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2017年9月17日「前のものに向かって」

2017年9月17日「前のものに向かって」

【聖 書】マタイによる福音書6章25~34節
【説 教】田代 孝一スタッフ

【説教要約】
 本日の聖書の箇所でありますピリピ人への手紙は、エペソ、コロサイ、ピレモンの各手紙と同じように、パウロがローマの獄中からそれぞれに宛てた手紙のひとつです。
この手紙の特色は「喜びの書簡」と言われていますように、「喜び」という言葉が、わずか4章の中に16回も使われていることです。このことに表われていますように、それは単に言葉の問題ではなく、パウロの喜びそのものが手紙全体に満ち満ちていることです。
その喜びの基となったのは、この手紙の中に9回も出てくる「福音」という言葉でした。「福音」とは、パウロがコリント人への第1の手紙15章の中で、
「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、私自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるようにとおり、三日目によみがえったこと、ケパ(ペテロ)に現れ、次に十二人に現れたことである」(3~5節)と明確に記していますように、キリストの十字架と復活を指しています。パウロにとって、この福音にあずかった喜びはいかに大きかったことでしょう。この世の地位や名誉など、そのほとんどのものを得たパウロは、「キリストにゆえに、それらのものをふん土のように思っている」(8節)と言い切りました。パウロにとって、それほどその喜びは大きかったのです。
 そのようなパウロが、次節において、次のようにその思いを表しています。「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」(13~14節)と。パウロは、ここで「後ろのものを忘れ」と記していますが、わたしたちにとって「後ろのものを忘れる」ことほど困難なことはありません。わたしたちは時として、過去の痛みや傷や思い出したくもない事柄がフラッシュバックのように甦り、わたしたちを深い穴の底に引きずり込もうする働きに捕らわれ、苦しめられることがあります。過去に執着し、捕らわれてはならないと言われても、なかなかそこから抜け出せないのが、わたしたちの実体でもあります。わたしたちは、どんなにあがいても過去に戻り、それを正すことはできません。
 そのようなわたしたちにパウロは、「前のものに向かいなさい」と勧めました。「前のもの」とは何でしょうか?それは、「キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与」(14節)だと記しています。すなわち、パウロが繰り返して強調した「福音」のめぐみにあずかるということです。パウロにとってダマスコ途上で、復活されたイエス様と出会ったことは、最大の喜びでした。(使徒行伝9章) そのようなパウロが、「わたしたちの国籍(本国)は天にある」(20節)と力強く宣言しました。復活されたイエス様と再びあいまみえることが、パウロの最大の目標となったのです。
 わたしたちキリスト者の希望は、地上にあるのではなく、永遠に変わることのない天にあります。どんなに苦しい過去があったとしても、どんなに取り返しのつかないような過去に犯した問題があったとしても、イエス様の十字架の血潮によって贖われたわたしたちには、復活の希望が与えられているのです。わたしたちもパウロのように復活の喜びと希望をもって、どんな時も前のものに向かって、力強く歩み続けてまいりましょう

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