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2018年3月18日「神様の眼(まなざし)」

2018年3月18日「神様の眼(まなざし)」

【聖 書】マタイによる福音書6章1~4節
【説 教】田代 孝一スタッフ

【説教要約】
 眼は人間にとって大切な器官です。しかし、このような大切な器官にも限界があります。それはいくら視力が優れている人であっても、自分の眼に見える物しか見えないということです。そのことのゆえにわたしたちは、時として自分の眼に映るものを絶対化してしまうことがあります。
旧約聖書のサムエル記で、主は預言者サムエルに「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16:7)と言われました。これはサムエルがサウル王の次の王を選ぼうとした時に、主がサムエルにかけられた言葉ですが、ここにわたしたち人間の限界と神様が注がれる眼がどこにあるかを知らされます。
神のひとり子としてお生まれになられたイエス様が、本日の聖書の箇所で、次のように言われました。「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」(6:3~4)と。人間のからだの機能からすると、右の手がしたことは左に伝わっていくことは当たり前のことです。しかしイエス様はここで、「『右の手がしていることを左の手に知らせるな』という位、自分でも分からないほど徹底して隠れて行いなさい。」と言われたのです。
ここにイエス様のわたしたちに対する深い戒めがありました。それは、わたしたちの自己顕示欲に対するものでした。わたしたちは実に自己顕示欲の塊のような存在です。いつも自分がナンバーワンになりたがり、自分が主人公になっていなければ気が済まないのがわたしたちの実体です。ここでイエス様が厳しく戒められたのは、パリサイ人や律法学者に対してだけではありませんでした。それはわたしたち全人類に対する深い戒めでもありました。
神様の眼は、どのような人に注がれるのでしょうか。イエス様は言われました「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と。またパウロは「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(エペソ5:5)と言いました。
神様の眼(まなざし)は、自分を絶対化して神などいないと高ぶる人ではなく、いつも隠れたことを見ておられる神様の前にへりくだり、「わたしこそ罪人の頭(かしら)です」と告白する人に注がれるのです。

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