私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2017年11月26日「神様の時」

2017年11月26日「神様の時」

【聖 書】伝道の書3章1~11節
【説 教】田代 孝一スタッフ

【説教要約】

 本日は、皆さんとともに企救エクレシア創立15周年記念礼拝をささげることが出来ますことを心より感謝します。
礼拝後、記念コンサートを開いてくださる大宮香織さんが、本日の聖書の箇所から「時」という自作の曲を特別に賛美してくださいましたが、「神のなされることは、すべて時にかなって美しい(最高、パーフェクトの意味)」(3:11)だと記されていても、自我の塊のようなわたしたちは、この言葉に従って生きていくことは、なかなか難しいことでもあります。自分の判断、自分の都合がすべてに優先し、神様が定められた時を信じ委ねて生きていくことは、至難の業のように思えるのもまたわたしたちの実体です。
では、わたしたちはどうすれば「神様の時」を信じて生きていくことが出来るのでしょうか。ここにイエス様の十字架があるのです。十字架はどんな教会に行っても掲げられていますが、それは教会の単なるシンボルではありません。十字架こそが私たちが神とともに生きる「いのちの道」なのです。アメリカの盲目の賛美作者であるファニー・クロスビーの賛美の中に「十字架のかげに」という曲があります。その歌詞の中に「十字架のかげに いずみわきて いかなる罪も きよめつくす おらせたまえ このみを主よ 十字架のかげに とこしえまでも」とありますように、自我の塊のようなわたしたちが、神様とともに歩んでいくことが出来る唯一の道は、十字架によってゆるされ生かされていくことなのです。聖書の中に「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ人への手紙3:10)と記されていますように、わたしたちは、この肉体がある限りどんなに正しいと思われる人であっても、いつも自分を正当化し、自分の考えや自分の思いを第一にして歩む者なのです。このような者を神様の前に謙遜にし、へりくだって歩ませてくださるのは、イエス様の十字架をおいてほかはないのです。
 イエス様は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と、いつもわたしたちに語りかけてくださっています。どんなに苦しい時も、悲しみに打ちひしがれている時も、悩みの時も、絶望と思える時も、イエス様はそこから解放される時を備えていてくださっているのです。わたしたちの人生には、必ず神様が祝福してくださる「神様の時」があることを信じて、この人生の荒波を乗り越えていきましょう  


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