2016年7月10日 「求めるということ」
2016年7月10日 「求めるということ」
【聖 書】ルカによる福音書11章1~13節
【説 教】齋藤 篤牧師
【説教要旨】
弟子たちが主イエスに、自分たちにも祈りを教えてくださいと願います。その願いに答えて主イエスが教えてくださった祈りが、私たちが毎週の礼拝をはじめ、あらゆる場面で祈る「主の祈り」です。
昔、私はどうしても主の祈りが祈れないと思ったことがありました。「私たちに罪を犯した者を、私たちが許しましたように、私たちの罪をもおゆるしください」というところに、どうしても引っ掛りを思わずにはいられませんでした。私はその時、どうしても許すことのできない相手がいたからです。自分が人を許すことができていないのに、どうして「許しましたように」と祈れるんだろう?私は、随分気落ちしたものでした。
そんな私に、ある教会の仲間は言いました。「だから祈るんじゃないのか?」と。人を許せない自分自身が、許せるようになるまで、主に祈り続けることにこそ、祈りの「本質」があるのだ、と言うのです。
主イエスは弟子たちに例えを持ち出して言われました。「しつよう(執拗)に頼めば、必要なものは何でもあたえてくれるだろう」(11:8)。本当に私たちの人生にとって必要なものならば、しつように、つまりしつこく祈り続けることが大切なのです。求めれば与えられるという言葉は、私たちの祈りが本当に神に求め続ける思いにつながっているのだろうか、という問いを自分自身に与えるものなのです。
だからと言って、私たちはただ自分の好みであるとか願望を祈り続けたとて、その祈りは単なるわがままな欲求の羅列となってしまいます。本当に必要なものとは、私たちを愛し、私たちに常に良いものを与えてくださる父なる神が望まれることです。私たちは、自分の必要が本当に神が望んでおられることなのだろうかと、祈りの中で立ち止まり、思いめぐらし、時には祈りの言葉が変えられることすらあるのです。それを成してくださるのは、「聖霊様」の導きによってです。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11:13)のです。