牧師室より3
牧師室より3
※過去のものは右サイドのメニューバーの下の方の「牧師室より1、2」をご覧ください。
2024年9月9日 月曜日
おはようございます。
明日ではなく、今日を生きましょう。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
明日大変なことがあるとなると、わたしたちは今日から、いや、もっと前から思い悩んでしまいます。その日一日だけでよいことを、何日も苦労することになってしまいます。
神さまを信頼して、明日のことは神さまのお任せして、わたしたちは今日の苦労に集中しましょう、とイエスさまは言われます。
いざ今日の苦労に取り組んでみると、予想していたより軽くて済むかもしれません。
明日のことを思うこと自体がかならずしもよくないというわけでもありません。
明日に希望を置くならば、明日は今日よりさらに良い日になると信頼するなら、
明日の喜びを今日から味わうことができるでしょう。
明日は地獄のような日になるのではないかと思い煩うよりも、
わたしたちを救ってくださる神さまを信頼して
明日は天国のような日になるという希望に満たされようではありませんか。
2024年9月8日 主日(日曜日)
おはようございます。
わたしたちは神さまに何を求めるべきなのでしょうか。
マタイ6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
たまには少しおいしいものも食べたいし、たまには少しおしゃれなものも着てみるのもよいと思いますが、毎日毎日高価なおいしいもの、ぜいたくな衣類を求めなくてもよいのです。
わたしたちの心はそんなものではなく、神さまと御言葉によってこそ満たされるのです。
もっとも、ふつうに生きていくレベルの衣食住をわたしたちにもたらしてくださることについては、神さまは心を配っていてくださいます。ただ、残念ながら、今日のそれにことかく方々もおられます。それは、その人たちの責任ではありません。人間社会、わたしたちの矛盾のせいです。神さまはこれに心を痛めておられます。
わたしたちの社会が、神さまの御心と神さまの正義に基づこうとするならば、格差と貧困は今よりも減るのではないでしょうか。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
神さまは、わたしたちの心の空白を、神さまの国と神さまの義によって満たしてくださいます。
今日の礼拝においても、神さまが、わたしたちの全身を満たしてくださることでしょう。
2024年9月7日 土曜日
おはようございます。
思い悩まなくてもいいよ。
イエス・キリストはこう言われます。
マタイ6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
野の花をじっと見ると、野の花の美しさがわかります。
野の花を咲かせる神さまの、いのちのお働きがわかります。
わたしたちも同じように神さまに創っていただいたことがわかります。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
わたしたちの人生はときに儚(はかな)いように思えますが、
じつは、神さまがともにいて、神さまに包まれているのです。
野の花とともに、この神さまを信頼いたしましょう。
すべてをお委ねいたしましょう。
神さまはかならずや、受け止めてくださいます。
2024年9月6日 金曜日
おはようございます。
いろいろ心配です。どうしたらよいでしょうか。
マタイ6:25 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
わたしたちは、自分の体調のことを思い煩いますが、神さまが、今、ここに生命を与えてくださっていることを忘れていないでしょうか。生かしてくださっていることを忘れていないでしょうか。
わたしたちは、何を着ようかと思い煩いますが、神さまが、この体を与えてくださっていることを忘れていないでしょうか。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
人間の目から見れば鳥は何もしていないように思えるかもしれません。
けれども、神さまはその鳥を養ってくださっています。
神さまは、あの鳥と同じように、わたしたちに命と体をくださり、今日一日も養ってくださいます。
この神さまにすっかりお委ねいたしましょう。
2024年9月5日 木曜日
おはようございます。
神さまとお金と、どちらが大事でしょうか。
マタイ6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
お金は、生活の必要に応じて「使う」ことはあっても、わたしたちはお金に「仕え」てはなりません。
生活に必要なお金よりもずっと多くのお金を必死に求めたり、神さまがおられることよりもお金があることに安心を求めてしまったりするのであれば、それはお金を主人とし、お金に仕えてしまっているのです。
わたしたちがこのような意味でお金を「愛する」のであれば、実質的に、神さまを「憎む」ことになります。
お金に親しむのであれば、神さまを軽んじることになります。
はんたいに、神さまに親しむのであれば、お金のことをそんなに重視せずに済むのです。
神さまご自身は、お金に対するわたしたちの強欲さを憎み、わたしたち自身を愛してくださいます。
神さまはお金への強欲を軽んじ、わたしたちに親しんでくださいます。
イエス・キリストは、お金ではなく、神さまとわたしたちの僕(しもべ、「仕える者」)となってくださいました。それが、キリストの誕生と生涯と十字架です。
2024年9月4日 水曜日
おはようございます。
わたしたちは何に心を傾けるべきなのでしょうか。
マタイ6:22 体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。
わたしたちのライフ(いのち、人生、生活)の光、そして、ともし火は、神さまであり、イエス・キリストです。
わたしたちが目を向けるべきは、あるいは、心を向けるべきは、この光でありともし火である、神さまであり、イエス・キリストであるのです。
けれども、わたしたちは、人を憎んだり、自分の虚栄心を満たそうとしたり、思い煩ったり、そちらにばかり心を奪われてしまいます。
憎悪も虚栄心も思い煩いも、無視せずに、自分の心の一部として承認することは大切ですが、これらに心のすべてを持っていかれ、神さま、イエス・キリストを忘れてしまうと、わたしたちにはともし火も光もなくなってしまいます。
反対に、神さま、イエス・キリストに心を傾ければ、わたしたちの内側に、イエス・キリストというともし火、神さまという光があることに気づくことでしょう。
2024年9月3日 火曜日
おはようございます。
わたしたちのまことの富とは何でしょうか。
マタイ6:19 あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
お金、財産、名誉、人間関係、能力(と呼ばれるもの)は、大切な場合もありますが、わたしたちの欲望とも結びつき、永遠ではなく、簡単になくなってしまうものでもあります。神さまではなく、そのようなものをわたしたちの根本の支えにしてしまっていないでしょうか。
6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
けれども、神さまがわたしたちにくださるまことの富は、わたしたちの根本の支えであり、けっして朽ちることがありません。
その富とは、神さまがともにいてくださること、神さまがこのわたしを無条件に愛してくださること、神さまがわたしを平和で満たしてくださることであり、この神さまの恵みに感謝するわたしたちの信仰、信頼、感謝、服従のことではないでしょうか。
2024年9月2日 月曜日
おはようございます。
神さまはわたしたちに「報い」を与えるお方なのでしょうか。
6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
この「報い」は「復讐」や「罰」のことではなく、良い意味での「報い」でしょう。
けれども、それは、せいぜい、人から「あの人は断食をして、偉いなあ」程度のことなのです。
イエスさまは、ここで「偽善者」について言っているのですから、そもそも、良い意味であっても「報い」などは「偽善者」が期待するもの、だと思っておられるのではないでしょうか。
6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
ここでも、イエスさまは「報い」という言葉を使っておられますが、それは、偽善者に言及した流れのことで、本当に言われたいことは、「父が見ていてくださる」ということではないでしょうか。
「断食」などの善行をすれば(人は見ていなくても)神さまは報いてくださる、ということではなく、わたしたちが神さまに心を注ぎ込むとき、ひたすら神さまに心を傾け祈りに集中するとき、神さまはそれを聞き見ていてくださる、ということではないでしょうか。
神さまだけは見ていてくださいます。
それは善いことをしたことへのご褒美としての報いではなく、野の花、空の鳥をつねにご覧になる神さまの、根本的かつ最高の、無条件の恵みなのです。
2024年9月1日 主日(日曜日)
おはようございます。
わたしたちは神さまから赦されているから、わたしたちも人を赦すのでしょうか。
それとも、わたしたちが人を赦すから、わたしたちも神さまから赦されるのでしょうか。
マタイ6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
わたしたちは人の過ちを赦せないような罪人です。
それにもかかわらず、神さまはイエス・キリストを信じる者を赦してくださいます。
しかし、それでもなお、わたしたちが人の過ちを責め立てることを当然とし続けるのなら、
せっかく神さまがわたしたちをお赦しくださったことも、
わたしたちの中で生かされないのではないでしょうか。
神さまはたしかに罪人であるわたしたちをお赦しくださいました。
神さまのその赦しがわたしたちの中で生きるように、
わたしたちも人の過ちを赦せる心を神さまに祈り求めましょう。
人を赦そうと試みつつ、
神さま、人を赦す平安でわたしたちを満たしてください、
と祈り続けましょう。
2024年8月31日 土曜日
おはようございます。
苦しい試練を乗り越えるにはどうしたらよいでしょうか。
マタイによる福音書6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。
イエスさまは、荒れ野で誘惑を受けた際に、神さまの言葉によって、それを乗り越えられました。
石をパンに変える誘惑には「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」、
神さまを試みる誘惑には『主を試してはならない』、
世界を手に入れようとする誘惑には『ただ主に仕えよ』という御言葉で乗り越えられました。
つまり、イエスさまは、神さまとその御言葉にお委ねすることで、試練を乗り越えられたのです。
しかし、わたしたちは悪いことに見舞われたとき、いますぐこの苦しみを自分の力でなんとかしてしまいたい、神さまの御手にそのことがらと自分を委ねきれない、という誘惑に陥ってしまいます。
けれども、この苦しみと誘惑にまさるお方がここにおられ、この方の平安がじつはここにあることに気づき、苦しみや誘惑ではなく、この平安に心身を委ねられるように祈りましょう。
2024年8月30日 金曜日
おはようございます。
神さまがわたしたちを赦してくださる。わたしたちが人を赦す。どちらが先なのでしょうか。
マタイによる福音書6:12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
主の祈りで「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」ととなえるとき、そこには、「わたしは自分を傷つけた相手を赦していない」という後ろめたさがないでしょうか。
神さまがわたしたちの罪をお赦しくださったのだから、わたしたちも少しでも人を責めずに赦したい、という方が、理解しやすいのではないでしょうか。
けれども、イエスさまは、あえて、この順番で教えてくださいます。
これに従うならば、まず、わたしたちの負い目、罪を自覚して、神さまに、赦してください、と切に祈ることが大切です。神さまへの祈りがさきにあるのです。
そして、「わたしたちも・・・赦しましたように」は、神さまに赦していただくための交換条件にも思えますが、それ以上に、わたしたちが人を赦そうとする思いの大切さを示しているのではないでしょうか。
「わたしたちも『少しでも』人を責めずに赦したい」という言葉には、「それはなかなかできないし、できなくても仕方がない」という逃げが潜んでいるようにも思われます。
わたしたちは、神さまに「わたしを赦してください」と祈り求める切実さで、「人を責めずに赦そう、それが神さまの御心だ」という信仰的な情熱をも、目下の人間関係において発揮するのがよいのです。
2024年8月29日 木曜日
おはようございます。
神さまはわたしたちにどんな糧をあたえてくださるのでしょうか。
マタイによる福音書6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
「必要な糧」とあるところを「日ごとの糧」とする翻訳もあります。
これは、どんなものでしょうか。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ4:4)というイエスさまのお言葉とあわせれば、「わたしたちの毎日を支えてくださる神さまの御言葉」と考えることもできるでしょう。
あるいは、
「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した」(マタイ14:19-20)
この御業は、神さまとイエスさまは、わたしたちをパンで満たす、という御心をお持ちである、ということを示しています。
イエスさまのこの御業、御心とあわせれば、「必要な糧」「日ごとの糧」は「毎日を生きるのに必要な食糧」のこととも考えられるでしょう。
いずれにせよ、イエスさまが「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈ることを教えてくださった背景には、御言葉と食糧をわたしたちにわかちあう、という神さまとイエスさまの御心があります。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
と、信頼の内に、今日も祈りましょう。
2024年8月28日 水曜日
おはようございます。
イエスさまはわたしたちに、どのように祈るように教えてくださったのでしょうか。
マタイ6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。 6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
まず、自分の願いではなく、神さまのことをたたえます。
神さまは、天におられるお方であり、わたしたちの創造者であることを、賛美いたします。
賛美しながら、神さまに呼びかけるのです。
そして、わたしたちの名前、わたしたちの名声ではなく、神さまがあがめられますように、と祈ります。
「御心が行われますように」とは、直前にある「御国が来ますように」とほぼ同じことでしょう。
天に満ちている神さまの御心、つまり、愛、平和、救い、赦しが、地上にも満ち溢れますように、と祈るのです。
2024年8月27日 火曜日
おはようございます。
どのように祈ればよいのでしょうか。
マタイによる福音書6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。
あの人はあんなにすばらしい祈りをする人だ、とほめられたいゆえに、人目に付くところで祈る人がいたようです。
わたしたちは、人とともに祈るときは、ほめられたいという虚栄心を持たないことは当然ですが、自分は祈りが下手だから・・・と恐れる必要もありません。
祈りは、友を思い祈るものでもあり、もし、その友が横でともに祈っていれば大きな慰めになりますが、祈りを向ける相手は神さまであり、人の耳を気にする必要はないのです。ただ、神さまだけに向かって祈りましょう。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
「異邦人」とありますが、この場合、「異邦人」は神さまへの信頼が薄い人のたとえのように思われます。
信頼していないから、くどくどと祈ります。
イエスさまは、「神さまは、あなたがたの願望をかなえる」とは言われませんでした。
「神さまは、あなたたちが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われたのです。
わたしたちの具体的な願望がいつも実現するとは限りません(実現すると、よいですし、うれしいですが)。
けれども、神さまは、わたしたちが祈る前から、わたしたちに必要なものをご存じです。
ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた、「患者の詩」と呼ばれる詩が思い出されます。
「世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった
人生を享受しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた」
この「願いはすべて聞き届けられた」という言葉は、イエスさまの「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」というお言葉と、響き合っていると思われます。
2024年8月26日 月曜日
おはようございます。
善行とは人に見せるものではありません。
マタイによる福音書6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
「自分は善いことをしている、それを人に見てもらいたい」という時点で、それは、すでに善行ではなくなっています。
また、善行は、神さまからご褒美をいただくためにするものでもありません。
善行は、たしかに神さまとのつながりにおいてなされますが、
それは、神さまへの感謝と、神さまの御心に従うことのあらわれなのです。
たとえ話のことではありますが、あるサマリア人が強盗に襲われていた人を助けたのは、誰かに見てもらうためでも、神さまからご褒美をいただくためではありません。
それは、自分が神さまに愛されていることへの感謝であり、倒れている人を起き上がらせる神さまの御心に従うためだったと思います。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
神さまは、たしかに、わたしたちを見ていてくださいます。
しかし、それは、監視のためでも、優劣の評価のためでもなく、わたしたちを愛するためです。
神さまが見ていてくださる。これは、わたしたちが何かをなす前から受けている、神さまからの「報酬」というよりも、愛なのです。
神さまがそこにいて、見ていてくださる。
これが、神さまがわたしたちになしてくださる最高の善行です。
神さまがイエスさまを遣わして、インマヌエル(神ともにいます)を実現してくださったのは、わたしたちが何か善いことをしたことへのご褒美ではありません。
その前から、イエスさまはわたしたちのところに来てくださり、ともにいてくださるのです。
わたしたちは、この恵みに感謝して、自分以外の人を自分と同じように大事にするという神さまの御心に従えるように、祈り続けましょう。
2024年8月25日 主日(日曜日)
おはようございます。
イエスさまは、どうして、「敵を愛しなさい」と言われるのでしょうか。
マタイによる福音書5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
イエスさまがこのように言われるのは、神さまが敵を愛するお方だからです。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
これにはふたつの意味があります。
ひとつは、神さまが悪人や正しくない者を愛されるのだから、わたしたちもそれにならう、悪人や正しくない者を愛することが神さまの御心だから、わたしたちも御心に従うということです。
もうひとつは、わたしたちの中にも悪人や正しくない者の側面がある、つまり、わたしたちは神さまと隣人をじゅうぶんには愛せず傷つけてしまう罪人であるにもかかわらず、神さまが愛してくださるから、わたしたちもこの神さまに従うということです。
ただし、悪人や正しい者、敵を愛するということは、その暴力をかわさないで受け続けることとは違います。相手のなすひどいことから自分を守りながら、それでいて、相手を根本から裁き捨てることをしないことが大切だと思います。
2024年8月24日 土曜日
おはようございます。
右の頬を打つ者には左の頬をも向けるとはどういうことでしょうか。
マタイ5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
「目には目を、歯には歯を」とはどういうことでしょうか。
自分がひどいことをされたらそれと同じことをやり返す、
あるいは、
自分がひどいことをされても自分がされた以上のことはやり返さない
という解釈があります。
いずれにせよ、自分が傷つけられても報復をしない、ということでしょう。
では、「右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい」はどうでしょうか。
これには、
自分が傷つけられても、やりかえさない、もっとやられることになっても、やりかえさない、
という解釈がありますが、
最近、つぎのような新しい解釈を聞きました。
右手で相手の右の頬を打つ場合、手の甲で打つことになります。
それは、自分より低いとみなす相手にする行為だそうです。
ところが、右手で左の頬を打つ場合は、手の平で打つことになります。
これは、対等な者同士でなされるものだそうです。
つまり、イエスさまは、自分を上から見下す相手に対して、対等な関係を求めるように教えてくださっておられるというのです。
イエスさまは、ご自分を傷つける相手に傷つけ返しませんでした。
わたしたちは、神さまのお心を傷つけてばかりですが、神さまはわたしたちに罰で報復するようなことをなさいません。傷つきながらも、わたしたちをお赦しくださいます。
イエスさまは、また、わたしたちを上から見下すのではなく、横に立ち、ともに歩いてくださいます。
イエスさまは、わたしたちと頬を打ちあうのではなく、
頬を手の平でふれあう友となってくださいました。
2024年8月23日 金曜日
おはようございます。
「わたしは必ずこれを成し遂げます」などと誓ってはならない、とイエスさまは言われます。どうしてでしょうか。
マタイ5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
「昔の人は」とあるのは、たとえば、旧約聖書のレビ記19:12に、神さまは「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない」と戒められた、とあります。
けれども、イエスさまは「偽りの誓い」だけでなく「誓いそのもの」を禁じられました。
なぜなら、たとえば、「わたしは必ず100点をとってみせます」というのは、わたしたち人間の思いに過ぎないからです。人間が自分のしたいことを自分の力でやろうという人間の欲望に過ぎないからです。
そこに、「天にかけて」「地にかけて」などと、神さまの名前を勝手に持ち出してはならないのです。
そういう意味で、イエスさまは「一切誓いを立ててはならない」と言われるのです。
けれども、イエスさまは、つぎのように言われました。
5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。
これは、どういうことでしょうか。
たとえば、十戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とあります。
これは、わたしたちの思いではなく、神さまの御心です。
わたしたちは、神さまの御心に従って、「然り、そういたします」「はい、そういたします」とお答えすることは許されているのです。
また、「盗んではならない」とあります。
これも、根本的には、神さまの御心です。
わたしたちは、この神さまの御心に従って、「はい、盗みません」とお答えすることは許されているのです。
ところが、これは「盗んではなら『ない』」という否定文の御心であり、日本語では「はい、盗みません」となるところを、聖書の言葉では、英語のように、否定文に同意する場合は、「いいえ。わたしは盗みません」となるようです。
「否、否」「いいえ、いいえ」とは、神さまの「(いいえ、あなたは~)してはならない」という御心に従う言葉なのです。
2024年8月22日 木曜日
おはようございます。
イエスさまは「離婚はいけない」と言っておられるのではありません。
マタイによる福音書5:31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。5:32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。
この場合の離縁とは、自分の都合で妻を追い出すことです。
離縁状という紙を一枚持たせさえすれば、一方的に追い出すことが正当化されたのです。
その女性がこれから生きるすべも衣食住もなくても構わないということです。
離縁状は、この女性はもはや誰からの所有物ではない、という証明書と言われています。
つまり、離縁状によって、この女性は、モノとして追い出され、モノとして別の人に所有されることを待つ状態に置かれるわけです。
イエスさまは、それを批判しておられるのです。
神さまは、わたしたちを奴隷やモノとして扱うことなど、けっしてなさらないのです。
神さまは、神の子として、神さまがいのちをわかちあってくださった大切なパートナーとして、わたしたちを大事にしてくださいます。
イエスさまは、これを教えてくださるのです。
2024年8月21日 水曜日
おはようございます。
わたしたちは人をモノのように見ていないでしょうか。
マタイ5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
わたしたちは、商品カタログを見るような目で、人を見ていないでしょうか。
そして、商品を欲しがるように、人を自分の所有物にしたがっていないでしょうか。
そのとき、わたしたちは、人を人ではなく、モノとしてしまっています。
けれども、イエス・キリストはそうではありませんでした。
マタイ6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
キリストは、名もない、シンプルな花びらの、一輪の花の奥にも、目に見えない美しさを見出されました。
美的感覚において美しいというのではなく、存在することが美しいと言われるのです。
キリストは、わたしたち、人間をも、そのまなざしで観てくださいます。
わたしたちをモノとしてではなく、いのちとして見てくださり、わたしたちがここにいる、それ自体が美しいと言ってくださるのです。
2024年8月20日 火曜日
おはようございます。
わたしたちは、人を殺しさえしなければ、それでよいのでしょうか。
マタイ5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
イエス・キリストは「律法や預言者を完成する」ために来られました。
それは「殺すな」という戒めを「人に腹を立てひどい言葉をぶつけるな」というところまで深めることでもあります。
けれども、イエス・キリストは、ここで、裁きや厳罰を受けることへの警告だけを述べられたのではありません。
5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
イエス・キリストは、ただ人を殺さなければよい、ということだけでなく、人との争いをやめて、平和に生きる道を示しておられるのです。
さらには、それが、神さまの前でお祈りするときの大事な供え物になる、とキリストは言われるのです。
礼拝の中で、「平和のあいさつ」をたがいに交わすことがありますが、それは、わたしたち同士が平和になって、それを神さまに献げる、という意味もあるのではないでしょうか。
イエス・キリストは、わたしたちを殺さず、むしろ、シャロームをくださいます。
だから、わたしたちもたがいに殺さず、主からいただいたシャロームを交換し合い、それを主にお献げするのです。
2024年8月19日 月曜日
おはようございます。
イエス・キリストは旧約聖書をどうなさったのでしょうか。
マタイによる福音書5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
イエス・キリストが「律法や預言者を」「完成する」とはどういうことでしょうか。
イエス・キリストが「律法や預言者」と言われるとき、それはわたしたちの感覚で言えば「旧約聖書」を意味しますが、それを「完成する」とは、イエス・キリストは旧約聖書に現れている神さまの御心を実現するということでしょう。
わたしたちを創造し、わたしたちとともにおられ、わたしたちを救うという神さまの御心を、イエス・キリストが成し遂げるということでしょう。
また、イエス・キリストは、殺すな、盗むな、安息日を守れ、というような戒めの源にある、神さまの御心にわたしたちを立ち帰らせてくださるということでありましょう。
さらには、何百もある律法の条項を、「神を愛し、人を愛する」ということに凝縮することで、イエス・キリストは律法を完成なさったのです。
2024年8月18日 主日(日曜日)
おはようございます。
わたしたちが「世の光」である、とはどのようなことなのでしょうか。
マタイによる福音書5:14 あなたがたは世の光である。 5:16 あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
この「立派な行い」とは、皆が「その人」のことを称賛するような行いのことではないでしょう。
むしろ、その人のことには人びとは何も気づかなくても、「ああ、神さまはおられるのだな」と思うような行いのことではないでしょうか。
言い換えますと、人びとに「立派である」と思われないような人を通して、人は神さまと出会うのではないでしょうか。
イエスさまの地上での行いも「立派である」などとは言われませんでした。
むしろ、十字架刑で葬り去られたのです。
けれども、人びとは、イエス・キリストの、そのような十字架を通して、神さまを知るようになったのです。
わたしたちの、人に知られない小さな行い、己を誇示しない行いを通して、神さまはご自身とご自身の愛をお伝えになるのです。
2024年8月17日 土曜日
おはようございます。
わたしたち人間だけでなく、動物も、この世界のすべても、神さまが創ってくださいました。
詩編147:8 主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え/山々に草を芽生えさせられる。147:9 獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば/食べ物をお与えになる。
神さまは、大地も、山々も、獣も、烏(からす)も、養っておられるのです。
147:10 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。147:11 主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。
神さまは、ご自分の創られたもの(被造物)に、「勇ましさ」や「速さ」、つまり、「優秀さ」を望まれません。
神さまが被造物に望まれることは、神さまを畏怖することです。
つまり、怖がるのではなく、自分の小ささを知りつつ、神さまの大きさを尊ぶことです。
神さまは、わたしたちを慈しんでくださり、
わたしたち、被造物は、神さまを畏怖し、ほめたたえ、さんびいたします。
2024年8月16日 金曜日
おはようございます。
わたしたちが「地の塩である」とはどういうことでしょうか。
マタイによる福音書5:13 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。
神さまとイエス・キリストがいらしてくださるから、わたしたちは人生をゆたかに生き、そのゆたかさを人にももたらし、人を愛することもできるようになります。
けれども、わたしたちが、神さまやイエス・キリストから離れてしまえば、わたしたちは神さまなしの貧しい人生を過ごすことになり、人を愛することも忘れてしまいます。
わたしたちは塩であり、神さまとイエス・キリストは塩気であり、神さまとイエス・キリストに基づく愛が塩味です。
地の塩とは、神さまとイエス・キリストの愛を地の人びととわかちあう者のことではないでしょうか。
神さまがわたしたちを、人びとに愛をわかちあう者としてくださるのですから、わたしたちはそれを自覚して、感謝して、それに応じて、生きていきたいと祈ります。
2024年8月15日 木曜日
おはようございます。
わたしたちはどうして神さまを賛美するのでしょうか。
詩編147:1 ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。
147:2 主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。
147:3 打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。
エルサレムの都はバビロニア軍によって破壊され、人びとは追いやられましたが、
神さまは都を再建し、追いやられた人びとを集めてくださいました。
それと同じように、神さまは、わたしたちの心が打ち砕かれたときも、お癒しくださり、わたしたちの心の傷を包んでくださいます。
それは、宇宙と世界を創造してくださった神さまがそうしてくださるのです。
147:4 主は星に数を定め/それぞれに呼び名をお与えになる。
147:5 わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。
147:6 主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。
全世界を創造してくださった神さまが、その創造のお力で、
小さく、弱く、心を打ち砕かれたわたしたちを励まし、
慰め、起き上がらせ、希望をお与えくださるのです。
2024年8月14日 水曜日
おはようございます。
マタイによる福音書5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
平和とはどういうことでしょうか。
ローマの信徒への手紙5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。
「義とされる」ということは「神さまから受け入れていただく」ということですから、ここでの平和も、同じく、神さまから受け入れていただくことでありましょう。
エフェソの信徒への手紙2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。
テサロニケの信徒への手紙一5:23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。
そうすると、神さまとわたしたちの間に平和をもたらしてくださるのは、キリストご自身であり、神さまご自身であることがわかります。
では、聖書の言う平和とは、神さまとわたしたちの関係、心の平安のことだけを言っているのでしょうか。
詩編120:7 平和をこそ、わたしは語るのに/彼らはただ、戦いを語る。
122:7 あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。
このように、聖書では、平和は戦いがない状態のことをも意味します。
そして、心の平安も、社会の平和も、神さまがわたしたちを受け入れてくださる平和に基づいています。
神さまの平安を心に満たしながら、戦争をする者がいるでしょうか。
人と言い争う者の心が、神さまの平安に満たされているでしょうか。
平和を実現するとは、神さまとわたしたちの間の平和を、わたしたちと他の人との関係に、国と国との関係に反映させることではないでしょうか。
平和という神さまの御心に従うとき、わたしたちは神さまの子とされる幸い、祝福を受けるのです。
2024年8月13日 火曜日
おはようございます。
この社会の中で、神さまの御心はどんなことにあるのでしょうか。
詩編146:6 とこしえにまことを守られる主は 146:7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち 146:8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し146:9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。
神さまは、わたしたち人間に対して、永遠に誠実なお方です。
ですから、わたしたちが虐げられるときは、正義の裁きをしてくださいます。
飢えているときは、パンをお与えくださいます。
不当に捕らわれているときは、解放してくださいます。
わたしたちの目が見えなくなれば、目を開いてくださいます。
わたしたちがうずくまれば、起き上がらせてくださいます。
わたしたちが、外国に住み、寄留者となるときは、守ってくださいます。
わたしたちがみなしごややもめになったときは、励ましてくださいます。
これが、社会における神さまの御心です。
わたしたちは、この神さまの御心に従い、
虐げられている人、飢えている人、捕らわれている人、目の見えない人、倒れている人、在日外国人、寄留者、孤児、寡婦を、つねに想い、つねに祈り、このことで主がお用いくださるのなら、従う者となれるように、祈り求めます。
2024年8月12日 月曜日
おはようございます。
どうすれば、わたしたちの心は清くなるでしょうか。
マタイによる福音書5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
わたしたちは、自分ひとりの力では、心を清くすることはできません。
けれども、それを言い訳にして、心が清くなくてよいわけでもありません。
神さまは、わたしたちの心を清くしようとしてくださいます。
ガラテヤの信徒への手紙5:22 霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。
霊が実を結ぶとは、神さまが、そして、イエス・キリストがわたしたちの心の中に実を結んでくださるということです。
キリストがわたしたちの心を愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という清いもので満たそうとしてくださるのです。
これがなければ、わたしたちの心には「姦淫、わいせつ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴」(ガラテヤ5:20-21)しかありません。
わたしたちは自分の心のこれらのものに打ち克って、キリストのくださる清い心を、つねに意識しながら、迎えいれようではありませんか。
自分の「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心」のなすがままになるのではなく、キリストのくださる霊の実りにこそ、わたしたちの運転手になっていただくのです。
2024年8月11日 主日(日曜日)
おはようございます。
わたしたちが、本当に依り頼むべきお方はどなたでしょうか。
146:3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
146:4 霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。
わたしたちは、適度に人に支えられ、適度に人の力を借りることは、とても大切ですが、この世の支配者、権力者、王を、わたしたちの根本の頼みにすることはできません。
なぜなら、ひとつは、それらの者も、人間であり、神さまに造られたもの、被造物であり、それら自身は永遠ではないからです。
もうひとつは、人間をあてにしすぎると、神さまを信頼することを忘れてしまうからです。
146:5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人 146:6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。
わたしたちが根本の信頼をおくべきお方は、天地とそこにあるもの、そしてわたしたちを創造してくださった神さまです。
神さまこそがわたしたちの揺るがぬ土台となってくださるのです。
2024年8月10日 土曜日
おはようございます。
「憐れみ」は、「わたしは~に~してあげる」ということではありません。
マタイによる福音書5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
「憐れむ」とは、「かわいそうだ」と思う相手に何かを「してあげる」ことではありません。それでは、自分を相手より「上」だと思い、自分は「やさしい」人間だとする傲慢とかわりがありません。
そうではなく、「憐れむ」とは、相手の「貧しく」(5:3)「悲しみ」(5:4)「柔和で」(へりくだって)(5:5)「義に飢え渇いている」(5:6)姿に、自分の心も、貧しく、悲しく、へりくだり、義に飢え渇くことではないでしょうか。貧しさ、悲しみ、どん底、枯渇を、相手とわかちあうことではないでしょうか。
神さまはわたしたちを、そのようなまことの意味で、憐れんでくださいました。
だから、わたしたちも、高いところからの「おなさけ」ではなく、自らを低くして、人の痛みを知ることができるように、静かに祈り続けたいと思います。
2024年8月9日 金曜日
おはようございます。
神さまが治めてくださる神の国では、神さまはわたしたち「ひとりひとり」とともにいてくださいます。
詩編145:13 あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。
145:14 主は倒れようとする人を「ひとりひとり」支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。
神さまは世界を永遠に治めてくださいますが、それは、「上から」「全部まとめて」「集団として」「支配する」ことではありません。
神さまは、わたしたち「ひとりひとり」が倒れるときは、「ひとりひとり」をお支えくださり、
「ひとりひとり」がうずくまるときは、「ひとりひとり」を起こしてくださいます。
2024年8月8日 木曜日
おはようございます。
「義に飢え渇く」とはどういうことでしょうか。
マタイによる福音書5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
「義」は、神さまの義、神さまの救い、神さまの正義、という意味にもとれますし、
神さまの義に応じた、人間の義、神さまの御心に沿った生き方、人間の正義、という意味にもとれます。
「飢え渇く」は、神さまの義や人間の義が欠乏して困窮している状態、それゆえにそれを必死に求めることのようにも思われますし、義が欠乏しているかどうかにかかわらず、義を愛し、義を慕い求めることでもあるのではないでしょうか。
この義の飢え渇きは満たされる、とイエス・キリストは言われます。
それは、
詩編107:9 主は渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たしてくださった。
と旧約詩人が歌い、
また、
ルカ1:53 主は、飢えた人を良い物で満たしてくださいます
とマリアが賛美したとおりです。
神さまは、今の渇きをやがて潤いに、今の空白をやがて充実に変えてくださいます。
この約束を信じるとき、わたしたちはすでに満たされ始めています。
2024年8月7日 水曜日
おはようございます。
神さまは、わたしたち人間だけでなく、神さまが創造された「すべてのもの」を愛しておられます。
詩編145:8 主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。 145:9 主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
この世界のすべてのものは、神さまの恵みと憐れみをいただいています。
「すべてのもの」の中には、こんなに小さく、弱く、罪深いわたしも含まれます。
「すべてのもの」の中には、わたしが親しくない人びとも含まれます。
「すべてのもの」の中には、あらゆる動物、植物も、あるいは、山も、川も、海も含まれます。
神さまがそのように愛してくださるわたし自身、他の人々、この世界を、 わたしたちも、だいじにだいじにいたしましょう。
2024年8月6日 火曜日
おはようございます。
マタイによる福音書5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
「柔和な」という言葉はどういう意味なのでしょうか。
この日本語そのものがあまり使われていないのではないでしょうか。
辞書には「性質や態度が、ものやわらかであること」「性格や性質などが穏やかなさま」などとあります。
また、聖書協会共同訳では「へりくだった」とあります。
そうしますと、傲慢でない、攻撃的でない姿勢のことでしょうか。
ここの箇所では、イエスさまに従う者のことが述べられています。
そうであれば、わたしたちは、自分を相手より上においたり、相手を自分より下においたりしてはならないでしょう。そのような構えは、イエスさまに従う者にはふさわしくありません。
また、わたしたちは、自分や人に対して攻撃的である人に対しては、はっきりと否を唱え、抵抗しなければなりませんが、それが攻撃的になることは極力避けなければなりません。
乱暴な言葉をぶつけられ、それに抵抗する場合でも、できるだけ柔和に応答、返答できるようになりたい、と切に祈り続けましょう。
2024年8月5日 月曜日
おはようございます。
神さまはどのようなお方なのでしょうか。
詩編144:1 【ダビデの詩。】主をたたえよ、わたしの岩を/わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方を 144:2 わたしの支え、わたしの砦、砦の塔/わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ/諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。
神さまは、岩のように揺るぎません。この方とつながっていれば、わたしたちは嵐に揺さぶられても、吹き飛ばされることはありません。
神さまは、大きな岩のように、わたしたちを雨風、直射日光から守ってくださいます。
神さまは、人生を生き抜くすべを教えてくださいます。
神さまは、わたしたちを支えてくださり、防波堤となってくださいます。
神さまは、そのもとに、わたしたちを避難させてくださり、人生の困難を乗り越えさせてくださいます。
2024年8月4日 主日(日曜日)
おはようございます。
マタイによる福音書5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
人に傷つく、病気をする、仕事で難しいことがある、大切にしていたことが壊れてしまう、想いが届かない、自分中心すぎる・・・人生には、いくつかの悲しいことがあります。
イエス・キリストを信じて生きようとするが、それがうまく行かない、人に伝わらない、自分の中にも信仰の仲間の中にもイエス・キリストと正反対の姿が見える・・・信仰には、いくつかの悲しいことがあります。
けれども、イエスさまは、これは幸いだ、と言ってくださいます。
「その人たちは慰められる」からです。
神さまが、イエスさまが、悲しむわたしたちを慰めてくださるからです。
いまのその悲しみは、やがて慰めに変わります。
いまのその悲しみは、どうじに、慰めでもあります。
なぜなら、悲しみのときにこそ、主が慰めてくださるからです。
2024年8月3日 土曜日
おはようございます。
神さまはわたしたちの叫びを聞いてくださいます。
詩編142:2 声をあげ、主に向かって叫び/声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。142:3 御前にわたしの悩みを注ぎ出し/御前に苦しみを訴えよう。
神さま、わたしはこんなに苦しいです。
神さま、どうか、どうか、助けてください。
わたしたちは、神さまに叫んでよいのです。
神さまは、この叫びをかならず聞いてくださり、
わたしたちと、ともに苦しんでくださり、
そうして、わたしたちを、かならず救ってくださいます。
2024年8月2日 金曜日
おはようございます。
イエス・キリストがおっしゃる幸いとは、どのようなことでしょうか。
マタイによる福音書5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
「心の貧しい」とは、どういうことでしょうか。
「心が不安である」「心が充実していない」「心が満たされない」ということでしょうか。
あるいは、「謙虚である」「傲慢でない」「心に神さまと隣人を受け入れるスペースがある」ということでしょうか。
これに続く節では、「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え乾く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」が挙げられ、11節では「わたしのためにののしられ、迫害され、悪口を浴びせられる」とあります。
これは、イエス・キリストのうしろについて行こう、従って生きていこうとする人びとのことではないでしょうか。
イエス・キリストに従って、神さまの愛の御心に信頼しつつ、自分も少しでもそのように生きようとするとき、わたしたちは、「自分は、自分は」という傲慢を捨て、心を貧しくせざるを得ません。心が飽満であれば、イエスさまも神さまも隣人も迎えることはできません。
「自分は自分は」という思いを捨てて、心を貧しくして、イエスさまと神さまと隣人をお迎えする。なんと幸いなことでしょうか。
また、イエス・キリストに従って歩もうとするとき、わたしたちは、その難しさに直面します。「ああ、自分はしっかりイエスさまのあとについて生きている」「ああ、神の国がしっかり人びとに伝わっている」という充実感は、めったに得られることはなく、自分の不実をつねに思い知らされ、宣教の困難に日々直面します。心が貧しくならざるをえません。心は満たされません。むしろ、不安にさらされます。
けれども、これが「天の国」「神の国」にいたる道であるならば、わたしたちはこの貧しさにあっても、神さまとイエスさまと隣人に支えられ、この道を歩きぬくことができるのです。なんと幸いなことでしょうか。
「主に従いゆくは、いかに喜ばしき みあとをふみつつ うたいてすすまん」♪
2024年8月1日 木曜日
おはようございます。
わたしたちの祈りは、神さまへのささげものです。
詩編141:1 【賛歌。ダビデの詩。】主よ、わたしはあなたを呼びます。速やかにわたしに向かい/あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。141:2 わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし/高く上げた手を/夕べの供え物としてお受けください。
わたしたちは、神さまに立派なものをおささげすることはできません。
わたしたちの行いも、信仰も、じつにちっぽけなものです。
けれども、神さまは、わたしたちの祈りと、
祈りの手、そして、賛美の手を、
ささげものとして、受け取ってくださいます。
神さまに何もおささげできなくても、祈りをおささげいたしましょう。
いや、祈りこそが、最上のささげものなのです。
わたしたちが祈りにおいて、心身を神さまにお委ねする。
これが、神さまがもっとも喜ばれるささげものなのです。
2024年7月31日 水曜日
おはようございます。
イエスさまが弟子たちに教えるとき、どうして、山に登られたのでしょうか。
マタイによる福音書5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
旧約聖書では、モーセが山に登り、神さまの御言葉である十戒を聞き、それを民に伝えました。
イエスさまの場合も、山に登られたことは、そこで語られることが神さまの御言葉であることを意味しています。
それゆえに、イエスさまは新しいモーセ、新しい戒めの授与者であるとも考えられるかもしれません。
けれども、イエスさまとモーセの違いは、
ひとつは、イエスさまの場合は、ご自身が弟子たちに直接語りかけられることです。
イエスさまの口から出る言葉は、そのまま、わたしたちに命をくださる神さまの御言葉なのです。
もうひとつは、律法学者たちによって形骸化させられてしまった律法を、イエスさまは、その根本から、もう一度語ってくださる、という点です。
たとえば、「安息日を守る」という戒めは、「人は六日間働いて、神さまの創造を思い起こし、神さまを礼拝しつつ、心身を休息させる一日を過ごす」という主旨から離れて、「仕事と見なされることはとにかく何が何でも何もしてはならない」ということが杓子定規に言われるようになっていました。
けれども、イエスさまは、これを、「働いて疲れた人の命を守り、回復させる日」として、安息日に人びとの病気や障がいを癒すことを、まったくためらわれませんでした。
イエスさまは、安息日であろうと、なかろうと、その御言葉によって、わたしたちをお癒しくださいます。
イエスさまの御言葉は、わたしたちに結果をもたらしてくださるだけでなく、その口から発せられ、わたしたちがそれを聞いて慰められるとき、それは、すでに救いなのです。
御言葉がそのときもたらしてくださる慰め、励まし、希望が、すでに、癒しであり、救いなのです。
2024年7月30日 火曜日
おはようございます。
神さまは、わたしたちの罪、傲慢、攻撃性だけでなく、わたしたちの悩みも迷いも、不安も恐れも、苦しみも痛みも、すべて知っていてくださいます。
詩編139:23 神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。139:24 御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。
そして、わたしたちを、永遠なるお方であるご自身に招いてくださり、赦し、謙遜、柔和を、さらには、平安と慰め、なによりも、救いへと導き続けてくださいます。
2024年7月29日 月曜日
おはようございます。
イエスさまはガリラヤでどのようなことをなさったのでしょうか。
マタイによる福音書4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
イエスさまは、律法の根本的な意味を教え、また、自分の内面を深く見つめることを教えてくださいました。
また、神さまこそがわたしたちの王として愛で治めてくださる、そのような神さまの国が来る、といううれしい知らせを伝えてくださいました。
さらには、人びとの病気や苦悩をお癒しくださいました。
聖書を通して、祈りを通して、聖霊によって、イエスさまは、今日も、わたしたちのガリラヤで、そうしてくださいます。
2024年7月28日 主日(日曜日)
おはようございます。
神さまの恵みはどれくらいすばらしいものなのでしょうか。
詩編139:17 あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。139:18 数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。
神さまの恵みは数えきれません。
けれども、数量の問題だけでなく、
それは、貴いもの、最高質のものなのです。
どんなに苦しいときでも、
神さまの恵みとは思えない出来事に見舞われても、
そのような苦難の時でも、
わたしたちは「あなたの中」つまり「神さまの中」にいます。
人生のいかなる時でも、神さまがわたしたちを包みこんでくださる、抱きかかえてくださる、
これにまさる恵みはないでしょう。
2024年7月27日 土曜日
おはようございます。
マタイによる福音書4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。
「人間をとる漁師」になるとは、どういうことでしょうか。
この少し前に、イエスさまは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われました。
これは、「この世界を本当に治めておられるのは神さまであることに気づいて、自分や人のことではなく、神さまに心を向けなさい」と言うことです。
「人間をとる漁師」とは、人びとをこのように促す人のことではないでしょうか。
まず、イエスさまご自身がそのようなお方です。
イエス・キリストは、わたしたちの心を神さまに向けてくださいます。
「すぐ網を捨てて従う」とは、時間的な速さよりも、このイエス・キリスト、そして、神さまへの全面的な信頼を意味しているのではないでしょうか。
わたしたちが、根本において信頼すべきは、魚を捕る網ではなく、人間的な手段や方法でもなく、わたしたちをその手で捕ってくださるイエス・キリスト、そして、神さまなのです。
2024年7月26日 金曜日
おはようございます。
わたしたちの内臓を造り、母の胎内に組み立ててくださったのは、神さまです。
詩編139:13 あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
神さまは、わたしたちの創造者であり、根本、根源なのです。
139:14 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。
この世界に存在するもの、生命、人間は、みな、驚くべきものです。
それを創造してくださった神さまの力も、驚くべき アメージングなものです。
わたしたち人間はこのことをよく知っています。
神さまのことを知るのは、わたしたちの魂です。
心の奥に魂があるから、わたしたちは神さまを知ることができるのです。
これを、霊と呼ぶこともあります。
139:15 秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。
被造物、生命、そして、わたしたちのもっとも深いところには、神さまの創造、愛の泉があるのです。
2024年7月25日 木曜日
おはようございます。
イエス・キリストの最初で最重要のメッセージは何でしょうか。
マタイによる福音書4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
「天の国」とは「神の国」のことです。
「神の国」とは、「世の中がどんなに暗くても、あなたの心がどんなに重くても、この世界とあなたの心を、ほんとうに治めておられるのは、神さまです」という意味ではないでしょうか。
「治める」とは「上から支配する」ことではなくて、「愛による配慮を中心にしてくださる」ことでしょう。
あなたは今苦しいけれども、そのような神さまの国が、ここにありますよ。
「悔い改めよ」とは、「そのことに心を向けましょう」ということではないでしょうか。
心は、嫌なこと、苦しいことにばかり向いてしまうけれども、
神さまが世界とあなたを愛で配慮してくださる、
世界の中心には、嫌なこと、苦しいことではなく、愛による配慮がある、
このことに、心を向けましょう、
嫌な思い、苦しい思いばかりでなく、神さまの愛による配慮に心を向けましょう、
とイエス・キリストは言ってくださるのです。
2024年7月24日 水曜日
おはようございます。
神さまは、どんな時でも、わたしたちの光です。
詩編139:11 わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」 139:12 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。
人生の夜においても、神さまが光となってくださいます。
たとえ、わたしたちが闇夜にいても、神さまという光がありますから、闇ではありません。
イエス・キリストは、神さまがわたしたちに遣わしてくださった光です。
この主、光の主がともにおられますから、どんな夜でも、どんな闇でも、歩き続けることができるのです。
2024年7月23日 火曜日
おはようございます。
高い地位に立ったり、多くの財産を所有したり、人から称賛されたりしたいですか。
マタイ4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
世界のすべてを手にするような人は、神さまではなく悪魔にひれ伏しているのではないか、とこの話は問いかけています。
程度の差はあれ、自分を人より上に置こうとするとき、わたしたちは神さまから心が離れ、悪魔とは言わなくても、すくなくとも、自分の欲望にひざまずいていないでしょうか。
けれども、イエスさまは、そうではなく、ただ神さまにお仕えしましょう、と、わたしたちを導いてくださいます。
イエスさまに導かれ、神さまにお仕えしようとするときにだけ、わたしたちは自分の虜になってしまうことから解放されるのです。
2024年7月22日 月曜日
おはようございます。
神さまはどこにおられるのでしょうか。
詩編139:7 どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。139:8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。
わたしたちがどこに行っても、神さまはわたしたちから離れないでくださいます。
わたしたちが幸せなときも、神さまはそこにおられ、
わたしたちが苦しいときも、神さまはそこにおられます。
わたしたちが、地上の旅を終え、死と呼ばれる世界に行くときも、
神さまはそこにおられ、わたしたちを天国に導いてくださいます。
139:9 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
139:10 あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
わたしたちが、地上の旅において、ここからどこか遠いところに行くことになっても、
神さまはそこにおられます。
神さまは、わたしたちの手を取って、旅を導いてくださり、たどりついたところでは、手を取って、迎えてくださいます。
2024年7月21日 主日(日曜日)
おはようございます。
わたしたちに好ましいことをしてくれる。こういう理由で、わたしたちは神さまを信じる、信頼するのでしょうか。
マタイによる福音書4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」 4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
こういうことを祈り求めたのに神さまはそうしてくれなかった。こういう理由で、神さまを信じるのをやめる、信頼するのをやめるのであれば、それは、神さまはこれこれこういうことをしてくれるか試してみよう、というのと同じことです。
親は子どもが望むすべてのことをするわけでもないし、できるわけでもありません。それでも、そこには、信頼関係がありえます。
これと同じように、わたしたちが神さまを信頼するのは、神さまがかならずしも何かをしてくださるからではありません。
神さまは、もっと根本的なところで、わたしたちを愛し、見捨てず、かならず救う、というお心を持っていてくださる、これゆえに、わたしたちは神さまを信じるのです。信頼するのです。
2024年7月20日 土曜日
おはようございます。
詩編139:1 主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
神さまはわたしたちのすべてを知っておられます。
わたしたちの罪、偽り、虚栄だけでなく、わたしたちの苦しみも悩みも、すべて知っていてくださいます。
139:2 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
わたしたちが座っている時も立っている時も、神さまはわたしたちがそこにいることを、そして、わたしたちの思いを知っていてくださいます。
139:3 歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしたちが歩く時も横になる時も、神さまはわたしたちを知っていてくださいます。
139:4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。
わたしたちが自分の思いを言葉に言い表せない時も、神さまはわたしたちの思いを知っていてくださいます。
139:5 前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。
神さまは、わたしたちのまわりをすっかり守ってくださり、上からは祝福を注いでくださいます。
2024年7月19日 金曜日
おはようございます。
わたしたちをまことに生かしてくれるものは何でしょうか。
マタイによる福音書4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
パンを手にできない人びとがたくさんいます。
一日を生きていくためのパンは必要です。
イエス・キリストは、そのことを否定しておられません。
むしろ、皆にパンが行きわたることを切に祈り求めておられます。
わたしは、イエスさまのこの言葉から、みっつのことを感じます。
ひとつは、イエスさまは、石をパンに変える力を自分のためには用いられなかったということです。
お力をご自分のためには使われないのです。
にばんめに、イエスさまが、わたしたちに伝えてくださることは、石がパンに変わるという不思議なこと以上に、神さまがわたしたちに語りかけてくださる御言葉である、ということです。
さんばんめに、わたしたちには、基本的な生活のパンが必要ですが、わたしたちを根本で支えてくださるものは、「おそれるな、わたしがともにいる、あなたをこよなく愛している、あなたに平安がありますように」という神さまの御言葉である、ということです。
2024年7月18日 木曜日
おはようございます。
詩編138:1 【ダビデの詩。】わたしは心を尽くして感謝し/神の御前でほめ歌をうたいます。
ダビデは何ゆえに、神さまをほめたたえる歌を歌うのでしょうか。
138:3 呼び求めるわたしに答え/あなたは魂に力を与え/解き放ってくださいました。
ダビデは、どんなことを神さまに呼び求めたのでしょうか。
138:7 わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
神さまは、わたしたちが苦難の中を歩いていても、わたしたちを支えてくださいます。
138:6 主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。
神さまは、ご自分だけの高いところにおられるのではなく、わたしたちの苦しみをたしかに見てくださり、ここまで来てくださいます。
2024年7月17日 水曜日
おはようございます。
イエス・キリストが洗礼をお受けになったことにはどのような意味があるのでしょうか。
マタイによる福音書3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
神の御子キリストが、わたしたち人間と同じ肉体を持つイエスとしてこの地上にお生まれになったのは、わたしたちと同じところに立ってくださるためです。
わたしたちが受ける洗礼をイエスさまが受けたのも、わたしたち人間と同じ経験をその身に受けてくださるためではないでしょうか。
イエスさまが洗礼を受けると、天が開け、聖霊が鳩のように降りてきて、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの声が聞こえてきました。
イエスさまはわたしたちと同じように洗礼を受けられたのですから、そのイエスさまが洗礼を受けられたときにイエスさまに起こったことは、わたしたちの洗礼においても起こるのではないでしょうか。
わたしたちが洗礼を受けるときも、天国はわたしたちに向かって開かれ、聖霊が注がれ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの声が聞こえてくるのです。
わたしたちは、イエスさまとともに、神さまに愛されています。
そして、イエスさまが神さまの御心に沿って歩まれたように、わたしたちも神さまの御心に少しでも沿って生きるように招かれているのです。
2024年7月16日 火曜日
おはようございます。
詩編136:1 恵み深い主に感謝せよ。
詩人は、神さまの「恵み」を、どのようなものだと言っているのでしょうか。
136:5 英知をもって天を造った方に感謝せよ。
136:6 大地を水の上に広げた方に感謝せよ。
136:7 大きな光を造った方に感謝せよ。
まず、神さまは、世界、宇宙を創造なさったお方です。
136:10 エジプトの初子を討った方に感謝せよ。
136:11 イスラエルをそこから導き出した方に感謝せよ。
神さまは、イスラエルの民をエジプトから救い出されたお方です。
136:16 イスラエルの民に荒れ野を行かせた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
神さまは、民の荒れ野の旅を導かれたお方です。
136:23 低くされたわたしたちを/御心に留めた方に感謝せよ。
神さまは、起き上がれないでいるわたしたちを御心に留めてくださるお方です。
神さまは、今日も明日も、わたしたちが生きる世界を創造してくださり、わたしたちの荒れ野の旅を励ましてくださり、人に抑えつけられたり、顧みられなかったりするわたしたちを愛してくださるお方なのです。
2024年7月15日 月曜日
おはようございます。
イエス・キリストの幼少期に起こった死と生の出来事は何を物語っているのでしょうか。
マタイによる福音書2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
占星術の学者たちが「ユダヤ人の王」と呼んだイエス・キリストの誕生に、ヘロデ王は不安になり、同じ年ごろの子どもたちを虐殺してしまいました。殺される人びと、子どもたちの泣き声は、現代も続いています。わたしたちは、忘れず、祈り続けましょう。
2:19 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、
2:20 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」
2:21 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。
ヨセフはイエスとマリアとともにエジプトに避難しました。
この1300年前、生まれたばかりのモーセがファラオの死の手から守られたように。
ヘロデ王が死ぬと、家族とともに、イエス・キリストは、エジプトからイスラエルの地に戻ってきます。
これも、かつてモーセが民とともに、エジプトから脱出したことに重なります。
また、この物語は、イエス・キリストが、死から生への導き手、復活者であることを予告しているようにも読めます。
このように、マタイによる福音書は、イエス・キリストをモーセの再来的存在として描こうとしている、と考えられています。
イエス・キリストとモーセ。ふたりは神さまのしもべでした。
モーセは律法を神さまから受け取り民に伝えました。イエス・キリストは律法を深め、完成なさいました。
それは、どのような仕方だったのでしょうか。マタイによる福音書をさらに読み進めましょう。
イエス・キリストは、わたしたちを、死から生へと、いのちへと、導いてくださいます。
2024年7月14日 主日(日曜日)
おはようございます。
神さまはわたしたちをご自分の宝としてくださいました。
詩編135:4 主はヤコブを御自分のために選び/イスラエルを御自分の宝とされた。135:5 わたしは確かに知った/主は大いなる方
わたしたちがどんなに弱く、不誠実であっても、
あるいは、人から、どんなに悪く言われても、
神さまという大いなるお方は、
わたしたちのことを宝としてくださいます。
「選ぶ」とは「優れている者を選抜する」ことではなく、「神さまの方から手を伸ばしてくださる」ことなのです。
2024年7月13日 土曜日
おはようございます。
イエス・キリストは誰の救い主なのでしょうか。
マタイによる福音書2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
「占星術の学者たち」は、ユダヤ人から見たら外国人、異邦人でした。
「占星術」は「魔術」に通じ、これらは、旧約聖書では、悪いことと見なされていました。
歴代誌下33:6 彼はベン・ヒノムの谷で自分の子らに火の中を通らせ、占いやまじないを行い、魔術や口寄せ、霊媒を用いるなど、主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた。
つまり、イエス・キリストは、ユダヤの民だけでなく、異邦人の救い主、わたしたちの救い主、しかも、悪と見なされる人びとの救い主でもあるのです。わたしたちすべての救い主なのです。
イザヤ2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。2:2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい 2:3 多くの民が来て言う。
イエス・キリストの誕生よりも何百年も前、預言者イザヤは、神さまの救いの日である「終わりの日」には、「国々」「多くの民」、つまり、ユダヤだけではないもろもろの民がエルサレムを訪れる、と預言しました。
イエス・キリストが誕生したとき、当方から占星術の学者たちがエルサレムにやってきたことは、この日が、イザヤが預言した救いの日であることをも示していました。
イエス・キリストの誕生は、わたしたち、あらゆる人びとの救いの日でもあるのです。
2024年7月12日 金曜日
おはようございます。
神さまの祝福はどこにあるのでしょうか。
詩編133:1 見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
人と人とが、斥けず、争わず、ともにすわっているところに、神さまの恵みがあり、神さまからの喜びがあります。
人と人と人の中心には、神さまがおられます。イエス・キリストがおられます。
たとえ、自分ひとりしかいないように思える時でも、神さまがともに座っていてくださいます。
イエス・キリストがとなりに座っていてくださいます。
133:2 かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
133:3 ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。
そのとき、神さまの祝福が、天から注がれ、全身を芳香で満たしてくださいます。
とこしえなるお方が、わたしたちの手を離さず、いのちの力を送り続けてくださいます。
2024年7月11日 木曜日
おはようございます。
わたしたちと一緒にいてくださるために、神さまはイエス・キリストをわたしたちのところに送ってくださいました。
マタイによる福音書1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。
イエス・キリストの御言葉や御業(みわざ)を聖書で読むとき、そして、イエス・キリストを胸に抱いて祈るとき、神さまはわたしたちとともにいらしてくださいます。
神さまがともにいらしてくださることによって、一時は距離ができた、ヨセフとマリアも、ふたたび一緒にいることができるようになりました。
イエス・キリストによって、神さまはわたしたちとともにいてくださり、わたしたちは家族や友人や、あるいは、遠くにいる人たち、天に召された人たちとともにいることができるのです。
神さまを愛することと隣人を愛することが、聖書では並べられているように、神さまがともにおられることと人と人がともにいることも、聖書では深くつながっているのです。
2024年7月10日 水曜日
おはようございます。
わたしたちは、神さまを信頼せず、人を傷つけています。
これを、罪と呼びます。
詩編130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。
あの時の罪、この時の罪、数えればきりがありませんが、 わたしたちがこのように罪に染まっていることを、 根本から罪人であることを、 神さまに隠すことはできません。
わたしたちのこの罪に神さまが罰をくだされるのなら、 わたしたちは、誰一人、耐えることができません。
130:4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
130:8 主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。
けれども、神さまは、わたしたちを裁き捨てません。
神さまは、ふところに、赦しを抱きかかえておられます。
わたしたちをこの罪から赦そう、という御心が、神さまの奥底にはあります。
神さまは、わたしたちをこの罪から、きっと、救いだしてくださいます。
2024年7月9日 火曜日
おはようございます。
イエス・キリストはどういうお方なのでしょうか。
これからしばらく、マタイによる福音書の御言葉から学んでいきましょう。
天使はイエスさまの父ヨセフに言います。
マタイ1:21 「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
「イエス」という名前には「主は救い」という意味があります。
イエス・キリストは、わたしたちを、救ってくださるお方なのです。
「罪から救う」とありますが、「罪」とは、わたしたちが神さまから離れ、また、隣人から離れ、自分中心になっている状態のことです。
イエス・キリストは、この罪からわたしたちを救い、わたしたちを神さまのところに連れ戻し、隣人を愛する生活に導いてくださるのです。
それには、わたしたちはどうしたらよいのか、神さまはどのようにしてくださるのか。
マタイによる福音書のイエスさまの御言葉となさったことを通して学んでいきましょう。
2024年7月8日 月曜日
おはようございます。
奈落の底に落ちてしまったとき、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。
わたしたちのどん底からの叫びを聞いてくださるお方はどなたでしょうか。
詩編130:1 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
130:2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
苦しい、助けて、というわたしたちの叫びが誰にも届かないように思えても、
神さまだけは聞いてくださいます。
それが言葉になっていなくても、神さまは聞いてくださいます。
ローマの信徒への手紙8:26 わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
わたしたちの叫びや祈りが言葉にならず、ただうめくときも、聖霊ご自身がわたしたちとともにうめいてくださり、神さまはそのうめきを聞いてくださいます。
2024年7月7日 主日(日曜日)
おはようございます。
神さまは、わたしたち皆に、あらゆる「回復」を約束してくださいます。
エレミヤ書33:10 主はこう言われる。この場所に、すなわちお前たちが、ここは廃虚で人も住まず、獣もいないと言っているこのユダの町々とエルサレムの広場に、再び声が聞こえるようになる。そこは荒れ果てて、今は人も、住民も、獣もいない。
荒れ果てて、人も動物も住まなくなった町に、声がふたたび戻って来る、と神さまは約束してくださいます。
33:11 しかし、やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、『万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と歌う声が聞こえるようになる。それはわたしが、この国の繁栄を初めのときのように回復するからである。
その声は、神さまを賛美する歌声です。
神さまの恵みと、わたしたちの感謝、これがすべてです。
これが回復されるのです。
33:12 万軍の主はこう言われる。人も住まず、獣もいない荒れ果てたこの場所で、またすべての町々で、再び羊飼いが牧場を持ち、羊の群れを憩わせるようになる。
人がいなくなり、荒れ果てたとしか思えない場所にも、
イエス・キリストは、牧場を開き、羊の群れを、一匹一匹を憩わせてくださいます。
2024年7月6日 土曜日
おはようございます。
目からこぼれる涙の大粒は、アクセサリーではありません。
詩編126:5 涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
人はなぜ種を蒔きながら涙を流すのでしょうか。
それが木陰のない荒れ地での長時間労働だからでしょうか。
何もかも失い、今は、この種の実りを待つしかないからでしょうか。
それとも、涙は、じつは、種だからでしょうか。
涙こそが、喜びの収穫の種だからでしょうか。
涙は、やがて、歌に変わるのでしょうか。
それとも、涙はすでに歌なのでしょうか。
いまの涙、いまの悲しみ、いまの苦しみは、けっして絶望ではありません。
神さまは、わたしたちの涙、わたしたちの悲しみ、わたしたちの苦しみと、ともにいらしてくださいます。
そして、わたしたちの涙を喜びの種としてくださり、
この種を、かならず、喜びの歌にしてくださるのです。
2024年7月5日 金曜日
おはようございます。
新約聖書の新約は旧約聖書に始まっていました。
エレミヤ書31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
神さまは、イスラエルの民と「新しい契約」を結ぶ日が来る、と約束してくださいました。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
民が以前に結んだ契約を守れなかったにもかかわらずです。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
「新しい契約」はわたしたちの「胸の中」に授けられ、「心に」記されます。
神さまは、「わたしたちの神」になってくださり、わたしたちは「神さまの民」にしていただきます。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
神さまはわたしたちの罪をお赦しくださいます。
エレミヤのこの言葉は、イエス・キリストの生涯と十字架と復活によってすでに実現しています。
そして、やがて、これがすべての人びとにあきらかになる日が来るでしょう。
すべての人びとに、神さまがあきらかになる日がかならず来ることでしょう。
2024年7月4日 木曜日
おはようございます。
神さまは捕らわれたわたしたちを連れ帰ってくださいます。
詩編126:1 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。126:2 そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。
わたしたちは、迷い出たり、追い出されたりしますが、神さまがご自分のもとに連れ戻ってくださいます。
今から2600年前、バビロンの地に連れ去られたイスラエルの民はユダの地に連れ戻されました。
イエスさまは、一匹の羊を探し求める羊飼いに、あるいは、帰ってこようとする息子に駆け寄る親に、神さまをたとえました。
わたしたちは、今は神さまから離れているように思えても、神さまは、誰をも、かならず、探し求め、連れ戻してくださいます。
その時には、幸せな笑い声と喜びの歌が響き渡ります。
毎週の礼拝は、その日の先取りです。いや、その日そのものです。
神さまはわたしたちを連れ戻してくださいます。
わたしたちの家族、大事な人びとを、かならず連れ戻してくださいます。
2024年7月3日 水曜日
おはようございます。
神さまは、わたしたちの涙をぬぐってくださいます。
エレミヤ31:16 主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。
子どもたちが遠くに行ってしまったとき、あるいは、連れ去られてしまったとき、わたしたちの目には涙がたまったのですが、神さまは、それをぬぐってくださいます。子どもたちは神さまのところに、わたしたちのところに帰ってきます。
ヨハネの黙示録21:3 見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
悲しむ人、苦しむ人の涙をことごとく神さまがぬぐってくださる。これにまさる幸いはありません。
エレミヤ書31:17 あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。
神さまがかならず道を創ってくださいます。この道が、わたしたちの未来であり、希望なのです。
2024年7月2日 火曜日
おはようございます。
わたしたちが、ほんとうに依り頼むお方は、神さまです。
詩篇125:1主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る。
神さまは、とこしえに揺らぐことのないお方です。
このお方に依り頼めば、たとえわたしたちが揺らぐことがあっても、そのままつぶれてしまうことはありません。
125:2 山々はエルサレムを囲み、主は御自分の民を囲んでいてくださる。今も、そしてとこしえに。
山々が盆地を囲むように、神さまはわたしたちをたしかにお守りくださいます。
今日も、そして、とこしえに。
2024年7月1日 月曜日
おはようございます。
この悲しみはいつまで続くのでしょうか。
エレミヤ書31:13 そのとき、おとめは喜び祝って踊り/若者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変え/彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。
今は苦しいのですが、喜び、祝い、踊れる日が、かならず訪れます。
それは、若者も高齢者も、ともに、神さまを賛美し、礼拝する日でもあります。
神さまが、嘆きを喜びに、悲しみをお祝いに変えてくださるからです。
31:12 彼らは喜び歌いながらシオンの丘に来て/主の恵みに向かって流れをなして来る。彼らは穀物、酒、オリーブ油/羊、牛を受け/その魂は潤う園のようになり/再び衰えることはない。
神さまは、わたしたちの魂を恵みで潤してくださいます。
わたしたちは、神さまからの慰めと活力に満たされます。
2024年6月30日 主日(日曜日)
おはようございます。
たとえ、わたしたちの体が束縛され、心が閉じ込められてしまうことがあっても、神さまは、そこから解き放ってくださいます。
詩編124:6 主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。124:7 仕掛けられた網から逃れる鳥のように/わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。
神さまはわたしたちを縛る縄目をほどいてくださり、わたしたちの魂は、鳥のように神さまに向かってはばたくことができるのです。
124:8 わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある。
わたしたちを助けてくれるものは、自分の力でもお金でも名誉でも人間関係でもなく、神さまです。
広大な天地全体を創造された神さまが、今、わたしたちの小さな心にお越しくださり、わたしたちとともにおられ、わたしたちを助け、わたしたちを解き放ってくださるのです。
2024年6月29日 土曜日
おはようございます。
神さまはどのような人びとをご自分の民となさるのでしょうか。
エレミヤ書31:8 見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し/地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も、歩けない人も/身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。31:9 彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き/流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。
バビロン捕囚から解放され、ユダの地に帰り、神さまを礼拝することが許されるのは、特定の人びとではなく、すべての人びとでした。
目の見えない人も、歩けない人も、新しい命を宿している女性も、みんなです。
この数百年後、イエス・キリストは、目の見えない人びと、歩けない人びとを癒し、女性たちとともに歩まれました。
パウロは、「 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:27-28)と述べました。
神さまはすべての人の神さまです。
イエス・キリストはすべての人のキリストです。
神さまは、涙を流すすべての人を慰めてくださいます。
まっすぐな道とは直線のことではありません。
神さまとともに歩む道がまっすぐな道なのです。
この道を歩く者は、皆、たとえ、つまずくことがあったとしても、
何度でも、神さまが手を伸ばし、起き上がらせてくださいます。
2024年6月28日 金曜日
おはようございます。
戦争が終わるまで、平和を祈り求めましょう。
神さまはわたしたちの平安です。
神さまの平安をわたしたちの心にもっと感じられるように、祈り続けましょう。
詩編122:6 エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。122:7 あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」122:8 わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」
イスラエルとパレスチナ、ロシアとウクライナに平和が戻りますように。
人びとの町に平和が戻り、人びとの心に平安が戻りますように。
虐げられている人びとに平和が、苦しんでいる人びとに平安が戻りますように。
あなたとあなたの家族とあなたの友に、主のシャロームが満ち溢れますように。
2024年6月27日 木曜日
おはようございます。
わたしたちは何か暗く狭いところに閉じ込められていないでしょうか。
いつになったら、ここから出ることができるでしょうか。
エレミヤ書30:10 わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと/主は言われる。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から/お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない。30:11 わたしがお前と共にいて救うと/主は言われる。
2500年前、イスラエルの民はバビロンの地で捕囚となっていました。
けれども、神さまは民に、恐れるな、と言われ、そこから救い出す、と言ってくださり、じじつ、そうしてくださいました。
民は祖国に戻り、さらには、神さまのもとに戻り、安らかに、シャロームに生きることが許されました。
神さまは、わたしたちにも言ってくださいます。
「わたしがあなたと共にいて救う」と。
わたしたちはかならず解放され、救われます。
2024年6月26日 水曜日
おはようございます。
わたしたちの助けはどこから来るのでしょうか。
詩編121:1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 121:2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
讃美歌301番の「山べにむかいてわれ 目をあぐ、助けはいずかたより きたるか、あめつちのみかみより、 たすけぞわれにきたる」を愛唱する人は少なくないでしょう。
目を上げれば大きな山が見えますが、その背後には、目には見えないけれども、山とはまったくちがう意味で大いなる神さまがおられます。
わたしたちの助けはそこから来ます。
121:3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。
神さまは、たしかに、わたしたちを助け、足がよろめかないように支えてくださり、いつも目を開いてわたしたちを見守っていてくださいます。
2024年6月25日 火曜日
おはようございます。
神さまはすべての人を救ってくださいます。誰一人見捨てられることはありません。
エレミヤ書23:3 「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。23:4 彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。
イスラエルとユダの国は大国に滅ぼされ、イスラエルの民の一部は諸国に散らばることになりましたが、神さまはその民をかならずご自分の牧場に集めてくださいます。民はそこで神さまにつながって平安に生きるのです。
イエスさまもたとえ話をなさいました。
マタイによる福音書18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
わたしたちは人びとから斥けられることがあります。また、自分から、神さまから離れてしまうこともあります。
けれども、神さまはわたしたちの誰をも、例外なく、見つけ出し、神さまの愛が人と人をつなぐ世界へと導いてくださいます。
2024年6月24日 月曜日
おはようございます。
神さまはわたしたちの叫びにどのように答えてくださるのでしょうか。
詩編120:1 苦難の中から主を呼ぶと/主はわたしに答えてくださった。120:2 「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」
虚偽の言葉で苦しめる人がいて、この詩人の魂は張り裂けそうなのでしょう。
わたしたちも、人の言葉によって、苦しめられます。
そして、神さまに助けを求めます。
神さまはなんと答えてくださるでしょうか。
この詩には、詩人の訴えの言葉は記されていますが、神さまのお答えは書かれていません。
言葉としては書き記すことができなくても、神さまはわたしたちにお答えくださいます。
それは、わたしたち一人一人に合わせてくださったお答えなのです。
そして、神さまは目に見えないように、神さまは聞こえない言葉でお答えくださるときがあるのではないでしょうか。
それでも、神さまはわたしたちにお答えくださる。
すでに、そうしてくださっている。
それだけは、たしかです。
2024年6月23日 日曜日(主日)
おはようございます。
わたしたちが口にしなくても、神さまのお言葉は、わたしたちの体の真ん中で、生きておられます。
エレミヤ書20:9 主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
そして、わたしたちの苦しみや恐れや不安に、神さまのお言葉は打ち克ってくださいます。
20:11 しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき/勝つことを得ず、成功することなく/甚だしく辱めを受ける。
神さまがわたしたちと共にいてくださり、み言葉がわたしたちの内で燃えてくださいますから、わたしたちは、敵だけでなく、人生や世界の何ものをも恐れることはないのです。
2024年6月22日 土曜日
おはようございます。
わたしたちの人生の喜びは何でしょうか。
詩編119:14 どのような財宝よりも、あなたの定めに従う道を喜びとしますように。
神さまにしたがって生きることが、どんな財宝や名誉にもまさる喜びです。
いや、神さまがわたしたちを導いてくださる。
これは、この世の財産や称賛などと比べることができない、人生の喜びそのものです。
主がわたしたちとともいて、わたしたちを愛してくださる。
これこそが、わたしたちの人生のまことの喜び、まことの幸いです。
たとえ、何もなくても、主がおられます。
これがわたしたちの喜びです。
2024年6月21日 金曜日
おはようございます。
わたしたちのいやし、わたしたちの救いはどこから来るのでしょうか。
エレミヤ17:14 主よ、あなたがいやしてくださるなら/わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら/わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。17:15 御覧ください。彼らはわたしに言います。「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それを実現させるがよい」と。
神さまは助けてくださらないのか、と思えてしまうくらいに苦しいときも、エレミヤは、神さまがいやしてくださる、神さまが救ってくださると信じ、それゆえにこそ、神さまに強く祈り求めます。
わたしたちも、主が癒してくださるから、かならず癒されます。
信頼して祈り求めれば、主が救ってくださるから、かならず救われます。
2024年6月20日 木曜日
おはようございます。
人がわたしたちを斥けようとも、神さまはわたしたちを大切にしてくださいます。
詩編118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
118:23 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
イエス・キリストは、ご自分を斥けようとする祭司長、律法学者、長老たちに言われました。
マルコ12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』
詩編118編を引用なさったのです。
じじつ、人びとはイエス・キリストを十字架につけましたが、神さまはこのイエス・キリストを墓から復活させました。
わたしたちも、人生において、人から受け入れられなかったり、仲間内から斥けられたりすることがあるかもしれませんが、神さまは、わたしたちを大切にしてくださいます。
神さまはわたしたちをお見捨てにならない。
とわに、ともにいてくださる。
これは、神さまの驚くべき恵み、アメージング・グレイスです!
今日は、まさにその日です。
今日、神さまが、わたしたちとともにいてくださいます。
この日を心から喜び祝いましょう。
2024年6月19日 水曜日
おはようございます。
何も信じられない、誰も信じられない。このようにさえ思えてしまうこの世界で、わたしたちは何に信頼すべきなのでしょうか。
エレミヤ書17:5 主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は。17:6 彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく/人の住めない不毛の地/炎暑の荒れ野を住まいとする。
人を信頼することが悪いのではありません。そうではなく、誰かとの人間的な関係に過度に依存してしまい、相手に負担をかけ、また、根本では神さまに信頼することを忘れてしまうことが問題なのです。
17:7 祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。17:8 彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない。
わたしたちが根本で信頼すべきは神さまです。神さまがわたしたちのよりどころになってくださいます。
神さまはわたしたちの根に水をゆたかに送ってくださり、わたしたちは暑さから守られ、葉を青々と茂らせます。
干ばつを恐れることもありません。人がやさしくしてくれなくても憂(うれ)うことはありません。
神さまがわたしたちを潤してくださり、インマヌエルとシャロームの実を結んでくださるからです。
2024年6月18日 火曜日
おはようございます。
難しい問題がつぎつぎに迫ってきても、神さまがそれらを解決してくださいます。
詩編118:11 彼らは幾重にも包囲するが/主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
118:12 蜂のようにわたしを包囲するが/茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
''118:13 激しく攻められて倒れそうになったわたしを/主は助けてくださった。
''
わたしたちが倒れそうになっても、主が助けてくださいます。
118:14 主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。
118:15 御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
賛美の歌は、神さまの救いへの感謝であるだけでなく、
そこで歌われる御言葉は、わたしたちの砦であり、救いであり、主の右の手でもあるのです。
2024年6月17日 月曜日
おはようございます。
苦しいことに襲われるとき、どうしたらよいでしょうか。
エレミヤ書15:15 主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み/わたしを迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて/わたしが取り去られるようなことが/ないようにしてください。わたしがあなたのゆえに/辱めに耐えているのを知ってください。15:16 あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。
そのとき、わたしたちは神さまに祈りましょう。
わたしを顧みてください、この痛みから守ってください、
わたしがつぶれてしまうまえに助けてください、
わたしはもう耐えられないことをおわかりください、
と祈りましょう。
そして、もうひとつ。
神さまのお言葉、救いの言葉を必死に求め、
それを逃さないように、強く抱きしめましょう。
そうすれば、神さまの御言葉は、わたしたちの中にお越しくださり、
わたしたちの心は喜び踊るのです。
2024年6月16日 主日(日曜日)
おはようございます。
わたしたちは、自分の力や人やお金などによって助けられることもありますが、わたしたちの根本の支え、究極の支えは、やはり、神さまです。
詩編118:5 苦難のはざまから主を呼び求めると/主は答えてわたしを解き放たれた。
神さま、苦しいです!と叫べば、神さまは聞いてくださいます。
118:6 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。 118:7 主はわたしの味方、助けとなって/わたしを憎む者らを支配させてくださる。
神さまがわたしたちの味方なのですから、何も恐れることはありません。
118:8 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。 118:9 君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
困ったときに、わたしたちは人や実力者に助けてもらおうとしますが、それが度を越せば、わたしたちは、神さまにもっとも深い信頼を置くことを忘れてしまいます。
解決策や人を頼りにしすぎることなく、わたしたちは、神さまがなんとかしてくださる、とお委ねしたいと思います。
2024年6月15日 土曜日
おはようございます。
自分にはまだ無理だ、とおびえるとき、どうしたらよいでしょうか。
エレミヤ書1:6 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
このエレミヤの言葉に対して、神さまはこう言われます。
1:7 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。
1:8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。
自分にはまだ無理だ、と言ってはならないときがあります。神さまがなんとかしてくださると信頼して、やらなければならないことがあります。
「おそれるな。わたしが一緒にいる」
神さまはこうおっしゃってくださいます。
1:9 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。
わたしたちは、何も言えない、何も書けない、と苦しみますが、神さまは、わたしたちに、言うべき言葉、書くべき言葉をお与えくださいます。
2024年6月14日 金曜日
おはようございます。
死ぬ思いをするときも、涙がにじむときも、苦しめられるときも、神さまは助け出してくださいます。
詩編116:8 あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。
わたしたちは、この神さまを信頼して、生き抜きます。
116:9 命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。
116:10 わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも
116:11 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。
激しい苦しみに襲われているときも、不安が募るときも、人を信じられないときも、
わたしたちは、この神さまを信頼して、これからも生き抜きます。
2024年6月13日 木曜日
おはようございます。
神さまはいつからわたしたちのことを知っておられるのでしょうか。
エレミヤ書1:5 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」
生まれる時から、神さまはわたしたちをよく知っていてくださったのです。
生まれる時から、神さまはわたしたちと深くつながっていてくださったのです。
そして、神さまは、わたしたちひとりひとりを大事にし、神さまの言葉を慕い求める者にしてくださったのです。
神さまは、最初から、最後まで、いや、とこしえに、わたしたちとともにいつづけ、わたしたちとしっかりつながっていてくださるのです。
2024年6月12日 水曜日
おはようございます。
神さまはわたしたちの嘆きや祈りを聞いてくださるでしょうか。
詩編116:1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 116:2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
神さまはわたしたちの嘆きや祈りに耳を傾けてくださいます。 ですから、わたしたちはこの神さまを生涯呼び続けましょう。
116:3 死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして 116:4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
押しつぶされそうに苦しいとき、「主よ、わたしの魂をお救いください」と叫びましょう。
116:5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。 116:6 哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。
神さまは憐れみ深く、情け深いお方です。 神さまは、哀れな、弱り果てたわたしを救ってくださいます。
2024年6月11日 火曜日
おはようございます。
神さまはどのような人を顧みてくださるのでしょうか。
イザヤ書66:2主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。
神さまは今苦しんでいる人を顧みてくださいます。
イエス・キリストは言われました。
マタイ5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
神さまは霊の砕かれた人、心が押しつぶされそうな人、あるいは、自らをほこらずへりくだった人を顧みてくださいます。
イエス・キリストは言われました。
マタイ5:3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
神さまは神さまの言葉に深く敬う人を顧みてくださいます。
イエス・キリストは言われました。
マタイ5:8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
2024年6月10日 月曜日
おはようございます。
わたしたちの人生、毎日の生活の、まことの主人公は誰でしょうか。
詩編115:1 わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって。
神さまこそが、すべてのセンテンスの主語です。
わたしが御言葉を語るのではありません。神さまが語ってくださるのです。
わたしが自分の主張をするのではありません。神さまがその民に愛と救いを告げられるのです。
「神さまのために」と言いつつ、「わたしのために」していないでしょうか。
わたしたちは、運転席を完全に神さまにお委ねすることはできません。
けれども、「神さまのため」と言いながら「わたしのために」していることに気づくことはできます。
このことに、つねに、どこまでも、謙虚に気付きながら、「どこまでもわたしが、わたしが」のわたしですが、神さま、あなたの御用にお用いください、と祈ることはできます。
わたしたちが少しでも「ああ、わたしモード」になっているなと気づくときこそ、神さまにわたしの座をお譲りして、わたしたちではなく、神さまの御名が輝き始める時なのです。
2024年6月9日 主日(日曜日)
おはようございます。
神さまの国はいつくるのでしょうか。
イザヤ書65:19 わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
65:20 そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。
地上のすべての泣き声、叫び声がなくなる日が、かならずやってきます。
病気や事故や殺人や戦争で若死にする人がいなくなり、皆が長寿を祝える日が、かならずやってきます。
しかし、それは、いつなのかはわかりません。
けれども、わたしたちは、信仰と礼拝と祈りと希望によって、今日、その日を生きることがゆるされています。
わたしたちは、苦しみや悲しみに満ちたこの世界を生きていますが、わたしたちの礼拝と信仰と祈りと希望によって、いや、神さまのインマヌエルとアガペーとシャロームによって、今日、神さまの国を生きることが許されています。
礼拝は、まさに、地上にあらわれた神さまの国です。
主に招かれ、主の前に立ち、主から受け取り、祈れば、そこは神さまの国なのです。
2024年6月8日 土曜日
おはようございます。
神さまは天の高いところからただ下を見降ろしているだけなのでしょうか。
詩編113:4 主はすべての国を超えて高くいまし/主の栄光は天を超えて輝く。
113:5 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き
たしかに、神さまはわたしたち人間をはるかに超えるお方です。
神さまの栄光は空のドームにも収まりきれるものではありません。
113:6 なお、低く下って天と地を御覧になる。
けれども、その神さまが、わたしたちの生きるこの世界、空間、地上にまで降りてきてくださるのです。
なんのためにでしょうか。
113:7 弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中から高く上げ
113:8 自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。
それは、地面に倒れてしまった、わたしたち弱い者を起き上がらせてくださり、
苦しみと不安と怖れと罪にとらわれてしまっているわたしたちを、そこから導き出し、
神さまにつらなって生きる自由な者にしてくださるためなのです。
それが、神さまとイエス・キリストと聖霊のなさる救いの物語なのです。
2024年6月7日 金曜日
おはようございます。
神さまはすべてを新しくしてくださいます。
イザヤ書65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
時計や暦の上では、今日は昨日の続きですが、これまでのことに縛られることのない、まったくあたらしい心を、神さまはわたしたちに創ってくださいます。
今日は、神さまがあらたに作ってくださった新しい日、昨日とはまったく違う、まったく新しい日です。
今日のわたしたちの心には、昨日までの肉の思いを乗り越えさせてくださる、神さまのまったく新しい霊が注がれているのです。
たとえ、わたしたちが昨日に引きずられているように思えても、そのもっと深いところには、神さまの新しい霊が、泉のようにわいています。
古いものにひきずられず、神さまがくださるまったく新しいものに、わたしたちをお委ねいたしましょう。
2024年6月6日 木曜日
おはようございます。
神さまはわたしを見捨てたのではないか。
こう思ってしまうときがあるかもしれません。
神さまは、わたしたちのこの気持ちをそのまま受け入れてくださいます。
詩編108:12 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは/我らと共に出陣してくださらないのか。
わたしたちは人間的なもの、この世的なものばかりに助けを求めます。
それらはときに大きな助けになります。
けれども、それらは、絶対でも永遠でもなく、限界があります。
また、そららを過度に求めると、神さまの救いを忘れてしまうかもしれません。
108:13 どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。
108:14 神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。
神さまこそがわたしたちのまことの救いです。
神さまこそが、わたしたちの苦痛とむなしさ、絶望に打ち克ってくださいます。
この神さまの救いに支えられてこそ、わたしたちの考えも行動も生かされるのです。
2024年6月5日 水曜日
おはようございます。
神さまはご自分を求める者を受け入れてくださいます。では、そうでない者はどうなのでしょうか。
イザヤ書65:1 わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。
ここに、ひとつの希望があります。神さまを求めているようには見えない家族や友をも、神さまは救おうとしておられるのです。
65:2 反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた。
わたしたちとて、つねに神さまの方を向いているわけではありません。けれども、そのようなときでも、そのようなわたしたちにも、神さまは、「絶えることなく」手を差し伸べてくださいます。
わたしたちが求める前からわたしたちのところに来てくださる神さまご自身に支えていただきながら、わたしたちは、神さまを求め続けようではありませんか。
2024年6月4日 火曜日
おはようございます。
わたしたちの今の心の荒れ野はどうなるでしょうか。
詩編107:35 主は荒れ野を湖とし/砂漠を水の源とし
107:36 飢えていた人々をそこに住まわせ/人の住む町を固く立てられた。
神さまはわたしたちの心の荒れ野を静かな湖にしてくださいます。
心の砂漠をオアシスとしてくださいます。
神さまはわたしたちをこの平安に住まわせてくださいます。
107:37 彼らは野に種を蒔き、ぶどう畑を作り/作物を実らせた。
わたしたちは、この平安の地に、種を蒔き、ぶどうを実らせます。
107:38 主が祝福されたので彼らは限りなく増え/家畜も減らされることはなかった。
わたしたちに、そんなことができるでしょうか。
主が祝福してくださるので、わたしたちの心は耕され、
わたしたちは種を蒔き、ゆたかな収穫をいただくのです。
2024年6月3日 月曜日
おはようございます。
神さまを礼拝しに教会に来る人が少なくなりました。どうしたらよいでしょうか。
イザヤ書64:6 あなたの御名を呼ぶ者はなくなり/奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し/わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。
神さまを信頼して生きていこうと新しく信仰に入る人が極端に減ったのは、すでに信仰をいただいていたわたしたちが愛と喜びにあふれて生きていないからでしょうか。
64:7 しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業。
教会の礼拝に来る人が少なくなっても、神さまはわたしたちの創造者、導き手、わたしたちは皆主のもの、主は今日もわたしたちをあらたに創造してくださいます。
このことはけっして変わりません。
2024年6月2日 主日(日曜日)
おはようございます。
先週、はじめてコロナに感染しました。38度の熱と体の痛み、疲れ、のどの痛み、痰、咳などがありましたが、数日で収まり、しばらく休んでいた、この朝の聖書のメッセージも再開することができました。
神さまのお癒しと皆さまのお祈りに感謝いたします。
今苦しんでおられる方々を神さまがお守りくださいますようにお祈りいたします。
詩編107:28 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。
107:29 主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。
107:30 彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。
107:31 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
今日は、「望みの港」から、皆さんとともに主に感謝をささげます。
2024年5月29日 水曜日
おはようございます。
わたしたちはひとりで苦しんでいるのではありません。
イザヤ63:8 主は彼らの救い主となられた。63:9 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。
神さまはわたしたちの苦難をご自分の苦難としてくださいます。
そして、わたしたちを救ってくださいます。
神さまは、わたしたちをこよなく愛し、深く憐れんでくださいます。
憐れむとは、上から目線で「かわいそう」ということではなく、わたしたちと一緒に、わたしたちよりはるかに、心を痛めてくださることです。
神さまは、わたしたちの苦しみと苦しむ私たちを背負ってくださるのです。
2024年5月28日 火曜日
おはようございます。
神さまがわたしたちにしてくださったことを思い出せるでしょうか。
詩編107:1 「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と
107:2 主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い
107:3 国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。
神さまはわたしたちを苦しみから神さまのもとへと救い出してくださいました。
107:4 彼らは、荒れ野で迷い/砂漠で人の住む町への道を見失った。
107:5 飢え、渇き、魂は衰え果てた。
107:6 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから救ってくださった。
わたしたちは荒れ野で迷い、道を見失い、飢え、渇き、魂は消え入りそうでした。
しかし、苦しみの中から、神さまに助けを求めると、救い出してくださいました。
107:7 主はまっすぐな道に彼らを導き/人の住む町に向かわせてくださった。
107:8 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
神さまは、神さまに至る道をわたしたちのために敷いてくださいました。
慈しみ深い、この神さまのアメージングな御業に感謝いたします。
2024年5月27日 月曜日
おはようございます。
神さまはわたしたちをけっしてお見捨てになられません。
イザヤ書62:1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
神さまは、苦しむわたしたちを、黙って見過ごすお方ではありません。
たとえ、わたしたちが誰からも見捨てられたように思えても、神さまはわたしたちの光となって輝き、神さまの救いがわたしたちを照らしてくださいます。
62:3 あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。62:4 あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく/あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ/あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。
主は、御手の中で、わたしたちを何よりも大切にしてくださいます。
わたしたちは、誰からも捨てられた、のではありません。
わたしたちは、神さまから望まれる者、愛される者であり、神さまという最善の味方がいらしてくださいます。
2024年5月26日 主日(日曜日)
おはようございます。
わたしたちは神さまのどんなことを賛美するのでしょうか。
詩編105:1 主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。
105:2 主に向かって歌い、ほめ歌をうたい/驚くべき御業をことごとく歌え。
神さまは、エジプトで苦しむイスラエルの民を救い出されました。
105:39 主は雲を広げて覆いとし/火をもって夜を照らされた。
105:40 民が求めると、主はうずらをもたらし/天のパンをもって彼らを満足させられた。
105:41 主が岩を開かれると、水がほとばしり/大河となって、乾いた地を流れた。
105:42 主は聖なる御言葉を御心に留め/僕アブラハムを御心に留められた。
105:43 主は、御自分の民を喜びのうちに/選ばれた民を歓呼のうちに導き出された。
105:44 主は彼らに諸国の土地を授け/多くの民の労苦の実りを継がせられた。
わたしたちも、神さまがわたしたちにしてくださった数々のことを思い起こし、感謝の祈りをささげましょう。
神さまのその愛を、平安な言葉や態度で、人びとに伝えましょう。
2024年5月25日 土曜日
おはようございます。
ペンテコステ。聖霊がわたしたちの上に降りました。何のためにでしょうか。
イザヤ61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
イエスさまは、ナザレの会堂で、この箇所にふれました。
ルカ4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
イエスさまは神さまの霊に満ちて、わたしたちに「良い知らせ」=「福音」と、「主の恵み」を伝えてくださるのです。
イザヤ61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
そして、わたしたちも、このイエスさまと神さまの霊を受けて、悲しんでいる隣人に、神さまの慰めの言葉を伝えるのです。人の嘆きを喜びに変えるイエスさまと神さまのお働きにおともするのです。
2024年5月24日 金曜日
おはようございます。
神さまは、わたしたち人間だけでなく、自然界、世界のすべてを愛しておられます。
詩編104:10 主は泉を湧き上がらせて川とし/山々の間を流れさせられた。
104:11 野の獣はその水を飲み/野ろばの渇きも潤される。
104:12 水のほとりに空の鳥は住み着き/草木の中から声をあげる。
104:13 主は天上の宮から山々に水を注ぎ/御業の実りをもって地を満たされる。
神さまは、野の獣も野ろばも空の鳥も大地の植物も、水で潤されます。
104:14 家畜のためには牧草を茂らせ/地から糧を引き出そうと働く人間のために/さまざまな草木を生えさせられる。
104:15 ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ/パンは人の心を支える。
牧草は家畜を、植物はわたしたち人間を養い楽しませてくれます。
神さまは世界と自然をこのように創られましたが、それが今深刻な危機にあります。
ローマの信徒への手紙8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
被造物が、世界が、自然がうめき、苦しんでいます。
それがなぜ「産みの苦しみ」と呼ばれるのでしょうか。
8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
傷ついている世界の痛みを知り、聖霊がともにうめいてくださる。目に見えない救いを、忍耐しつつ、ともに待ち望んでくださる。だから、産みの苦しみ、と呼ばれるのです。
神さまが創られた世界の破滅的な危機の時代にあって、わたしたちも自然界の痛みをもっともっと知ろうとし、すべての被造物とともに、救いを求める祈りをともにしたいと思います。
2024年5月23日 木曜日
おはようございます。
わたしたちのまことの光は神さまです。
イザヤ書60:19 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。
60:20 あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。
頼りにしていた人がいなくなったように思えても、わたしたちの健康や力や財産が損なわれても、頼みにしていた自分自身が弱って行っても、神さまは、わたしたちのとこしえの光です。
わたしたちにたとえ何があっても、神さまはわたしたちを照らし続けてくださいます。
空の太陽は夕べには沈みますが、神さまという太陽はいつも天にありつづけてくださいます。
満月も欠けていきますが、神さまという月はつねに完全な円であり続けてくださいます。
神さまがわたしたちの永遠の光となってくださり、わたしたちの嘆きの日々は終わります。
2024年5月22日 水曜日
おはようございます。
わたしたちは、なにゆえに、神さまをたたえるのでしょうか。
詩編103:1 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。
103:2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
わたしたちは主の御計らい(おはから)をたたえるのです。
103:3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し
103:4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
103:5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。
103:6 主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。
わたしたちの罪を赦し、病をいやし、墓から贖いだしてくださり、慈しみと憐れみを頭から注いでくださり、良いもので満たしてくださり、いのちで満たしてくださり、苦しむ者とともにいらしてくださる。
これは、まさに、イエス・キリストのお姿です。 わたしたちは、この主、イエス・キリストを賛美するのです。
2024年5月21日 火曜日
おはようございます。
イザヤ書60:1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。
わたしたちは自分では光を放つことができません。
けれども、上から注がれる神さまの光はわたしたちを鏡として、他の人びとをも照らします。
60:2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。
わたしたち、友、そして、人びとの頭上には、暗い雲が立ち込めていますが、その向こうには、すでに、神さまの光が輝いています。
雲は、やがて、消え、神さまの光があらわになり、全地も、空気も、かがやきに満たされます。
2024年5月20日 月曜日
おはようございます。
神さまはわたしたちの祈りを聞いてくださるでしょうか。
詩編102:1 【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】
102:2 主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。
102:3 苦難がわたしを襲う日に/御顔を隠すことなく、御耳を向け/あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。
心がもう折れようとするとき、自分自身が消え入りそうなとき、しかし、わたしたちは主の前で、祈りを注ぎだします。
神さま、わたしの祈りを、友の祈りを聞いてください。
この叫びがあなたに届きますように。
わたしは苦しんでいます。
友が苦しんでいます。
神さま、どうぞ、耳を傾けてください。
いま、お答えください。
102:18 主はすべてを喪失した者の祈りを顧み/その祈りを侮られませんでした。
神さまは、すべてを失いそうで、ただ神さまに委ねるしかないわたしたちの祈りを顧みてくださいます。わたしたちの祈りを大切にしてくださいます。
56:9 あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に/それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。
神さまはわたしたちの嘆きを愛しんでくださいます。
わたしたちの涙を大切に大切に、革袋に蓄えてくださいます。
2024年5月19日 主日(日曜日)
おはようございます。
神さまはわたしたちと世を光で照らしてくださいます。
イザヤ58:9 軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら 58:10 飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。
けれども、わたしたちが人に重荷を負わせたり指を指したり呪いの言葉をはいたりすれは、それが神さまの光をさえぎってしまいます。わたしたちが飢えている人、苦しめられている人に心を配らないのなら、神さまの光はさえぎられ闇になってしまいます。
はんたいに、わたしたちが家族や周りの人や自分以外の人びとに心を向けるならば、神さまの光は闇の中に輝きます。
58:11 主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
神さまは、光となってわたしたちを導いてくださり、涸れることのない泉となって、わたしたちを潤し続けてくださいます。
2024年5月18日 土曜日
おはようございます。
賛美の歌は誰に向かって歌うのでしょうか。
詩編96:1 新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。
96:2 主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
96:3 国々に主の栄光を語り伝えよ/諸国の民にその驚くべき御業を。
神さまのなさることは、わたしたちの思いを超えた、まったくあたらしいものです。
それを受けて、わたしたちも、まったくあたらしくされます。
「福音」はGood(福)News(音ずれ、知らせ)です。
知らせはNews あたらしいことなのです。
その感謝と喜びを、神さまに向かって歌います。
どうじに、つぎの時代に向けて歌います。
人びとに向けて、世界に向けて歌います。
まったくあたらしい、神さまの恵みを、語り伝えるのです。
主こそがわたしたちの王です、と
時間と空間を超えて、歌声を伝えるのです。
2024年5月17日 金曜日
おはようございます。
神さまに打ち砕かれるとは、悪いことをして罰を受けることとは意味が違います。
イザヤ書57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
神さまの崇高と永遠と聖によって、わたしたちの小ささと限界と罪があきらかにされることです。わたしたちは、自分が崇高で永遠で聖であると心のどこかで思っているなら、神さまを賛美することも人に仕えることもできず、救われることもないのです。
けれども、神さまがわたしたちを打ち砕いてくださいます。ここからわたしたちの救いが始まります。信仰者のライフ(生活、人生、生命)が始まります。
57:16 わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。
神さまはわたしたちを打ち砕いたままにしておかれません。そこから、立ち上がらせ、創り上げてくださいます。これが聖化です。
2024年5月16日 木曜日
おはようございます。
神さまを賛美するとはどういうことでしょうか。
詩編95:1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
95:2 御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
95:3 主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。
95:4 深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。
神さまはわたしたちを救ってくださいました。
神さまはいつでもわたしたちの救いです。
賛美はこれに導いていただく歓喜の歌です。
何か特別なことがあるように思えなくても
神さまがここにおられ
わたしがここにいる
賛美はこのことへの心からの感謝です。
神さまはわたしたちをはるかに超えるお方であり
わたしたちを治めてくださる大いなる王です。
賛美はこの神さまの前でわたしたちが小さくなり
神さまの大きさがあきらかにされることです。
地の底も山々の頂も神さまのものです。
賛美は世界が神さまに創造されたことをたたえ
被造物がともに創造者である神さまをほめ歌います。
賛美は栄光をわたしたちから神さまにお返しします。
2024年5月15日 水曜日
おはようございます。
神さまは、異邦人、つまり、神さまから遠いと思われていた人びと、わたしたちをも受け入れてくださいます。
イザヤ書56:6 主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら
56:7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
神さまにお仕えし、神さまのお名前を愛し、神さまの僕となり、神さまを礼拝し、イエス・キリストの救いの約束につながるなら、神さまは、わたしたち異邦人をも、祈りに受け入れてくださいます。
イエス・キリストの教会では、すべての人が神さまに祈ることが許されているのです。
2024年5月14日 火曜日
おはようございます。
詩編94:1 主よ、報復の神として/報復の神として顕現し 94:2 全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。
イエス・キリストは「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と言われました。これは報復を禁じておられるのでしょう。
けれども、自分を「誇る者」、驕る者である、わたしたちは、神さまに打ち砕かれなければなりません。神さまの絶対的な大きさと力と愛の前で、自分の小ささと弱さと愛のなさを謙虚に告白し、悔い改めなければなりません。
94:4 彼らは驕った言葉を吐き続け/悪を行う者は皆、傲慢に語ります。
94:5 主よ、彼らはあなたの民を砕き/あなたの嗣業を苦しめています。
94:6 やもめや寄留の民を殺し/みなしごを虐殺します。
94:7 そして、彼らは言います/「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」と。
94:8 民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。
94:9 耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。
わたしたちは驕った言葉を吐き続けています。
わたしたちは人を苦しめています。
神さまはそれをすべてご存じです。
そのおかげで、わたしたちは、罪を告白し、悔い改め、赦されるのです。
主よ、あなたにすべてをお委ねする勇気をお与えください。
2024年5月13日 月曜日
おはようございます。
異邦人とは誰のことでしょうか。わたしたちは異邦人、神を知らない民ではないのでしょうか。
イザヤ書56:1 主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い。56:2 いかに幸いなことか、このように行う人/それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人/悪事に手をつけないように自戒する人は。
神さまの救いと恵みの日は間近い、だからこそ、週に一度、神さまの前に出て、自分の深い罪を告白し、神さまの深い赦しを心から感謝する生活へと、すべての人が招かれています。
56:3 主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
そのとき、神さまは、異邦人も宦官も、お救いくださいます。安息の日に入ろうとする人は、誰でも迎えてくださるのです。
自分は神さまに愛される価値がないと悩む人も、あの人は神さまにふさわしくないと斥けられる人も、神さまは、すべて、安息の喜び、礼拝の喜びに迎え入れてくださいます。
2024年5月12日 主日(日曜日)
おはようございます。
まことの王、わたしたちをまことに治めてくださる方は、人間の王でも為政者でもなく、神さまです。
詩編93:1 主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。
93:2 御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。
神さまこそが、この世界を創ってくださったお方です。神さまこそがわたしたちの毎日と人生を、しっかりと支えていてくださいます。
わたしたちの根本の頼みは、神さましかおられません。
わたしたちは、ときに、それを忘れてしまい、神さま以外のものにすがりつこうとしてしまいます。
その時、イエス・キリストは言われます。
「悔い改めなさい、神さまの国は近づいた」と。
わたしたちはむなしいものに頼ろうとするのやめて、神さまを信頼するのです。
神さまこそが、いまここに、世界とわたしを治めていてくださいます。
2024年5月11日 土曜日
おはようございます。
神さまの恵みはどのようにしたらいただくことができるのでしょうか。
イザヤ書55:1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
神さまは、わたしたちに何の交換条件もお求めになりりません。神さまから「穀物」をいただくのに「銀貨」を払う必要はありません。神さまは「ぶどう酒と乳」をわたしたちにくださいますが、代「価」をお求めになりません。
神さまは無償でわたしたちを愛し、そばにいてくださるのです。
55:2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
わたしたちは、周りの人びとからの称賛や承認を得るために、必死に「ほめられるようなこと」をしようとします。
けれども、そんな必要ありません。
ただ、神さまの御言葉に耳を傾ければ、交換条件なしに、無償で、神さまから「良いもの」を豊かにいただけるのです。
2024年5月10日 金曜日
おはようございます。
この世は、苦しいこと、悲しいことばかりなのでしょうか。
いいえ。そんなことはありません。
詩編92:8 神に逆らう者が野の草のように茂り/悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても/永遠に滅ぼされてしまいます。
神さまは、やがて、かならず、この世とわたしたちの苦しみ、悲しみの原因を滅ぼしてくださいます。
神さまは、わたしたちの悲しみを知っていてくださいます。
56:9 あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に/それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。
神さまは革袋に蓄えるくらいに、わたしたちの涙を大切にしてくださいます。
神さまは、悲嘆にくれるわたしたちをそれほど大事にしてくださり、やがて、そこから救い出してくださいます。
それがすでにわたしたちの救いなのです。
2024年5月9日 木曜日
おはようございます。
たとえ、大きな苦しみがあり、神さまから見捨てられたように思えることがあっても、そうではありません。神さまは、けっしてあなたを見捨てません。
イザヤ書54:6 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように/主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかと/あなたの神は言われる。
54:7 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。
神さまはわたしをお見捨てになったのではないか、とわたしたちが苦悩するとき、神さまはわたしたちを呼んでくださいます。わたしはあなたをけっして見捨てないよ、と呼びかけてくださいます。
わたしたちは神様から見捨てられたように思ってしまうほど苦しい時期もありますが、それは永久ではなく、神さまは深い憐れみをもってわたしたちを引き寄せてくださいます。
54:10 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。
大地が揺れ、山が崩れるような出来事もわたしたちの人生には起こりますが、神さまの慈しみはわたしたちから離れることはなく、神さまのシャロームと憐みは揺らぐことなく、ここにあります。
2024年5月8日 水曜日
おはようございます。
神さまはたしかにわたしたちをお守りくださいますが、それはどういうことでしょうか。
詩編91:9 あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。
91:10 あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。
91:11 主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
91:12 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。
神さまはたしかにわたしたちの避けどころ、宿となってくださいます。
しかし、それは、かならずしも、わたしたちが災難や疫病にぜったいに見舞われない、ということではありません。
高いところから飛び降りても天使が飛んできて地面にたたきつけられないようにしてくださるわけでもありません。
それでも、神さまはわたしたちをお守りくださいます。
91:15 彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。
苦難の中からわたしたちが叫び求めるとき、神さまはそれを聴いてくださり、わたしたちとともにいてくださり、それこそがわたしたちの誉(ほまれ)なのです。
2024年5月7日 火曜日
おはようございます。
十字架刑に処せられた人がじつは救い主でした。
聖書とキリスト教はこの驚きと恵みを土台としています。
イザヤ書53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
やせた土地の植物のように、この人には、みずみずしさもうるわしさもありません。
この人は、軽蔑され、見捨てられ、幾重もの痛みと病に苦しんでいます。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
けれども、この人が苦しんでいるのはこの人のせいではなく、むしろ、この人は、わたしたちの病と痛みを背負って苦しんでいるのです。それなのに、この人は神さまに罰を受けて苦しんでいるのだ、とわたしたちは思ってしまっていました。
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
この人が刺し貫かれ、打ち砕かれたのは、わたしたちの背きと咎のゆえでした。
自分の背きと咎を、深く深く、もっと深く見つめるとき、そして、この深い深いものをこの人が負ってくださったことを、悲しみと喜びの涙とともに、心に深く深く刻み込まれるとき、わたしたちは、まことの平和とまことの癒しを深く深く受け取るのです。
2024年5月6日 月曜日
おはようございます。
人生の嵐の日、わたしたちはどこに避難しますか。
詩編91:1 いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ
91:2 主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。
「いと高き神」「全能の神」こそがわたしたちの隠れ家、シェルター、砦、避難所です。主こそが御言葉と聖霊の臨在によってわたしたちを守ってくださいます。
91:3 神はあなたを救い出してくださる/仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。
91:4 神は羽をもってあなたを覆い/翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。
91:5 夜、脅かすものをも/昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。
たとえどんなに深い穴に落ちてしまっても、神さまが引き上げてくださいます。幾千本の矢が飛んで来ようとも、わたしたちを守ることにどこまでも誠実な神さまが盾になってくださいます。
2024年5月5日 主日(日曜日)
おはようございます。
受難節に歌われる「栄えの主イエスの十字架をあおげば」はもっとも美しい讃美歌のひとつに数えられています。
その一節に「恵みと悲しみ ひとつにとけあい」とあります。「恵みと悲しみ」は一見たがいに相(あい)反(はん)するものですが、それが「ひとつにとけあう」とはどういうことでしょうか。
イザヤ書52:13 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。52:14 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。
ここに出てくる「僕」(しもべ)は、「栄える」とも言われながら、「姿は損なわれる」「人の子の面影はない」とも言われています。
これはどういうことでしょうか。
イザヤのこの言葉より何百年かのち、イエス・キリストは十字架につけられました。
マルコによる福音書15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコ15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
神さまに見捨てられたと叫ぶほどにイエス・キリストは苦しんで息を引き取られましたが、百人隊長はこれを見て「本当に、この人は神の子だった」と告白する信仰にいたりました。
恵みと悲しみ、栄えと苦しみ、十字架と神の子。
聖書が伝える神さまの救いは、この矛盾、この逆説にあります。
パウロはかつては十字架につけられて死んだイエスを呪いましたが、復活されたキリストがこのパウロを救いました。
そして、「わたしは弱いときにこそ強い」(第二コリント12:10)と証しします。
2024年5月4日 土曜日
おはようございます。
わたしたちは、ときに人生はむなしい、という思いにさいなまれます。
詩編90:9 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。
90:10 人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
神さまに見捨てられた、神さまは何もしてくれない、とさえ、心のどこかで思ってしまうかもしれません。
90:13 主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕(しもべ)らを力づけてください。
それでも、じつは、神さまはわたしたちのこのような思いにはるかにまさるお方であることを、神さまご自身がお示しくださり、わたしたちはそれを知っています。
90:1 【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
90:2 山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。
わたしたちの地上の人生の年月は限られていますが、わたしたちが神さまのもとにいる時間は「代々」、永遠です。神さまはわたしたちが地上を歩むときも、天に帰ったあとも、いつも、いつまでも、わたしたちの宿となってくださいます。
物質の世界ができる前から、それがある間も、それが終わってからのちも、神さまは永遠にわたしたちとともにいらしてくださいます。
わたしたちは、この永遠なる神さまとつながっているから、地上の人生をむなしいと嘆く必要はありません。この永遠なる神さまは、わたしたちがむなしいと思う地上の生活をも、実りあるゆたかなものへと祝福してくださいます。
2024年5月3日 金曜日
おはようございます。
イザヤ書52:7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。
今からおよそ2500年前、イスラエルの民は、バビロン捕囚から解放され、ユダの地に帰還することができました。そのことは、もはや、異国の王に支配されることはない、神さまこそがまことの王さまである、ことを意味しました。この良い知らせを告げるために山々を行き巡る者の足は美しいとイザヤは称えます。
その500年後、イエス・キリストが登場しました。
マルコによる福音書1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
ルカによる福音書4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
「神の国は近づいた」とは、まさに、「神さまこそがまことの王である」という良き知らせにほかなりません。バビロン捕囚からの解放のメッセンジャーとともに、イエス・キリストも、捕らわれ人の解放、神さまの恵みを告げ知らせたのでした。
けれども、イエス・キリストは、これを、世界中の人びとに、そして、あらゆる時代の人びとに、わたしたちひとりひとりに、決定的な知らせとして、今日も伝えてくださるのです。
2024年5月2日 木曜日
おはようございます。
神さまの慈しみは、わたしたち人間の思いをはるかに超えるものです。
詩編86:13 あなたの慈しみはわたしを超えて大きく、深い陰府から、わたしの魂を救い出してくださいます。
たとえ、わたしたちとその心が深い闇の中にあっても、神さまはその慈しみによって、わたしたちの魂をそこから救い出してくださいます。
86:14 神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者の一党がわたしの命を求めています。彼らはあなたを自分たちの前に置いていません。
たとえ、人びとが群れとなって、わたしたちを責めたり攻めたりすることがあっても、たとえ、難問難題がつぎからつぎへとわたしたちに襲い掛かってくることがあっても、神さまの慈しみはそれらにはるかにまさります。
86:15 主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる。
神さまの、憐れみ深い御心、わたしたちへの慈しみ、わたしたちをけっして見捨てない誠実さは、わたしたちを苦しめるあらゆるものに、はるかにまさるのです。
たとえどんなに苦しいことがあっても、主の慈しみはそれにはるかにまさります。
2024年5月1日 水曜日
おはようございます。
わたしたちはいろいろなことを恐れますが、ほんとうは、神さまがおられるのですから、恐れることはないのです。
イザヤ書51:12 わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。なぜ、あなたは恐れるのか/死ぬべき人、草にも等しい人の子を。
わたしたちは、力のある人、怖い人、人の仕打ちを恐れますが、この人たちもわたしたちと同じ、やがては死にゆく人間です。
けれども、神さまは永遠なるお方です。その神さまがわたしたちを慰めてくださいます。だから、人を恐れる必要はないのです。
51:13 なぜ、あなたは自分の造り主を忘れ/天を広げ、地の基を据えられた主を忘れ/滅びに向かう者のように/苦痛を与える者の怒りを/常に恐れてやまないのか。苦痛を与える者の怒りはどこにあるのか。
天と地、空と陸を創られた神さまがわたしたちとともにいらしてくださるのですから、わたしたちに苦痛をもたらす人々を恐れることはないのです。
天地の創造主がわたしたちとともにいらしてくださいますから、わたしたちはどんなことも恐れなくてもよいのです。
2024年4月30日 火曜日
おはようございます。
詩編86:1 【祈り。ダビデの詩。】主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。
主はあなたに耳を傾け、あなたに答えてくださいます。
86:2 わたしの魂をお守りください/わたしはあなたの慈しみに生きる者。あなたの僕をお救いください/あなたはわたしの神/わたしはあなたに依り頼む者。
主はあなたの魂を守り、あなたを慈しみ、あなたをお救いくださいます。
86:3 主よ、憐れんでください/絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。
主はあなたを憐れんでくださいます。
86:4 あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは/主よ、あなたなのです。
主はあなたの魂に喜びをお与えくださいます。
86:5 主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に/豊かな慈しみをお与えになります。
主は、恵み深く、あなたをお赦しくださり、あなたを慈しんでくださいます。
86:6 主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください。
主は、あなたの嘆きと祈りを聞いてくださいます。
86:7 苦難の襲うときわたしが呼び求めれば/あなたは必ず答えてくださるでしょう。
主は、あなたが苦難の中から呼び求めれば、かならず答えてくださいます。
2024年4月29日 月曜日
おはようございます。
世界にどんなことが起ころうとも、人が何と言おうとも、神さまがともにおられます。
イザヤ書51:6 天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。
大空や大地が消え去ることがあっても、神さまの救いと恵みは、わたしたちにとこしえに続きます。
51:7 わたしに聞け/正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。51:8 彼らはしみに食われる衣/虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き/わたしの救いは代々に永らえる。
人がわたしたちを嘲ろうとも、ののしろうとも、神さまの恵みと救いはいつまでも永らえます。
あなたの人生にどんなに大きなことが起こっても、どんなに苦しいことが押し寄せても、神さまがあなたとともにおられ、あなたを守りぬいてくださいます。
2024年4月28日 主日(日曜日)
おはようございます。
戦争はいつまで続くのでしょうか。不正はいつまではびこるのでしょうか。
詩編85:9 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。85:10 主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
人間は戦争をしますが、神さまは平和を宣言なさいます。
戦争は愚かなふるまいです。
わたしたちは、争いではなく、暴力でもなく、主の慈しみに生きなくてはならないのです。
平和をもたらしてくださる神さまを畏れる者の近くに神さまはおられます。
わたしたちが平和の主を畏怖するならば、神さまはわたしたちとともにいてくださいます。
85:11 慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし
85:12 まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。
85:13 主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。
85:14 正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。
神さまの慈しみとまことに根差して、人間の地上の正義と平和は実現します。
神さまはかならずこの地に平和と正義をもたらしてくださいます。
争いは終わり、人が人を虐げることがなくなります。
その地を神さまは進んでくださいます。
2024年4月27日 土曜日
おはようございます。
わたしたちが、たとえ倒れてしまっても、神さまがかならず起き上がらせてくださいます。
イザヤ51:3 主はシオンを慰め/そのすべての廃虚を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。
今から2500年前、ユダの国はバビロニア帝国に滅ぼされ、エルサレムの都は廃墟とされ、人びとはバビロンに連れて行かれ、そこで捕囚とされました。
けれども、神さまは、やがて、人びとをエルサレムに連れ戻し、町と神殿を再興してくださいました。
それと同じように、神さまは傷ついたわたしたちの心身を慰めてくださり、わたしたちの人生を荒れ地から主の園へと建て直してくださいます。
そこには、喜びと平安、神さまへの賛美の歌声が満ち溢れます。
2024年4月26日 金曜日
おはようございます。
詩編84:6 いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。84:7 嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。
わたしたちは、ここにある幸いを見いだせず、自ら不幸に陥っていないでしょうか。
神さまの言葉は、勇気を与えてくださいます。
神さまの言葉は、狭くなったわたしたちの心の道を広げてくださいます。
からからに乾き切った死の谷底を歩くようなときでも、
神さまの言葉は、そこに命の泉を湧かせてくださり、
雨で潤わせ、わたしたちを祝福してくださいます。
2024年4月25日 木曜日
おはようございます。
誰かに傷つけられるとき、わたしたちはどうするでしょうか。
イザヤ書50:6 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。50:7 主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。
暴力や暴言、慢性的なハラスメントは断固拒否しなくてはなりませんが、わたしたちは、自分を大事にしてくれなかったり軽く見たりする誰かの言動に対して、反撃する必要はないのです。
神さまは、わたしたちを大事にしてくださり、わたしたちを侮辱なさらないからです。
神さまがわたしたちのことを知っていてくださるのですから、人が敬意をもってくれなくてもよいのです。
50:8 わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。50:9 見よ、主なる神が助けてくださる。
わたしたちは、「正しい」と認められなくても構いません。
神さまがわたしたちとともにいてくださるからです。
神さまがわたしたちを助けてくださるからです。
2024年4月24日 水曜日
おはようございます。
詩編72:1 【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。
72:2 王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。
72:3 山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。
これはソロモン王が自分がこのような王になることを祈り求めているのでしょうか。
けれども、じつは、これは神さまご自身のお姿なのではないでしょうか。
そうすると、イスラエルや世界のまことの王は、神さましかおられない、という信仰にもつながるのではないでしょうか。
神さまは、わたしたちの苦しみ、悲しみ、祈りを聞いてくださいます。
神さまは、貧しいわたしたちをかえりみてくださいます。
神さまは、わたしたちにシャロームと恵みをもたらしてくださいます。
たしかに、神さまこそがわたしたちのまことの王です。
2024年4月23日 火曜日
おはようございます。
わたしの言葉は、そして、その人の言葉は何のためにあるのでしょうか。
イザヤ書50:4 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。
わたしたちの言葉は、疲れた人を励ますためにあるのです。
神さまがわたしたちに与えてくださった言葉は、人を傷つけたり苦しめたり、自分が勝ったりするためではなく、人を労わり、慰めるためにあるのです。それは、相手にわたしたちの思い通りにさせるためでもなく、むしろ、相手を尊重するためにあるのです。饒舌である必要はなく、むしろ、沈黙に近い静寂が平安をもたらします。
神さまが誰かを通してわたしたちに与えてくださる言葉は、しずかに、熱心に、敬意をもって、謙虚に、受け取りたいと願います。そうするとき、わたしたちは、自分の思いの外にある新しい世界に歩を進めることができます。
神さまから言葉を、人から言葉を受け取る。
わたしたちの肉は打ち砕かれ、霊が宿ってくださいます。
2024年4月22日 月曜日
おはようございます。
自分の老化を感じたり、誰かに苦しめられたりするとき、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。
詩編71:9 老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。
71:10 敵がわたしのことを話し合い/わたしの命をうかがう者が共に謀り
71:11 言っています/「神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕えよう。彼を助ける者はもういない」と。
71:12 神よ、わたしを遠く離れないでください。わたしの神よ、今すぐわたしをお助けください。
神さまに助けを求めましょう。
神さまに祈りましょう。
たとえ心身が老いても、かえって自分の力が抜け、神さまへのお委ねが日々深まっていきます。
「わたしを遠く離れないでください」と祈ることができるくらいに、神さまはわたしたちのすぐ近くにいらしてくださいます。
「今すぐわたしをお助けください」と祈ることができるくらいに、神さまは今わたしたちとともにいらしてくださいます。
2024年4月21日 主日(日曜日)
おはようございます。
イザヤ書49:14 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と。49:15 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも。わたしがあなたを忘れることは決してない。
わたしたちは、神さまから見捨てられた、神さまはわたしを忘れてしまった、と思ってしまうくらいに苦しむことがあります。
親は子どもを見捨てない、とは言い切れません。
けれども、神さまはわたしたちを忘れません。
たとえ、まんいち、世のすべての人がわたしたちから離れて行っても、神さまだけは、いつでも、いつまでも、ともにいらしてくださいます。
2024年4月20日 土曜日
おはようございます。
わたしたちは信仰を持つ前からすでに神さまに委ねていたのではないでしょうか。
詩編71:6 母の胎にあるときから、あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から、わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。71:7 多くの人はわたしに驚きます。あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。
わたしたちは母の胎にあるとき、母にすべてを託していました。母の胎が世界のすべてであり、その場の平安を疑うことはありませんでした。今わたしたちが生きているこの世界を信頼することは神さまを信頼することであるように、母の胎に委ねることは無意識に神さまにすべてをお任せすることだったのではないでしょうか。
神さまはやがてわたしたちを母のお腹から外の世界へと導きだしてくださいました。そのときも、わたしたちは知らないうちに神さまにすべてを委ねていたのです。
わたしたちはもはや赤ちゃんではありませんが、母の胎にあった時と同じように、神さまは、わたしたちの避けどころ、砦でいらしてくださいます。わたしたちはいまやこれが神さまでいらっしゃることを知りこの神さまを信じます。
2024年4月19日 金曜日
おはようございます。
イザヤ書49:8 主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。49:9 捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる。彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。
今から2500年ほど前、イスラエルの民はユダ王国を滅ぼされ、バビロンの地に連れて行かれ、捕囚の身となりました。けれども、神さまはそこから救い出してくださいます。上の聖書の引用には「国を再興」「捕らわれ人」という言葉があり、そのことを述べていることがわかります。
捕囚の地から解放される。それは、イスラエルの民にとって「恵みの時」「救いの日」です。それは、「荒れ地」が「牧草地」に変わる出来事であり、神さまという羊飼いに導かれる羊であるイスラエルの民は、その「牧草」によって養われるのです。イスラエルの民は神さまに導かれるのです。
そして、これは、わたしたちにも起こる出来事です。
49:10 彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。49:11 わたしはすべての山に道をひらき/広い道を高く通す。
神さまの霊は、わたしたちの霊を満たし、潤してくださいます。人生において灼熱や熱風に苦しめられても、わたしたちは倒れることはありません。神さまがわたしたちを導き、尽きることのないいのちの水(つまり神さまご自身)を与えてくださいます。
わたしたちの行く手に山が立ちはだかろうとも、神さまはそこに広い道を通してくださいます。
2024年4月18日 木曜日
おはようございます。
苦しいときは、「神さま、わたしはこんなに苦しいです」と祈ってよいのです。ダビデもそうしました。
詩編69:2 神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。69:3 わたしは深い沼にはまり込み、足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み、奔流がわたしを押し流します。69:4 叫び続けて疲れ、喉は涸れ、わたしの神を待ち望むあまり、目は衰えてしまいました。
ダビデの苦しい祈りは続きます。
69:30 わたしは卑しめられ、苦痛の中にあります。神よ、わたしを高く上げ、救ってください。
ダビデは苦しみを訴え、そして、「神さま、わたしをこの苦しみの底から高くあげ、救ってください」と祈ります。
すると、祈りの中で、変化が起こります。
69:31 神の御名を賛美してわたしは歌い、御名を告白して、神をあがめます。
これまでは、苦しみを訴えていたのに、ここで、神さまの賛美が始まるのです。
69:34 主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。主の民の捕われ人らを、決しておろそかにはされないでしょう。
ダビデは、神さまが自分の苦しみを聞いてくださったことを確信いたします。
神さまが自分を見捨てていないことをはっきりと信じるのです。
2024年4月17日 水曜日
おはようございます。
わたしの人生は無駄だった、報われなかった、などと思ってしまうことがないでしょうか。
預言者にもそんな心境のときがあったようです。
イザヤ書49:4 わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。49:5 主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。
しかし、預言者は、「そうではない、神さまがわたしをしっかり見ていてくださる、わたしがわたしとしてはなんとか生きてきたことを神さまはご存じだ」と言うのです。
人や自分の目にはつまらないように思えても、神さまの目からは、わたしたちひとりひとりの人生は、尊いもの、重たいもの、大切なものなのです。
わたしたちを大事にし、愛してくださる神さまこそが、わたしたちの生きる力です。
2024年4月16日 火曜日
おはようございます。
詩編68:6 神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げてくださる。68:7 神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。
神さまは、あらゆる人びと、とくに、苦しんでいる人びと、弱い立場にある人びと、虐げられている人びとの姿をご覧くださり、声に耳を傾けてくださいます。
神さまは孤独に悩むわたしたちの家となってくださいます。
神さまは、エジプトやバビロンで囚われていた民を導き出されました。
神さまは、わたしたちをあらゆる束縛から解き放ちてくださいます。
そして、平安の地に住まわせてくださいます。
わたしたちの平安の地、それは、神さまご自身です。
神さまは、わたしたちを平安の内へと招き入れてくださいます。
2024年4月15日 月曜日
おはようございます。
イザヤ書46:9 思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。
天地の創造、アブラハムの導き、奴隷の地エジプトからの解放・・・これらはすべて、神さまがなしてくださったことでした。
わたしの誕生、人生の導き、数々の困難の克服・・・これらもすべて、神さまがなしてくださいました。
この神さまは、世界とわたしたちの未来をも導いてくださいます。
46:10 わたしは初めから既に、先のことを告げ/まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り/わたしは望むことをすべて実行する。
「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ43:2)
「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ43:5)
神さまはこの約束をこれからも貫いてくださいます。
46:13 わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くはない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。
神さまはわたしにもあの人にもかならず救いをもたらしてくださいます。
いや、救いは、すでに遠くないところに来ています。
2024年4月14日 主日(日曜日)
おはようございます。
詩編66:5 来て、神の御業を仰げ/人の子らになされた恐るべき御業を。
66:6 神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。
わたしたちの人生を振り返ってみれば、神さまは何もなかったところに形を創ってくださり、道のないところに道を切り開いてくださいました。これからも、きっとそうしてくださるでしょう。
66:8 諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。
66:9 神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。
わたしたちはこの神さまに感謝し、この神さまを賛美いたしましょう。
この礼拝の日、神さまは創造の日と同じように、土の器のわたしたちに命の息を吹き込んでくださいます。
わたしたちは、この日、この礼拝で、神さまの息吹を胸いっぱいに吸い込んで、今週も、神さまに支えられ、神さまとともに歩みましょう。
2024年4月13日 土曜日
おはようございます。
イザヤ書45:18 神である方、天を創造し、地を形づくり/造り上げて、固く据えられた方/混沌として創造されたのではなく/人の住む所として形づくられた方/主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない。
わたしたちが「主よ」「神さま」と呼びかける相手は、宇宙と地球を創造されたお方にほかなりません。
そこには、神さまのわたしたちへの深い愛が込められています。
なぜなら、わたしたち人間が住み、生きる場所として、神さまは大地を創造してくださったからです。
このお方以外に、わたしたちの「主」も「神さま」もおられません。
45:22 地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。45:23 わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。
神さまは「光あれ」(創世記1:3)、「 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神」(イザヤ41:10)といった「恵みの言葉」を決して取り消すことがありません。
これが神さまの誠実であり真実、真(まこと)です。
どこまでもわたしたちを恵みつづけてくださる神さま。
この方こそが、わたしたちの神、わたしたちの主です。
2024年4月12日 金曜日
おはようございます。
詩編65:10 あなたは地に臨んで水を与え/豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。あなたがそのように地を備え 65:11 畝(うね)を潤し、土をならし/豊かな雨を注いで柔らかにし/芽生えたものを祝福してくださるからです。
神さまはわたしたちに平安と力を注いでくださいます。
わたしたちは神さまからの恵みといのちに満たされます。
神さまはわたしたちの人生をそのように備えてくださり、
わたしたちを潤し、耕し、やわらげ、
わたしたちの実りを祝福してくださいます。
み言葉と祈りと賛美を通して、いのちの水をゆたかにいただきましょう。
2024年4月11日 木曜日
おはようございます。
イザヤ書44:24 あなたの贖い主/あなたを母の胎内に形づくられた方/主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。
すばらしいことに、神さまは、わたしたちを母の胎内に形づくってくださったお方です。
もうひとつ、すばらしいことに、神さまは、天地、万物を創られたお方です。
さらに、すばらしいことに、わたしという一人の人間を創ってくださった神さまは、じつは、この世界全体を創造なさった神さまなのです。
世界の創造主が、この小さなわたしを創ってくださったのです。
2024年4月10日 水曜日
おはようございます。
詩編65:2 沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます。
神さまの前で、心を静かにいたしましょう。
その静けさの中で、神さまの平安を受け取りましょう。
その静けさを、神さまの平安としていただきましょう。
そして、神さまがいかに恵み深い方であるか、
神さまがどんなにすばらしいことをしてくださったか、
思い起こしましょう。
すると、そこには、感謝が生まれます。
神さまを称える賛美が生まれます。
その賛美を神さまにささげましょう。
「満願の献げ物」とは神さまが願い事をかなえてくださったことへの感謝のささげものです。
神さまは、「ともにいてくだい、愛してください、赦してください」という願いをかならず聞いてくださいます。
祈りと賛美はまさに神さまへのささげものです。
沈黙、静寂も、すばらしい祈りであり、賛美であり、神さまへのささげものです。
2024年4月9日 火曜日
おはようございます。
イザヤ書44:22 わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。
神さまに委ねて平安になるということがわたしたちにはなかなかできません。むしろ、神さま以外の目に見えるものにすがろうとしてしまいます。それを「背き」と呼びます。
けれども、神さまはわたしたちのその「背き」を吹き払ってくださり、神さまに立ち帰るように招いてくださいます。神さまはわたしたちをそうやって救ってくださるのです。
44:23 天よ、喜び歌え、主のなさったことを。地の底よ、喜びの叫びをあげよ。山々も、森とその木々も歓声をあげよ。主はヤコブを贖い、イスラエルによって輝きを現された。
神さまのこの救いを喜ぶのは、わたしたちだけではありません。
天も、大地も、山も森も木も、歓声を上げます。
神さまは全地を救ってくださいます。
この神さまに感謝し、さんびし、祈り、委ねましょう。
2024年4月8日 月曜日
おはようございます。
詩編63:5 命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。
ダビデはどうして「手を高く上げ」て祈るのでしょうか。
それは「あなたをたたえる」つまり「神さまをたたえる」ためであり、「御名によって祈る」つまり「神さまのお名前によって祈る」ためだと言います。
「神さまをたたえる」すなわち「神さまをさんびする」ことと「御名によって祈る」ことは切り離されない、一体の出来事です。
この5節の前の2節にはこうあります。
63:3 今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み/あなたの力と栄えを見ています。
63:4 あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。
すると、「手を高く上げ」るのは、神さまを「仰ぎ望む」ことであり、神さまの「力と栄光を見る」ことであり、神さまの「慈しみ」「命にもまさる恵み」を受け取ることでもあるのでしょう。
さらに5節に続く6節にはこうあります。
63:6 わたしの魂は満ち足りました/乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい/わたしの口は賛美の声をあげます。
ダビデは「手を高く上げ」「御名によって祈り」、また神さまから「乳と髄のもてなし」つまり「いつくしみと心の底からのもてなし」を受け、魂を「満たされ」、神さまをさんびする歌を歌ったのです。
天に向かって手を上げることは、神さまを慕い求め、神さまからゆたかに受け取り、神さまに祈り、さんびすることなのでしょう。
2024年4月7日 主日(日曜日)
おはようございます。
イザヤ書44:6 イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。
44:7 だれか、わたしに並ぶ者がいるなら/声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から/来るべきことにいたるまでを告げてみよ。
「わたしは初めであり、終わりである」と神さまは言われます。
そして、「わたしがとこしえの民としるしを定めた日から、来るべきことにいたるまで」と言われます。
つまり、神さまは、世界とわたしたちを創ってくださったお方、源であり、世界とわたしたちを引き受けてくださるお方、目的地なのです。わたしたちは神さまのところから出てきて、神さまのところに帰っていくのです。神さまが迎え入れてくださるのです。
黙示録21:6 わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
イエス・キリストは世界の初めから終わりまで、神さまはわたしたちの人生の初めから終わりまで、というか、とこしえに、わたしたちに「命の水」を飲ませてくださいます。
それは、「価なしに」ですから、わたしたちが何も持っていなくても、神さまが恵みとして与えてくださる「命の水」なのです。
2024年4月6日 土曜日
おはようございます。
詩編62:2 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。
62:3 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。
言葉に出して祈ることはひじょうに大切です。ダビデら詩編の詩人も、ヨブも、旧約聖書の人物も、言葉で祈っています。わたしたちも、礼拝や祈祷会でそうしています。
けれども、沈黙の祈りも、それと同じくらいに大切です。声に出さないだけでなく、頭の中でも言葉を発せず、ただ静かに、耳を澄ませます。そして、神さまの沈黙、神さまの静けさに、耳を傾けます。自分の言葉を発するのではなく、はんたいに、神さまの平安を手のひらで受け取り、体中に満たすのです。
そこに、神さまの救いがあります。わたしたちの中には確かさはありませんが、神さまは揺らぐことがありません。
62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
6節の「神にのみ、わたしは希望をおいている」を3節の「神にわたしの救いはある」と並べると、神さまはわたしたちの希望となってくださることで救いをもたらしてくださることがわかります。
たとえわたしたちの人生が厳しいときを迎えても、神さまが希望を与えてくださいます。それがわたしたちの救いです。
沈黙の祈りの中で、わたしたちは静かに神さまの平安と向かい合い、上に向けた手のひらから、神さまの希望と救いを受け取り、全身を神さまの愛で満たしていただきましょう。
2024年4月5日 金曜日
おはようございます。
イザヤ書44:1 そして今、わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ、聞け。
44:2 あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。
44:3 わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。
44:4 彼らは草の生い茂る中に芽生え/水のほとりの柳のように育つ。
この聖書の箇所の「ヤコブ」「エルサレム」「エシュルン」のところに、あなたの名前を入れて、もう一度、読み直してみてください。
「そして今、わたしの僕(しもべ)いわおよ、わたしの選んだいわおよ、聞け」というように。
「選んだ」とは「あなたが優れているから選抜した」ということではなく「わたしはあなたを一方的に愛している」という意味に近いでしょう。
このあと「あなたを造り、母の胎に形づくり」と続いていることからも、そのように思われます。なぜなら、わたしたちの命が母の胎に形づくられたのは、わたしたちが優れているゆえに選抜された、からではないからです。ただ、神さまの愛ゆえに、わたしたちは母の胎に宿ることができたのです。
3節、4節の「あなたの子孫」「あなたの末」「彼ら」は「あなた」「あなたの命」と読み替えてみましょう。
「あなたにわたしの霊を注ぎ、あなたにわたしの祝福を与える」
「あなたの命は草の生い茂る中に芽生え、水のほとりの柳のように育つ」
神さまはイザヤを通して、これを読んでいるあなたを祝福してくださっておられるのです。
2024年4月4日 木曜日
おはようございます。
詩編61:2 神よ、わたしの叫びを聞き、わたしの祈りに耳を傾けてください。
整った美しい言葉でなくても、「神さま、助けて、神さま、助けて」と叫び続けるだけでも、神さまはそれをわたしたちの祈りとして耳を傾けてくださいます。
61:3 心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。
くじけたときは、心が折れたときは、世界の隅っこに座り込んでしまったときは、「神さま、ああ、神さま」と神さまを呼びましょう。
61:4 あなたは常にわたしの避けどころ、敵に対する力強い塔となってくださいます。
61:5 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り、あなたの翼を避けどころとして隠れます。
神さまはわたしたちの避難所です。苦難からわたしたちを守ってくださる砦(とりで)です。
わたしたちが祈るとき、神さまはわたしたちの祈りを神さまの幕屋としてくださいます。
祈りは、わたしたちが祈っているようで、じつは、神さまが祈りという幕屋を張ってくださり、そこに、わたしたちを宿らせてくださるのです。
2024年4月3日 水曜日
おはようございます。
わたしたちのこれまでの人生には、良いことも多々ありましたが、辛いことや苦しいこともありました。けれども、そこから外に出よう、と神さまは誘ってくださいます。
イザヤ43:18 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。
「初めからのこと」とは、ここでは、昔のことでしょう。もうそこに留まらなくてもいいよ、と神さまはおっしゃってくださいます。
43:19 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。
神さまが、わたしたちのために新しいことをなしてくださいます。
それはもう始まっています。
これに気づきましょう。
冬枯れの枝に目を向ければ、ピンクのつぼみが明日咲くのを待っています。
「咲う」と書いて「わらう」と読むそうです。
花が笑うのです。つぼみには喜び、福音が潜んでいます。
荒れ野だと思っていたわたしたちの人生に、神さまは一本の広い道を切り開いてくださいます。
砂漠だと思っていたわたしたちのこれからを、神さまは大河によって潤してくださいます。
これが神さまのなさる新しいこと、もう芽生えていることなのです。
2024年4月2日 火曜日
おはようございます。
苦しいときは神さまに祈りましょう。
詩編57:2 憐れんでください、神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし、災いの過ぎ去るまで、あなたの翼の陰を避けどころとします。
神さまは苦しむ私たちの魂の避難所となってくださいます。
それが過ぎ去るまで、大きな翼の下に、わたしたちを守ってくださいます。
57:10 主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し、国々の中でほめ歌をうたいます。
57:11 あなたの慈しみは大きく、天に満ち、あなたのまことは大きく、雲を覆います。
喜びのときは神さまを賛美いたしましょう。
わたしたちは祈り、
神さまの慈しみとまことは、
空の雲を包み込み、天地のドームに満ちあふれます。
エフェソ1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
教会にキリストが満ちているように、世界のすべてに神さまの慈しみとまことが満ちているのです。
2024年4月1日 月曜日
おはようございます。
神さまはどのような人をその僕(しもべ)として用いられるのでしょうか。
どのような人を神さまの愛と救いと恵みの使者とされるのでしょうか。
イザヤ書42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。
その人は、まず、神さまの僕(しもべ)であり、神さまに仕える者であることが望まれます。
その人は、神さまに支えられ、神さまから招かれ、神さまに迎えられます。
その人の上には、神さまの霊が注がれ、その人は、人びとに神さまの慈しみを伝えます。
42:2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
その人は、自分を偉く見せたり、高いところから人びとを支配したりしません。
42:3 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。
その人は、傷ついた人をいたわり、つぶれそうな人の心に涙を流し、神さまの慈しみをもたらそうとします。
42:4 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
傷つき弱った人びとの心は、その人によって癒され、強められます。
世界の人びとはこの人の口から神さまの言葉を聞きます。
まぶねの中にうぶごえあげ、
貧しきうれい 生くる悩み つぶさになめし
虐たげられし 人を訪ね
友なき者の 友となりて 心砕きし
すべてのものを 与えしすえ
死のほか何も 報いられで
十字架の上に 上げられつつ 敵を赦し
そして
墓からよみがえりたもう
イエス・キリストこそ、まさに、神さまのまことのしもべです。
主よ、わたしを、あなたのしもべのしもべにしてください。
2024年3月31日 主日(日曜日) 主の復活日(イースター)
おはようございます。
主イエス・キリストはよみがえられました。
わたしたちは救われました。
''マタイによる福音書28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、28:6