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2016年4月17日 「損して得取れ」

2016年4月17日 「損して得取れ」

【聖 書】ルカによる福音書9章18節~27節

【説 教】齋藤 朗子牧師

【説教要旨】

 先週の「五千人の給食」の御言葉は、「イエスのうわさ」に挟まれています。ヘロデ王が耳にした人々のうわさ(9:7~8)、そして本日の冒頭(9:18~19)です。「イエスとは何者か」という「うわさ」は現在も流れており、様々なイエス像が語られています。「うわさ」の絶えない世の中で、「しかし、他でもないあなたがた自身は、わたしを何者だと言うのか?」とイエス様は弟子達に問いかけます。弟子達に限らず、大なり小なり「イエス」と関わった人は誰でも、この問いを避けることができません。
 この問いに対して、初めてキリスト(メシア)だと言ったのがペトロでした。12人は間近で教えを受け、伝道旅行を経験し、イエス様の驚くべき奇跡を体験する内に、イエス様の真実に一歩近づいたのだと言えます。
 しかし、イエス様は弟子達に対して①ご自分がキリストであること②受難と3日後の復活について、誰にも話さないようにと戒められました。ペトロをはじめ、イエス様をキリストと告白した弟子達ですが、このとき彼らが信じていたキリスト像、そして信仰は、まだ不確かなものでした。このような段階で弟子たちがイエス・キリストについて人々に語ったとしても、それは世間の人々がする「うわさ話」のようなものにしかならなかったことでしょう。
 もう一つ、イエス様が案じておられたことがあります。やがて弟子たちが真のイエス・キリスト信仰に立つ時、彼らが迫害され、辱めを受けることをイエス様はご存じでした。「その時、あなたたち(弟子)は、わたし(キリスト)への信仰ゆえに背負う辱めという『十字架』を背負ってゆけるか?」イエス様はこのことを弟子達に問い、覚悟を促したのです。そして、この十字架を背負い切った者に神が賜る永遠の救い・命への希望を語られたのでした。それは、自分の命を捨ててでも得るべき永遠の宝です。この世では苦しみ、辱められて「損」をしても、救いと永遠の命を選んで欲しい。弟子達へのイエス・キリストの切なる願いがここにあります。

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