2023年7月23日
2023年7月23日
神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。(ローマの信徒への手紙9:16)
「自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」とありますが、これは、神さまが、好みや気分で、ああこの人は大事にしよう、ぎゃくに、この人には関わらないでおこう、と区別している、ということではありません。
そうではなく、わたしたちは神さまに愛される資格がないとまわりから思われたり、自分でも思ったりしているけれども、それにもかかわらず、神さまはわたしたちを愛してくださる、ということです。
わたしたちは、神さまに愛されたいと強く思い、必死に努力したから、その結果として、神さまに愛されるのではなく、神さまがわたしたちを愛そうと思ってくださるから、神さまが愛してくださるから、わたしたちは、神さまに愛されているのです。ただただ、神さまの深い愛(憐れみ)ゆえに、わたしたちは神さまに愛されているのです。
自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。(ローマの信徒への手紙9:12)
神さまの「自由な選び」とは「きままな選び」「気まぐれな選び」「くじ引きのような選び」のことではありません。
神さまはわたしたちを救う計画を立ててくださいましたが、神さまは、わたしたちが何をしたとかしないとか(=「人の行い」)に左右されることがないのです。
神さまがご自分のふところにわたしたちを呼びいれてくださる(=「お召しになる」)のは、ただ、神さまがわたしたちを無条件に愛してくださるからなのです。
わたしたちがたとえどのような人間であっても、神さまはわたしたちを受け入れてくださいます。愛してくださいます。認めてくださいます。
わたしたちはこのことを知り、心が震え、深い慰めを覚えます。そして、この神さまを信頼しようという思いが心に深く刻み込まれるのです。