2017年3月19日 「不法侵入者」
2017年3月19日 「不法侵入者」
【聖 書】ルカによる福音書19章45~48節
【説 教】齋藤 朗子 牧師
【説教要約】
イエス様はとうとうエルサレムの神殿に入られました。イエス様にとって神殿は「父の家」であり「祈りの家」です。しかし、イエス様がご覧になった神殿は、そのように言える所ではなく、「強盗の巣」のようになっていました。
神殿の境内には、二種類の商売がありました。一つは、鳩など「犠牲」として神にささげる動物を売る店、もう一つは、手持ちの様々な通貨を、神殿への献金および神殿税の納付に使われている通貨に両替する「両替商」です。
彼ら商人たちが「強盗」と呼ばれたのは、法外な値段や手数料を貧しい人々から「奪い取るように」取っていたからです。イエス様から見れば、商人たちは父の家に勝手に入り込んで盗みを働く不法侵入者でした。貧しい人々は、神殿で搾取されるのをただ耐えてきました。だから、人々がイエス様の怒りや、その教えに喜んで耳を傾けたのは当然のことです。
神殿(教会もです)が「父の家」であるならば、その「主」は父なる神です。主人の御心に逆らうことをするのは許されないところです。
また、神殿(教会)が「祈りの家」であるからには、私たちはそこで祈られる良きものをこそ求め、反対に、決して祈り求めたりしないもの(不正、搾取、貪欲、無慈悲の横行など)は、キリストによって追い出し清めてもらう必要があります。このことは、信仰者個人としても同じです。
ところで、私たちは「主の祈り」を知っており、祈っています。主の祈りには、私たちが祈り求めていることがすべて含まれています。個別の、ある限定された状況にあっても、不思議と祈りはすべて主の祈り(神の栄光、御心の成就、必要な物が祝福を伴って与えられること、懺悔と赦しへの感謝、それゆえ隣人を赦すこと、悪と誘惑からの守り)へと集約されます。もちろん、自分の言葉や誰かの言葉による祈りにも、父なる神は喜んで耳を傾けてくださいます。
私たち一人ひとり、また教会として、「祈り」という神との対話がもたらす恵み、幸いに憧れをもって、祈りに一層親しむ者でありたいと願わされます。