2016年5月15日 「老人は夢を見、若者は幻を見る」
2016年5月15日 「老人は夢を見、若者は幻を見る」
<第Ⅲ礼拝(夕礼拝 )>
【聖 書】ヨエル書3章1~2節、コリントの信徒への手紙二2章1~16節
【説 教】齋藤 篤牧師
【説教要旨】
彼には苦しみがありました。キリストの救いをもはや宣べ伝えることができないのではないか、そのような恐れを抱いていました。これが、コリントの街に入った時の、使徒パウロの正直な心境でした。
その理由がどこにあるのか、パウロの活動からある程度垣間見ることができます。コリントの前に訪れたアテネの街では、おそらく哲学に通じていたであろう人々に対して、彼は福音を宣べ伝えました。弟子たちも与えられましたが、成果空しくこの街を去ったであろうことが想像できます。コリントに入ってからも、最初は会堂を巡りまわって福音を伝えました。しかし、同胞からは悪しざまにあしらわれた様子が描かれています。
そもそも、パウロの宣教活動というものは、すべてが順風満帆なものではなかったのです。むしろ宣教が産みの苦しみのような状況であったことの方が多かったのです。パウロが、疲れ果ててしまったこと、夢や幻が見られないような状況になるのも無理ありません。そして、それこそが私たちの現在の信仰者として生きる姿にオーバーラップするのではないか、そう思えてならないのです。
そのようなパウロに、ある夜主の幻が現われます。「わたしはあなたと共にいる」という主の声は、決して宣教を止めてはいけないという力強い御声だったのです。恐れてはならない!その声がパウロの心を響かせます。その響きこそ、「霊」によるものであると、パウロは振り返っているのです。宣教を働かせる原動力は、私たちの知恵でも勇気でも、腕力でも社会的地位でもありません。そのような賜物が活かされるには、聖霊様の注ぎがなければ何の意味もない。パウロが聖霊様について、それを「ミステリー(秘められた計画・神秘)」と呼んでいるのは、私たち人間の想像や常識を桁外れるのが、聖霊様の働きであると確信していたからでした。
これはあたかも、旧約の預言者ヨエルが「老人は夢を見、若者は幻を見る」という、希望あふれたメッセージに寸分狂いなくフィットしているのです。