2016年8月7日 「ばけのかわ」
2016年8月7日 「ばけのかわ」
【聖 書】ルカによる福音書11章37~54節
【説 教】齋藤 篤牧師
【説教要約】
化けの皮。あまり良い意味で用いられることのない言葉です。自分の内側に隠している自分の本性は、誰でも外には出したくないものです。しかし、ほんのちょっとした事がきっかけとなって、本性がむき出しにされてしまいます。「化けの皮がはがれる」とは、よく言ったものです。そんな目に遭う生活は、誰でも経験したくはないのですが、私たちは誰でも「ばけのかわ」なるものを持って、この世の中で生きているのかもしれません。
神の御前にあって清くなければならないと信じ、そして日々の生活で実行していたファリサイ派と呼ばれた人々が、今回の主な登場人物です。あるファリサイ派の人物に食事招待された主イエスは、食事の前に身を清めることをしませんでした。それが、ファリサイ派の人たちを不快にさせたのです。この人たちにとって、食事の前に身ぎれいにすることは、信仰者の持つ大切な基準であり、それを実行しない主イエスは神を侮辱しているように見えたのでしょう。
主イエスは、ファリサイ派の人たちの思いを見抜きました。そして、神が与えた律法を守る大切さを説きつつも、もっと大切なものは神の持つ正義と愛を、私たちもまた神にささげなければならない、という最も大切な基準を提示されたのです。実は、食事の前に身を清めるという行為は、神が律法で提示されたことではありませんでした。
それは、ファリサイ派の人々が定めた独自のルールだったのです。そのルールに従って主イエスを非難したファリサイ派の人たちは、神の思いや期待、願いを素直に聞き取るのではなく、自分自身にとって「快」か「不快」かで、人の行いを判断し、ついには非難しました。それどころか、神への愛こそ大切と説いた主イエスに敵意を抱き、言葉じりを捉えようと躍起になりました。神が私たちに示してくださっている愛とは真逆の生き方を、この人たちの本性は明らかにしたのです。
私たちは神の声を正確に知るために、祈りつつ、謙虚に御言葉に聴くよう促されます。私たちは神の言葉に心を傾けた時、内面から神によって美しくされていくことを経験できるのです。