2023年8月13日
2023年8月13日
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ローマ12:2)
何が神さまの御心なのか、神さまは何をお望みになるのか、お喜びになるのか、御言葉に聞きながら、また、祈りながら、考える。これは、とても大切なことです。
けれども、お昼はうどんにしようか、それともそばにしようか、というようなことにまで、神さまの御心を求める人は、あまり多くはないでしょう。
上の聖書の言葉の中で、パウロは「何が神の御心であるか」という言葉のあとに、「何が善いことで」と続けています。つまり、神さまの御心は「善」に関わることではないでしょうか。また「完全なこと」ともありますが、旧約聖書の「シャローム」は「平和、平安、本来の姿、完全」という意味がありますから、ぎゃくに、この「完全なこと」という言葉には冷徹な完璧さではなくまるい円のように皆が平和であることという印象があります。
「うどんか、そばか」という選択には「善」や「平和」はあまり関係なさそうですが、わたしたちが神さまの御心に従えますようにと祈り求めるべき時は、このように「善」や「平和」に関わる場合なのかもしれません。
あの人に言葉で傷つけられた、強い言葉で言い返したい、という時、神さまの御心はどこにあるでしょうか。自分の意見をはっきり述べることは大切ですが、相手をねじ伏せるような言葉は、神さまの御心にそうでしょうか。
ある人がどうしても赦せないことをした、はっきりと断罪したい、とわたしたちが思う時、神さまの御心はどこにあるのでしょうか。正しいことは大切ですが、正しいことのためには、どんな手段も許されるのでしょうか。
そもそも、わたしたちだけが正しくて、相手には正しさはないのでしょうか。このような時こそ、わたしたちは、神さま、あなたのシャロームがこの場にあらわれますように、わたしたちがあなたのシャロームの御心にかなうためにはどうしたらよいでしょうか、と祈り求めましょう。(い)