私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2016年5月29日 「たとえ嫌われても」

2016年5月29日 「たとえ嫌われても」

【聖 書】ルカによる福音書9章51~62節

【説 教】齋藤 篤牧師

【説教要旨】
 「天に上げられる時期が近付くと」(51節)という書き出しで、主イエスの新たな場面の幕開けをルカは伝えました。主イエスはエルサレムに向かう決意を固められたというのは、まさにかねてより予告していた「十字架への道」に他なりませんでした。しかし、それがどれだけ重要なことで、また主イエスと共に歩む弟子たちにも求められる「覚悟」であるかを、弟子たちはまだ知るに至らなかったのです。
 主イエスが最初に立ち寄ろうとしたサマリア人の群れで、彼らは歓迎されませんでした。このことに憤慨した愛弟子たちは、この村に災いが降りかかることを望みました。しかし、イエスは師匠想いの弟子たちの提案に同意するどころか、戒められたのです。ここに、主イエスの覚悟と決意の片鱗を見ることができます。それは、「見返りを求めない生き方」です。
 私たちの世界は「御恩と奉公」であるとか、「ギヴアンドテイク」であるとか、良いものを受けたことに対する感謝の念が行いに表れることが美徳とされます。それ自体はとても良いことです。しかし、この相互的な働きがなく、一方的な働きに対する返答がなければ、私たちは見返りがないことに、怒り、恩知らずと、その相手を非難することもしばしばあるのです。サマリア人の村を焼き尽くそうとした弟子たちが、まさにそのような感情に捕らわれていました。
 主イエスが向かった十字架の道は、まさに自己犠牲の道のりでした。誰からも見返りを求めず、ただ人間の救いのためにひと足、またひと足歩んだのが主イエスでした。その最大の根拠は、人間に対する掛け値の無い「愛」に他なりません。そこには、恩知らずな人間を滅ぼしてしまおうという条件付きの愛を求める姿はどこにも存在しなかったのです。そのような主に、私たちは生かされているのです。

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