2023年2月19日
2023年2月19日
「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」」(ローマ4:6-8)
ここに「神から義と認められる」とあります。教会では「義認」という言葉も耳にします。これはどういう意味でしょうか。
ダビデは「主から罪があると見なされない人」と述べています。これは、本当は罪があるのだけれども神さまは罰を与えない、裁かない、そのような意味で、罪がないと見なす、ということです。
これと同じように、義と認めるとは、本当は義ではない、正しくないのだけれども、義とみなす、ということなのです。ひらたく言えば、神さまはわたしたちの罪を責め立てず、むしろ、お赦しくださる、ということなのです。
そもそも、「罪」とはどういうことでしょうか。これは犯罪や悪事を行うというよりも、わたしたちの心が自分の方ばかりに向いてしまって、隣人の方に向かない、神さまの方にも向かない、自分中心、エゴイストであるということです。
わたしたちは自分の心を正直に見つめれば、このような意味での罪があることを認めざるをえないでしょう。しかし、聖書の話はここでは終わりません。私たちのそのような罪にもかかわらず、神さまはそれを裁いたり罰したりせず、むしろ、わたしたちを愛してくださる。これが聖書のメッセージです。(い)