私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2016年2月7日 「聞く気持ちがあれば、是非!」

2016年2月7日 「聞く気持ちがあれば、是非!」



【聖 書】ルカによる福音書8章4~15節


【説 教】齋藤 篤牧師


【説教要旨】


主イエスは、私たちに「神の国」の訪れを告げることによって、神の思いや願い、価値観というものを、私たち人間が大切にすることを期待されました。だからこそ津々浦々をめぐり、一緒に働く弟子や女性たちの助けを必要としました。時には会堂の礼拝で、病人の前で、罪びとと言われていた者の前で、主イエスは言葉と行いで、癒しの力を与えました。その中で、主イエスは「たとえ話」という方法を用いて、神の国の良いたよりを伝えようとしました。4種類の土壌に作物の種が落ち、まかれた時、種はそれぞれの結末に至りました。主イエスは、種とは神の言葉を指し、土地の様子は私たちそのものであると説明されました。私たちが良い土地となるならば、神の言葉は私たちの中で成長するというのです。何と分かりやすいたとえでしょうか。このように、たとえ話は難しい話を簡単なものにするという目的と働きを持っています。ところが、主イエスはこのようにも私たちに告げられました。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」(ルカ8:9-10)???・・・・・。主イエスの言葉に違和感を思いませんか?たとえ話を用いるのは、「見ても見えず、聞いても理解できないようになる」ためとは、一体どういうことなのでしょうか。当時の人々は、この言葉を聞いて「これはあの聖書の言葉だ」と思い浮かべた人もいたことでしょう。これは旧約聖書に記された預言者イザヤに与えた神の言葉でした。自分たちは神を信じ、神と共に歩んでいると確信してやまないイスラエル人に対して、神の言葉はイザヤを通して、自分の心をしなやかにして神の思いを受け止めるように促したのです。私たちの心は、なかなか頑固なものです。一度こうだと決めたら、なかなか考えや思いを変えるということを難しくさせます。カチカチな土地では、種をまいても作物は育ちません。よく耕して空気を含ませることによって、土は活きてくるのです。このイメージを、私たちの心に当てはめるのです。私たちは心がしなやかにさせられていますか?そのためにも、「聞く耳のある者は聞きなさい」という、主イエスの言葉に、「気持ち」を込めて耳と心を傾けることが、私たちに求められているのです。



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