2024年11月17日「命をかけた批判者イエス様」
2024年11月17日「命をかけた批判者イエス様」
命をかけた批判者イエス様
「ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」(マタイ23:24)
先日、神学校でとても大切なことを学びました。「説教者は自分をどこに置いて語るかが常に問われている。特に何かを批判するときは気をつけなさい。お気楽な批判者になってはならない。」この言葉に私自身、深く自戒させられました。
イエス様は当時、律法学者、ファリサイ派の人々を厳しく批判されました。冒頭の御言もまさにそうです。「偽善者よ、あなた方はわざわいだ。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公平、あわれみ、忠実はないがしろにしている」と。
当時、ラビたちはモーセの十戒を実生活で守るために、事細かく律法を解釈しました。特に第四戒「安息日を覚えて聖とせよ。七日目は何の仕事もしてはならない」を守るために、何が仕事にあたるかを議論し続けたのです。その結果、膨大な量の細則が生まれました。たとえば、安息日にひもを結ぶのは仕事にあたるから禁止。けれども婦人の下着の革ひもは結んでよい、等々。すると安息日に井戸から水を汲みたい人は、桶に婦人の下着の皮ひもを結んで汲む。これは全く合法だからです。こうして細則と抜け道が幾百幾千と積み重なっていったのです。
愚かしい、と思われるでしょうか?けれども私たちは彼らを嘲笑してはならないと思うのです。彼らがなぜそこまで律法にこだわるのか?それは律法を軽んじたためにバビロン捕囚に遭ったからです。神の審きを受けたからです。そこから極端な律法主義が始まりました。
イエス様は彼らの誤りを正すために、ただ批判しただけではありませんでした。神の小羊として自ら十字架で死なれたのです。そして贖いを完成され、律法の終わりとなられました。律法主義を批判するだけでなく、自らの命をもって罪の解決の道を開いて下さったのです。なんと責任ある生き方でありましょうか。私たちもこの方にならってゆきましょう。(よ)
