2025年1月26日「不信仰の力」
2025年1月26日「不信仰の力」
不信仰の力
「イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。」(マルコ6:4~6)
本日のタイトルを見て、「えっ、まちがいでは?」と思われたかもしれません。もちろん、私たちは信仰に生きようと歩む群れです。不信仰とは関りあいたくないですね(笑)。確かに信仰には力があります。信じる者には主が共に働かれるので、主イエスの御名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇を掴み、毒を飲んでも害を受けず、病人に手をおけば癒されるのです(マルコ16:17~18)。けれども本日の御言には、人々の不信仰ゆえに、あのイエス様でさえ何も奇跡を行うことができなかった、とあります。これは重大な警告です。不信仰には確かに大きなマイナスの力があるのです。
では不信仰とはいったい何でしょうか?私たちは何となく「信じる力が不足していること」「疑うこと」と考えがちです。けれども本日の御言によると、そうではありません。イエス様の故郷の人々は、まず①自分たちはイエスを知っている、と言いました。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか(マルコ6:3)」。次に彼らは②イエス様を馬鹿にしました。「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか・・(中略)・・この人は大工ではないか」(マルコ6:2b~3a口語訳)。これを私たちに当てはめてみますと、①自分は信仰歴が長いから、分かっている。②(過去の経験から)祈っても答えられるとは限らない(神の力を見くびっている、馬鹿にしている)となる。すると、本当に祈りは答えられず、主の御業は顕されないのです。何と恐ろしいことでしょうか、、、。
逆に言えば、この二つさえ注意すれば大丈夫なのです。祈りが聞かれる信仰とは「微塵も疑わずに信じる」ということではないと思います。祈りながらも疑いは来る。恐れも来る。それでもひたすら主を信頼し、求め続ける。決して主の力を見くびることなく、「人にはできないが、神にはできる(マタイ19:26)」と信じて祈り続ける。そのときに主の御業は顕されると信じます。(よ)
