2016年8月14日 「御国の文化に生きる」
2016年8月14日 「御国の文化に生きる」
【聖 書】テサロニケの信徒への手紙二1章3~12節
【説 教】齋藤 篤牧師
【説教要約】
キリストの平和が語られるところには、人間の正義や使命感がうらみやねたみとなって反対勢力として働きました。そのような反対運動があったにもかかわらず、テサロニケの人々は、自分たちの信仰を温めてきました。
キリストがもたらす平和は、主イエスご自身が宣教活動の中心とされた「神の国」によって全てが表現されています。つまり私たちキリスト者とは、「御国のもたらす文化」によって真の平和が訪れることを純粋に信じる民として、神から立てられています。この世の中には数多くの平和思想がありますが、私たちが本当に平和を望むならば、主イエスが何を語られ、何を行い、何を望んでおられるかを、聖書の御言葉からなるべく純粋に聴き取っていくための営みを地道に続けていくことが求められています。私たちが聖書を読む時には必ず自分自身というフィルターを通して行いますから、キリストの声を100%知ることは不可能です。しかし100%とはいかなくても、それに近づけていくことは、私たちの大切な務めであると言えます。私たちが避けなければならないのは、自分の正義感を神の思いや願いとすり替えてしまうことです。そうなると大体は、平和、平和と声高に叫びつつも、実体はそれに逆行する歩みを踏むことになるのです。悪魔サタンは、人間の誠実さや正義をも利用して、キリストのもたらす平和を打ち壊すことが唯一の目的だからです。
手紙は、パウロのそのようなテサロニケの一人一人に対する愛が十分に詰まったものであると断言できます。そのようなパウロの思いは、心の中からほとばしる神への感謝によって明らかにされます。パウロ自身、神の御国の文化に生きる事はそれ即ち、キリストの与える平和ゆえに苦難を味わうことになるということを経験から熟知していました。しかし、テサロニケの信仰者たちはもはや、キリストの平和を自分自身の喜び・希望として、そのために起きる逆のベクトルに対しては忍耐して歩んでいたのです。少しでも主の御声を確かに聴き取ろうとする彼らの営みは、明らかに信仰の成長につながっていました。同じ思いをもった仲間と、共に苦しみ、共に喜ぶことを彼らの心に促したのは、キリストによって育まれた愛によってのみでした。
多くの苦しみを通して、神は人間を平和において豊かに成長させてくださいます。御国のもたらす平和の文化が、内外問わず働く迫害と苦難によって熟成されていくというのは、一見すると矛盾するような論理にも見えるのですが、そのことが最終的に、神の正しさが証明される確固たる根拠となるのです。そして、神が神とされるときに、私たちは神につながれているものとして、心安きシャロームの状態、つまり真の平和を味わうものとして生かされていることに喜ぶことが可能となるのです。私たちに休息を与え、苦しみから解放してくださる方を私たちは神としています。そして、大勢の天使を携えて私たちを守ってくださる主イエスを私たちは救い主として頂きました。これが御国の文化に生きる者の平和に対する見方捉え方であることを、私たちは改めて御言葉から教えられるのです。