2023年11月12日
2023年11月12日
それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。(ローマ15:15-18)
わたしたちが教会でさまざまな奉仕をするとき、それは、誰のためでしょうか。それが、自分のためになってしまっていないでしょうか。
自分の尊厳を大事にすること、自分の考えを持ち、それを適切な方法で表現することはとても大事です。神さまはわたしたちをとても大切なものに創造してくださいましたから。
しかし、奉仕が、自分の満足のため、自分をほこるため、自分がやりたいことをやるためになってしまっていないか、自分をふりかえってみるべき時もあるでしょう。
ここに引用した御言葉の中で、パウロは、「異邦人のため」、そして、「神の福音のため」と言います。「自分のため」ではないのです。
さらに、「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」と付け加えています。パウロは、自分のためではなく異邦人と神さまのために奉仕する、そして、自分がしているのではなくキリストが働いてくださる、この二点において徹底しています。
わたしたちはどうでしょうか。「隣人のため」「神さまのため」と言いながら、それが「自分流の」「隣人のため」「神さまのため」になっていないでしょうか。あるいは、「隣人のため」「神さまのため」と言いながら、じつは、「自分のため」になっていないでしょうか。自分がしている、自分がしている、と思い込んでいないでしょうか。
この問いには、学校の試験のように正解を見つけることはできません。ただ、御言葉を読み、祈り、奉仕や実践をし、また、御言葉を読み、打ち砕かれ、起き上がらされ、祈り、奉仕の場に送り出される。このサイクルが大切なのです。(い)