2023年10月15日
2023年10月15日
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。(ローマ15:1-3)
わたしたちは、たとえば、自分の子どもたちや年下の人たちに対して、自分の方がよくわかっている、人生経験がある、と思ってしまいがちです。パウロは、上の聖書の言葉の中で、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを」と述べています。これは、体力や精神の強さのことだけでなく、わたしはあの人よりもわかっている、というわたしたちの奢りをもほのめかしているのではないでしょうか。
もし、わたしたちが、子どもたちは経験が足りない、わかっていないと思うなら、わからせようとするよりも、むしろ、わたしたちにはそのように思える子どもたちの、あるいは、他の人びとの、その部分を一緒に背負おうと考えるべきではないでしょうか。
その人びとが自分の目から未熟と思えるのなら、未熟と思えることを非難するよりも、未熟と思える部分をともに担おうとするのがよいのではないでしょうか。
わたしたちの満足ではなく、上の御言葉にあるように、隣人の喜びの方が大切なのです。それによって、わたしたちも向上し、結果的に、わたしたちの満足が得られることもあるでしょう。
わたしたちに促されるこのような生き方は、イエス・キリストご自身が模範です。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:6-7)
キリストはご自分の満足を求めたのではなく、また、わたしたちの弱さを責め立てたのでもなく、弱いわたしたちの僕(しもべ)になってくださり、わたしたちと同じ弱さに立ってくださったのです。ご自身よりもわたしたちを救おうとしてくださるのです。(い)