2024年12月22日「拒否した人々、受け入れた人々」
2024年12月22日「拒否した人々、受け入れた人々」
拒否した人々、受け入れた人々
「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:11~12 新改訳2017)
先日、とても興味深い体験をしました。説教演習のカリキュラムの一環で、先生と神学生の前で説教したのです。実はその前日、深沢教会の礼拝でまったく同じ説教を語っていたのですが、結果はぜんぜん違っていました。自分の実感もさることながら、両方とも録画されていたので、見比べてみたのです。深沢教会での説教は、生き生きと喜びに溢れて語っていました。一方、神学校での説教は、いのちが感じられませんでした。何が違ったのでしょう?ひと言で言えば、神学校での説教は「礼拝ではなかった」のです。私の前で説教を聴いている神学生や先生は、真剣に聴いてはいるものの(深沢の皆さんとは)その目的が違ったのです。彼らは、私が語るメッセージに「アーメン!」と同意して、神を礼拝しようとはしませんでした。ただ批評するために聴いていたのです。言い換えれば、初めから受け入れるつもりのない聴衆だったのです。
もちろん、神学生にとって説教の実践的な学びは重要です。語る表情、言葉づかい、説教内容について批評し、改善点を指摘し合うことは大切な学びであり、この授業の意義を否定するつもりは毛頭ありません。ただ私は、これほどまでに会衆によって説教が変わってしまうのかと、驚いたのです。これは私にとって大きな発見でした。いかに日ごろ、素晴らしい会衆(皆さんのことです!)に囲まれているかを、あらためて主に感謝しました。
本日、クリスマスを迎えました。私たちの罪を身代わりに負うために、十字架で死なれるために、天から救い主イエス様が来て下さったのです。けれども当時、多くの人々が救い主を拒否しました。その状況は今も続いています。日本でクリスチャンは1%以下と言われます。しかし「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」のです。ハレルヤ!!! 私たちがイエス様を受け入れることができた幸いを、今ひとたび主に感謝したいと思います。(よ)
