちは時に「荒波」の中で恐れに捕らわれ、共におられる主のみ姿が見えなくなり、信仰を失うこともあります。また、与えられた務めに失敗して、すっかり自信をなくしてしまう時もあるかもしれませんが、このような時こそ「黙れ、静まれ」という主のみ言葉を思い返したいと思うのです。「我が子よ、恐れるな。私がいるではないか。」聖書を開けば、主なる神は私たちにこう語りかけてくださいます。