2023年5月28日
2023年5月28日
「わたしは、自分の内には・・・善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている・・・それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:18-19)
たとえば、誰かを傷つける言葉を口にしたい、いや、言うべきではない、でも、言わずにはいられない、という衝動を思い出してみましょう。それは自分では抑えられないくらいに強いものではないでしょうか。悪いことはしたくない、善いことをしたいという気持ちはあっても、その実行力がない、と思い知らされるほどではないでしょうか。
ようするに、いけないと分かっていても、罪を犯してしまう、それくらいに罪の力は強い、罪はまるで自分の外から自分に何かをさせる強い力のようだ、と言うのです。
この罪の力の強さについてパウロは絶望的です。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう・・・だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(7:24)
けれども、この絶望から救ってくださるのが、神さまであり、イエス・キリストなのです。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(7:25)。
悪いとわかっていても、人を傷つけるとわかっていてもやってしまう、その力はとても強いのですが、神さまのお力、イエス・キリストのお力は、それにまさる、というのです。(い)