2024年4月7日「天の父の心を知って生きる①」
2024年4月7日「天の父の心を知って生きる①」
天の父の心を知って生きる①
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(出エジプト20:3 口語訳)
先週、礼拝説教で「律法は天の父の心」と申し上げました。そして私たちは「義とされるために」ではなく、祝福された人生のために「十戒を見つめて生きる」ことをお奨めしました。そこで今週から十戒を取り上げてみたいと思います。
律法の中心は十戒であり、その第一番目がこの戒めであるということは、これがいかに重要な戒めであるか、ということです。私たち人間は、何かを礼拝するように創られています。もちろん本来創造主なる神を礼拝するように創られたわけですが、アダムが罪を犯して以降、神ならぬものを神として礼拝する誤った生き方が人類に蔓延してしまいました。神ならぬものを神とする、とは他の宗教、他の神々だけでなく、いわゆる無宗教の人々もすべてです。実のところ、すべての人は何かを神として生きているのです。ただそれを「神」あるいは「礼拝」と呼んでいないだけで、誰もが何かを神とし、何かに仕えて(礼拝して)生きているのです。
さらに人は自分が仕えている存在の奴隷になります(Ⅱペテロ2:19)。まことの神に仕えるならば「義の僕」となりますが、神ならぬものを神とするならば「不法の僕」となるのです(ローマ6:19)。
では、まことの神を信じる者とされた私たちにとっては、この戒めは無関係なのでしょうか? いいえ、そうではないと思います。私たちキリスト者も常に「神ならぬものを神(第一)とする誘惑」にさらされているのです。主の御心に従おう、主の御声を聴こう、とするよりも、自分の考え、自分の願いを優先したい、、、この葛藤が常に私たちの内側で起こってきます。それをパウロはローマ書7章で赤裸々に告白しています。
それでは一体、私たちはどうすれば良いのでしょうか? 十字架の主イエスを見上げるのです。そしてこの葛藤から目を背けることなく、我が内におられる御霊に頼るのです。私の肉(努力、決心、熱意、、、)は何の役にも立ちませんが(ヨハネ6:63)、御霊に導かれるなら、豊かな御霊の実を結ぶ人生となります(ガラテヤ5:22)。誰のためでもない、私自身の人生の祝福のために、聖霊様の導きを求めましょう。(よ)