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2016年6月26日 「言うは易く行うは難し」

2016年6月26日 「言うは易く行うは難し」

【聖 書】ルカによる福音書10章25~37節

【説 教】齋藤 朗子牧師

【説教要旨】
 カナダ、アメリカなどの国には「善きサマリア人法」という法があります。災害、災難、急病など窮地にある人に対する善意による無償の行為について、たとえ結果が失敗であっても、故意あるいは重過失と認められるものでない限り、結果について責任を問われないという意味内容の法です。例えば、飛行機内で急病にかかった人に救急医療を施した医師がいて、その方が亡くなった場合、遺族がその医師の責任を問い訴訟を起こすケースがありますが、医師は「善きサマリア人法」によって守られます。してみると「善きサマリア人法」は、結果に恐れを持たせ、善意を委縮させ、救護や援助という活動を差し止めようとする「意思」に抵抗する法と言えるかもしれません。実際この世には、善行の志をくじき、人々が助け合い、繋がりあうことを阻む悪しき者が働いています。この存在はイエス様の働きをも邪魔をしようとします。ある「律法の専門家」はイエス様に悪意から「試みるための」質問をしました。ところがイエス様の答えが完全に正しいので、分が悪い彼は自分を「正当化」しようとして更に無益な質問を重ねました。これに対して語られたイエス様の話には、祭司とレビ人という2人が登場しますが、この2人は倒れた人を見捨てて通り過ぎて行きました。仮にこの2人が誰かから「なぜ助けなかったのか」と責められたら、彼らも自分を「正当化」しようとしたに違いありません。善に対する悪意ある反応や、善をなさない事への自己正当化には、私たちも注意をしなければなりません。その上で、私たちは「善いサマリア人」のように倒れた人の心の声を聴き、それに答えてゆくようにと促されています。私たちが誰かの隣人になるためには、相手の気持ちを聴く耳を持つこと、寄り添うこと、少々の失敗や相手からの心無い反応にもめげないタフさが必要です。だからこそ主を求め、主から頂いたいっぱいの愛に押し出されて、聖霊の同伴に励まされて、「この世」にあっても誰かと繋がり、隣人となり、共に生きる喜びに与らせていただきましょう。

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