私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2017年2月19日「あきらめないで・・・」

2017年2月19日「あきらめないで・・・」

【聖 書】創世記32章22~32節
【説 教】田代 孝一スタッフ

【説教要約】
 本日の聖書の箇所に登場するヤコブという人物は、現在のイスラエルの基礎を築いた重要な人物のひとりです。しかし、彼は神様から取り扱いを受けるまでは、決してほめられるような人物ではありませんでした。彼の名前には「押しのける者」という意味があり、彼はその名の通り自我が強く、目的達成のためならば手段を選ばないというほど狡猾な人物でした。そのことを表す一番の出来事が長子の権利を得るために、母親と結託して父イサクをだまし、双子の長男であるエサウからその権利を奪ったことでした。
 その後、ヤコブは紆余曲折の人生を歩んだのち、兄エサウとの再会の時を迎えるために、ヤボク川の渡しにさしかかりました。その時が近づいてくるにつれ、彼の思いは千路に乱れ、兄と会ったらどんなに弁明しても、兄は自分だけではなく、家族全員も殺してしまうだろうという不安でいっぱいになりました。ヤコブはこのヤボクの渡しにたどり着くまで、何度も神様の助けを受ける体験しながら、その時ヤコブにはその信仰のかけらも残っていませんでした。
 神様は、ヤコブのそのような状態をご覧になり、神の使いをヤコブのもとに送られました。ヤコブと神の使いは、その場で夜が明けるまで長時間にわたって格闘したと記されています。神の使いは、ヤコブとの格闘を終わらせるために、ヤコブのもものつがいをはずしました。もものつがいを外されたら、私たちはまったく力が出なくなります。この時、ヤコブは無力にされたのです。神様は、ヤコブの肉の力、自我の強さを徹底的に砕かれたのです。
 ヤコブの信仰の回復は、ここから始まりました。ヤコブは力が入らなくなった体を引きずって、神の使いにしがみつき、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と叫びました。もうそこには人間的な見栄や体裁、自分を絶対化する考えや思いはありませんでした。そのような思いをすべて捨て、ただ神の使いにすがったのです。
 神の使いはそのようなヤコブの姿を見て、「あなたはもはやヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに力を争って勝ったからである」とヤコブに言いました。ヤコブはこの時、古い自分(押しのける者)を徹底的に打ち砕かれ、(イスラエル)神とともに生きる新しい自分を得たのです。そこでヤコブはその所の名を「ペニエル」と名付けました。ペニエルとは「神のみ顔」ということを意味しますが、ヤコブは新しい自分に生きるために、この地において「顔と顔とを合わせて神を見る」という決定的な体験をしたのです。
 主イエス様を信じる私たちにとって、最大の喜びは何でしょうか?地位や名誉、名声や財産を得ることでしょうか。それらも喜びのひとつかもしれません。しかし、私たちにとって最大の喜びは、神と顔と顔とを合わせて見るように、主イエス様がいつも私たちとともにいてくださることを体験することです。これこそが、「喜びのおとずれ」、福音そのものなのです。
 私たちはどんなに苦しい状況や環境、境遇に置かれていたとしても、決してあきらめてはなりません。なぜなら私たちは、いつもどんな時も私たちとともにいて、それらの重荷を喜んで負ってくださるイエス様という福音を、この手にこの心の中にもっているからです。主イエス様とともにあって、勇気と希望をもって、この人生の荒波を乗り越えていきましょう。必ず、イエス様が驚くべき祝福を与えてくださいます。

powered by Quick Homepage Maker 4.91
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional