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2020年9月27日「放蕩息子」

2020年9月27日「放蕩息子」

【聖 書】ルカによる福音書15章11~24節
【説 教】田代 孝一スタッフ


【説教要約】
「放蕩息子」のたとえの中に神の真実な姿が描かれています。父は自分に背いて出て行った息子の帰りをひたすら待ちました。その待ちに待っていた息子が帰ってきた時、父は驚くべき行動をとりました。まだ遠くにいた息子を見て、父は自ら走り寄って行ったのです。当時の厳格な家父長制からしますと、ここで父がとった行動は、普通では考えられないものでした。自分に背いて出て行った息子のもとに、父の方から走り寄るなどあり得ない行為でした。

 また走り寄って行くためには、父親の権威の象徴とされた長いマントの裾をめくり上げなければなりませんでした。しかし待ちに待っていた息子の姿を見て、父は自分の一切のプライドや権威を捨て、なりふり構わずマントの裾をめくって、息子のもとに走り寄って行ったのです。そして、ひとことも責めも咎めもせず、愛と親しみを込めて、その首を抱き接吻しました。何と感動的な光景でしょう。ここで示された神の姿は、私たちから遠く離れておられる方ではなく、神様の方から私たちに走り寄ってくださり、私たちと親しく交わりを持たれる姿です。

 次に示された神の姿は、放蕩息子の兄に対する父の態度を通してでした。弟に対する父の対応に憤った兄は、家に入ろうともしませんでした。それをなだめに来た父に対して、兄は憤懣(ふんまん)やるかたないと言った態度を示して、父親に自分の弟のことを「あなたのあの息子が」と言って冷たく突き放しました。この兄の言葉と態度こそ、イエス様のことを批判し敵対してきたパリサイ人と律法学者達の姿そのものでした。

 しかし父がそのような兄をも受け入れ愛されたように、イエス様も自分に敵対する彼らを愛し赦されました。そのことが、次の御言葉に記されています。「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼしたのです」(エペソ2:16)と。「放蕩息子」のたとえを通して示された神の真実な姿は、イエス・キリストの十字架の贖いによる「愛と赦しの神」なのです。 


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