2024年2月11日「自尊心に訴える」
2024年2月11日「自尊心に訴える」
自尊心に訴える
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(ヨハネ3:10)
最近、私は勧められてボイストレーニングに通い始めました。ある優れたクリスチャンの声楽家と知り合い、祈りのうちに主の導きを感じたので教えて頂くことにしたのです。ところが正直なところ、私には歌うことに対する情熱が乏しく、ただレッスンの日だけ行って歌う週が続きました。どんなレッスンでも日々の個人練習こそ上達のカギで、ただレッスンに通うだけではあまり意味がありません。ところが、ある日その先生の一言で私は変わりました。今では毎日約30分、教えられた発声練習を続けています。その一言とは「あなたは、それができる人であると、私は知っていますよ」。すなわち先生は私の自尊心に訴えたのです。こう言われてはサボるわけにはゆきませんよね(苦笑)。
冒頭の箇所は一見、イエス様がニコデモに失望し、呆れて浴びせた罵声のように見えます。けれども私はそうではないと思います。イエス様はニコデモの自尊心に訴えかけたのです。
イエス様とニコデモとの対話は初めから噛み合っていません。けれどもこの対話の背後にはニコデモの葛藤がありました。彼は神の国に入ることだけを望みつつ、律法に忠実に生きてきたのです。けれどもイエス様は「律法の延長線上に神の国があるのではない。新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」とおっしゃったのです。ニコデモはショックでした。今までの生き方を手放せなかったのです。彼は「ひとは年をとってから、もう一度母の胎に入れますか?」などとトンチンカンなことを訊いていますが、これは質問ではなく彼の抵抗の表れです。イエス様は、そんなニコデモに対し、深い愛情と期待を込めてあの一言を発せられたのです。「あなたはイスラエルの教師ではないか!」
自尊心、プライドは、しばしば私たちの霊的成長を妨げるやっかいな肉的性質の代表格と言われます。確かにその通りです。けれども一方で正しいアイデンティティ(自己理解)も大切なのです。「私には誇るものは何もないけれど、私は神によって選ばれ、神の子とされたのだ」という自覚と誇りは、私たちの生き方を高貴な聖いものへと導くのです。(よ)