2023年12月17日「待つ」とは「備える」こと
2023年12月17日「待つ」とは「備える」こと
「待つ」とは「備える」こと
「キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。・・・・『それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。」(エペソ5:26~27、31~32口語訳)
アドヴェント3週目を迎えました。アドヴェントとは「来る」という意味です。イスラエルの民は「やがて救い主が来る」との預言を信じて待ち望み、そして確かに救い主イエス・キリストは来られました。今日、私たちにとってアドヴェントとは、2000年前に来られた救い主イエス様のご降誕を覚えると同時に、やがて来られる再臨の主イエス様を待ち望むことであります。今も主は信じる私たちの内におられますが、再臨、あるいは私が地上生涯を終えるときには、顔と顔を合わせて主とお会いします(Ⅰコリント13:12)。イエス様は一貫して「その日に備えよ」と警告されました。油を用意していなかった5人のおとめ(マタイ25:1~13)、1タラントを地に隠しておいた僕(マタイ25:14~30)、主人の帰りが遅いとあなどる不忠実な僕(ルカ12:35~48)、、、等々。
では「主に会う備え」とはどういうことなのでしょうか? 聖書を読み、祈ることでしょうか? 日々悔い改めることでしょうか? 福音を宣べ伝え人々を救いに導くことでしょうか? 礼拝、奉仕、献金、隣人を愛すること、、、いずれも大切なことです。おろそかにはできません。けれども重要なことは何のために備えるのか、です。最後の審判に怯えながら備えるのでしょうか? いいえ、私たちは、やがてキリストの花嫁として迎えられるのです。私たちが生涯かけて備えるのは花婿なるキリストとの結婚に向けた備えなのです。そこに希望と喜びがあります。(よ)