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2024年11月3日「罪は悔いても仕方がない」

2024年11月3日「罪は悔いても仕方がない」

罪は悔いても仕方がない

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。・・・そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。」(ルカ15:18b~20a)

 先日、礼拝説教で「神はわずかな罪でさえも憎まれる」という話しをしました。その後、何人かの方から「罪って何ですか?」とか、「悔い改めが大事ですよね」という反応がありました。確かに、あれほどまでに動物の犠牲が献げられ、ついには神の御子が死なねばならなかったほどに罪が深刻な問題であるなら、罪に対して過敏になる気持ちも良くわかります。けれども罪はいくら悔いても、それによって聖められるわけではありません。罪の赦しは、私たちの側ではなく、神が為してくださったことにかかっているからです。

 「悔い改め」と訳されている原語は、ヘブライ語では「シューブ」、ギリシア語では「メタノイア」ですが、いずれも「方向を変える」とか「立ち帰る」という意味で、「悔いる」という意味はありません。もちろん、自分が犯した罪を悔いる、ということが、まったく無意味だというのではありません。「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き(第二コリント7:10a 口語訳)」とあるように、「あぁ、私は主の御心に反してしまった」と悔いることは素晴らしいことです。けれども、そこから方向を変えてイエス・キリストに向かって進み出さなければ、ただ悔いているだけでは何も解決しないのです。

 たとえば、ある人が深刻な病に冒されてしまったとします。その人が「あぁ、なんでタバコをやめなかったんだろう」「なんで毎晩、深酒してしまったんだろう」、、、といつまでも悔んでいたら、あなたは何と声をかけますか?「今さら悔いても仕方ないでしょう。それより早く病院に行きなさい。そして治療を受けなさい!」と言うでしょう。罪も同じです。いくら悔いたところで、何の解決もありません。ただひとり、罪の解決をお持ちであるイエス・キリストのもとに飛び込むのです。

 自分の罪に注目することは、とても真面目で良いことのように思われます。けれども真に注目すべきは主イエスの十字架です。私の罪が贖われた事実にこそ目を向けるべきです。自分の罪にさいなまれるときこそ、主の十字架を見上げましょう。(よ)

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