私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。          【教会目標】 キリストの愛が満ち 福音宣教に生きる教会

2024年12月1日「行いは信仰なしでもできてしまう」

2024年12月1日「行いは信仰なしでもできてしまう」

行いは信仰なしでもできてしまう

「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7:22~23)

 先週、礼拝説教で「信じることと行いは深いところで結びついている」と申し上げました。聖書は信仰を単なる「心の持ちよう」とは見ていません。信仰と訳されている原語(ピスティス)は、忠実あるいは信頼とも訳される語で、神との関係がつながっている生き方を指しています。従って、信仰があるなら行いとなって表れてくる、と聖書は言っています(ヤコブ2:14~26)。

 けれども先週の説教では触れられませんでしたが、気をつけなければならない点があります。それは「行いは信仰なしでもできてしまう」ということです。私たちは疲れて、主を愛する愛が冷め、喜びが失われてしまっていても、教会奉仕を続けることはできてしまうのです。これは実に悲しい状態です。あるいは、冒頭の聖句のように、一生懸命働いたとしてもそれが自分の名声、称賛、利益のためであるなら、主から「知らない」と言われてしまうのです。ですから何よりも重要なことは主を愛して、主の御声を聴いて行うことです。信仰に伴って行いが表れてくるのであって、その逆ではありません。

 エフェソ教会は当時、非常に大きな力ある教会でした(一説では数万人規模)。その影響力は教会内だけにとどまらず、魔術を行っていた者たちが皆、魔術の本を焼き捨て(使徒19:19)、地域全体が偶像礼拝を捨てるほどの変革をもたらしました。それほど力ある教会であったにもかかわらず、主はエフェソ教会に対して「あなたは初めの愛から離れてしまった(黙示2:4)」と警告されました。この「初めの」と訳されている原語はプロートスで「第一の」という意味です。これは第一の戒め、すなわち神を愛する愛です。たとえどんなに大きな業を行ったとしても、主を愛することなしに為された業は無益なのです(Ⅰコリント13:1~3)。

 私たちは、行いの大切さを覚えつつも、すべてを、主を愛して行いましょう。(よ)

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